SNSで謝罪に変化が!? 日米仏の謝罪事情考察。
Society & Business 2024.02.14
SNSでもテレビでも、セレブが謝罪している姿を見ることが増えた。昨今の世相を読む。
illustration: Pavel Ignatov/Shutterstock
セレブの謝罪がトレンド化?
2023年秋、ドリュー・バリモアが悔恨の表情を浮かべ、目に涙を浮かべながら平謝りした。これは映画のワンシーン? いや現実だ。いまや人気トーク番組の司会者となったこの女優はなぜ公開謝罪を行わなければならなかったのだろう。それはハリウッドの脚本家ストライキの最中に、自分の番組を再開すると発表し、みんなの連帯を乱したからだ。その発言はすぐにSNSで炎上し、彼女は「ストライキ破り」と認定された。『E.T.』で一躍有名になった元子役スターは固く団結したコミュニティーの裏切り者となったのだ。
数日後、彼女は謝罪を発表し、自分の行動を正当化するものは何もないと非を認めた。
アシュトン・カッチャーとミラ・クニスも、受難の道3.0を体験した。複数のレイプ事件で起訴された友人ダニー・マスターソン(懲役30年の有罪判決を受けた)を支持する手紙を裁判所宛に書いたところ、SNSで非難が殺到したのだ。ふたりは「手紙がレイプ被害者に与えたであろう苦痛」を述べる反省動画を公開しなければならなかった。
これは特異なケースではない。テレビ司会者のジミー・ファロンやエレン・デジェネレスも、程度の差こそあれ、現場から「気分屋」とか「ハラスメント」と糾弾され、謝罪に追いこまれた。俳優のウィル・スミスは、アカデミー賞授賞式でクリス・ロックに平手打ちを食らわせ、後にSNSや動画でしおらしく謝った。
無責任な態度は嫌われる。
カメラの前で公開謝罪することでセレブが悔い改めた(はずの)姿を見せることはある意味、おきまりのパターンになりつつあるようだ。毎週のように、些細なことで謝罪会見をするセレブを見かける。
『Corps sous influence(原題訳:影響を受ける身体)』(L'Harmattan刊)の著者、マリーヌ・クルゼによれば、「こうした発言はひとつの文化的な変化を反映していると言える。MeToo運動などで大衆の見る目は変わった。人種差別、性差別、同性愛者嫌悪的な行為は以前、ある程度見過ごされていたが、いまでは許されないものとなった」
なんらかの失態を世論が指摘して攻撃し、鉄槌を下す速度もアップした。MCBGコンセイユ・エージェンシーの会長であり、コミュニケーション・コンサルタント、パリ政治学院の教授でもあるフィリップ・モロー・シュヴロエも、「セレブはもう無責任でいることができない」と言う。セレブの振る舞いに不快感を感じると、大衆はすぐに謝罪を求め、SNSは民衆の法廷と化す。
こうなるとセレブ側の選択肢は3つだ。弁明するか、謝罪するか、放っておくか。多くは2番目を選択する。この「悔い改める」姿勢は何を意味するのだろうか? 哲学者のクリスチャン・ゴダンは「1990年代以降、"悔い改める"とは、過ちを犯したことを表明し、改悛の情を公で発表し、許しを請うことを指すようになった。それは、さかのぼれば宗教的、政治的、法的な起源を持つ。カトリック教会で悔い改めるとは、罪を犯して神を怒らせたことに対する心からの激しい悲しみであり、二度と罪を犯さないという願いと結びついている」と言う。
さらにゴダンは、悔い改める行為は「神への愛と、これ以上罪を犯さないという意思に基づく」"痛悔"と、「神を怒らせたことへの後悔を表明しながらも、罰や地獄への恐怖からの」"不完全痛悔"に分類されることも指摘した。(1)
セレブの場合
今日、悔い改めるために祈ることはなくなったが、それでもユダヤ・キリスト教のイデオロギーの中で、痛悔の概念はしっかりと根づいている。謝罪することは罪の赦しを得ることを意味する。罪悪感を軽くし、謙虚さと共感を示すための謝罪なのだ。
公に償いをすれば、赦しへの道が開かれる。「ただ、口先だけの後悔と、心の底からの謝罪には隔たりがある」と哲学者のクリスチャン・ゴダンが言うとおり、どうやって本物と偽物を見分けるのか? 心から悪いと思っている人と、罰への恐れで謝罪を口にする人をどう区別するのか?
「今日、地獄に落ちることを恐れる人はいない。その代わり、大衆の支持や市場を失うことを恐れている」とゴダンは指摘する。スペクタクルの社会において、謝罪は危機的状況に対処するための一般的な演出方法となった。問題を解消し、犯したミスを帳消しにするために使われる、まさにプロパガンダやコミュニケーションの武器となったのだ。
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泣いて詫びる。
日本で謝罪は名誉に関わる問題で、トップが非を認めるという形を取る。技術的欠陥を理由に自動車をリコールしたトヨタ自動車の豊田章男会長から、福島原子力発電所を運営する東電の社長に至るまで、大企業の経営者は皆、謝罪の経験がある。その場合、ダークスーツを着て神妙な顔でおじぎをする。頭は直角まで下げたほうがいい。ひとつの部署にせよ、企業、政府あるいは国全体にせよ、責任はトップにある。
なお、公に謝罪する場合、心から反省していることを示すために泣くことをためらわない人もいる。その反省が本当であろうとなかろうと。だがオーバーすぎると逆効果だ。涙の告白の中でもとりわけすごかったのは2014年、日本のある議員による謝罪会見だ。気持ちを抑制した懺悔が伝統の日本で、この議員は嗚咽し、叫び、涙を流しながら横領したことを謝罪した。取材陣とカメラの前で3時間続いた会見ショーは、感動を通り越して驚きと失笑しかもたらさなかった。動画は世界中を駆け巡り、50万人以上のインターネットユーザーが視聴した。このヒステリックな悔恨はパロディとしてアニメ化されたが、議員が詐欺罪で3年の実刑判決を受けるのを防ぐことはできなかった。
アメリカ流謝罪
アメリカでは痛悔の念を示すことが昔からおこなわれてきた。プロテスタント的な宗教イデオロギー、贖罪、赦し、そしてセカンド・チャンスに彩られたこの国で、痛悔は文化の一部であり、私生活もその対象となる。
ビル・クリントン元大統領がモニカ・ルインスキー事件で、妻と国民に嘘をついたことを謝罪したことは記憶に新しい。タイガー・ウッズは妻を裏切ったことを謝罪した。ジョージ・W・ブッシュ元大統領が涙を浮かべながら、青春の過ちを謝罪したこともある。
ハリウッド、そしてアメリカの政治やスポーツの世界で公の場での謝罪は、広報のエキスパートによって巧みに演出される。これらのエキスパートは"スピン・ドクター"と呼ばれ、怒っているコミュニティ社会をなだめるために適切な言葉を選ぶ術に長けている。
以前は文書による声明文で十分対応ができた。SNSの爆発的な普及により、いまや動画が最終兵器だ。#apologiesのハッシュタグがつく謝罪動画はTikTokで750万ビューに達している。なかには「心からの謝罪動画を作るため」のハウツーをウェブサイトで提案し、ビジネスとして成り立たせている人さえいる。
「本当に謝罪していると信じこませるためにあの手この手が使われているが、本当なんかじゃない」とビジネスリーダーニュース誌の「デシドゥール・マガジン」の編集長、リュカ・ジャキュボヴィックは切って捨てる。カメラの前で涙を流しての真摯な告白さえ、信用し難い。
ホンネを好むZ世代が台頭してきても、それで真摯な謝罪が増えたわけではなく、これまでの芝居がかった"真実を語る会見"に代わり、もっと生々しくて荒削りの演出がされるようになっただけなのだ。つまり、これまではオプラ・ウィンフリーのようなプロによる高視聴率番組で、たとえばサイクリストのランス・アームストロングがドーピングを反省する姿が映しだされた。いまやスターたちは、アメリカの人気テレビキャスターの前で懺悔するよりも、自らの情報網を通じて直接メッセージを伝えることを好む。
この壮大なコミュニケーション活動において、タイミングの問題は極めて重要だ。謝罪が遅れれば遅れるほど、人々に受け入れてもらうのは難しくなる。「SNSとオンライン・メディアは、危機コミュニケーションプロセスを加速させている」と指摘するのは危機管理のプロ、オピニオン・バレー社長のヴァンサン・プレヴォストだ。「素早い行動で火が消えるとは限らないが、さらに広がって制御不能になるのを防ぐことはできる」とも。
セレブたちは、嵐をうまく切り抜け、回避するために広報のプロに頼る。SNSを日々ウォッチングしていれば、こうしたプロたちは何か起きた場合、どのぐらいの反応が起きるかを見極め、数時間のうちに対応策を準備することができる。「我々は考える手助けをするが、代わりにしゃべることはしない」と専門家のMCBGコンセイユ・エージェンシーの会長、フィリップ・モロー・シュヴロレは役割を説明した。
フランスの場合
失敗もある。ミラ・クニスとアシュトン・カッチャー夫妻は最近の謝罪会見で、見た目には気をつけたが(夫妻はTシャツ姿で化粧もせず、自宅の壁の前らしき場所に登場した)、中身が良くなかった。
「レイプ事件で起訴された友人を支援する手紙を書いたことは謝罪せず、この手紙が被害者を傷つけたかもしれないことを謝罪した。つまり、この動画は感情に訴えず、純粋に過ちを認めたわけでもない。ややドライな説明に終始し、弁護士がしゃべった方がよかっただろう。アドバイザーが良くなかったのではないかと思う」とフィリップ・モロー・シュヴロレは辛口の採点をした。
また、独断で行動してしまう人物にも注意が必要だ! フランスの大物政治家、フランソワ・フィヨンは、妻のペネロペと2人の子供に関する架空の雇用疑惑で「カナール・アンシェネ」週刊紙のすっぱ抜きに遭った。だがフランソワ・フィヨンはすぐに反論せず、曖昧な立場を取りつづけた。
10日間で疑惑は膨れあがり、結果としてフィヨンは反論と謝罪を織り交ぜたアクロバティックなテレビ出演を余儀なくされた。謝罪はあまりにも遅く、しかも問題の本質に触れていなかった。彼は妻や子どもたちと仕事をしたことは認めたが、彼らの仕事が架空のものであった可能性にはふれなかった。その結果、彼の言葉は完全に信用を失い、謝罪も役に立たなかった。このお粗末な危機管理は、いまや一部の専門スクールでダメな対応例として教えられるほどだ。
このケースはまた、フランスで公の場での謝罪がどう捉えられているかを明らかにしている。「フランス人は謝罪しないし、おそらくセレブが公に謝罪することも期待されていない」とフィリップ・モロー・シュヴローは言う。「その代わり、否認する文化がある。この国ではよく、権威をひけらかす形で反撃することを好む」。防御の文化とでも言おうか。それは政教分離の結果、宗教というものが国民にあまり浸透していないからかもしれない。「フランスでは許す文化がない。しかもアメリカほど "セカンド・チャンス "のストーリーを語ることにも慣れていない。許されないのなら、謝る必要もないではないかとなる」
しかしSNSの爆発的な普及によってフランス人の行動も徐々に変容し、アメリカのように公の謝罪を行う人が増えてきた。その謝罪が真摯なものであるかどうかは別だし、アメリカのショービジネス界が得意とする、涙ながらの懺悔にはまだまだ及ばないが。何であれ、許しを得るためには、真摯さが必要だ(もしくは真摯に見えなければならない)。多少なりとも真摯さを感じさせるための手伝いを専門家はしてくれるが、なにもかもやってくれるわけではない。とどのつまり、これは2つの感情の出合いなのだ。そして誰も結果を予測することはできない。どこを目指せばいいのだろう。それは多分、魂の癒しだ。
(1) 記事「Excuses et Attritions publiques : une nouvelle mode inquisitoriale(タイトル訳:言い訳と公の不完全痛悔:新たな異端糾問しい詮索好きなファッション)」、クリスチャン・ゴダン執筆、2011年4月13日発行「シテ」誌(No.45)掲載(Puf刊)
text : Caroline Hamelle (madame.lefigaro.fr)