モザイクの街「ラヴェンナ」へ。 ヴィザンティン様式と美貌の「テオドラ妃」
昨年夏のことですが、憧れのラヴェンナ地方に行くことができました。
子供の頃から、東西文化が融合するモザイクの街に惹かれていて、イスタンブールやグラナダ等と並び、ずっと行きたかった場所のひとつ。
宗教の影響を色濃く受け栄華を極めた街は、単調ではないエキゾチックな趣があり、子供ながらにも、激しく旅情をかきたてられたのかもしれません。
とはいうものの、
20代の頃、同僚達とミラノやフィレンツェなどイタリアの他都市には数えきれないほど行っているにもかかわらず、アクセスがあまり良くないからなのか、ラヴェンナだけはずっと後回しになっていました。
さて、ラヴェンナの歴史を少し紐解くと、
402年、西ローマ帝国首都がミラノからラヴェンナに遷都されたことで、地方都市から一変、ローマ帝国皇帝にふさわしく、威厳のある壮大な都市として変貌を遂げます。
多くの教会や聖堂などが建立され、キリスト教芸術が開花。西ローマ帝国最後の首都として繁栄しましたが、476年に滅亡。
その後は東ローマ帝国の総督府が置かれたこともあり、首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の影響を受け、煌びやかなモザイク絵画などが多数制作され、ヴィザンティン文化、東方芸術が繁栄することになったのです。
さて、ボローニャから車で1時間ほどで、お目当ての教会「サン・ヴィターレ教会」に到着。
簡素な外観とは異なり、内部の主祭壇は豪華絢爛。
下の中央の女性こそ、私が今回最も鑑賞したかった「テオドラ皇后」
世界史の教科書などにも掲載されているので、ご覧になったことがあるかと思いますが、
東ローマ帝国皇帝「ユスティニアヌス一世」妃で、妖艶なサーカスの踊り子(女優とも)から、皇后にまで上りつめた、美貌の女傑です。
諸説ありますが、
ユスティニアヌス一世がまだ帝位につく前の40歳前後、10代のシングルマザーだったテオドラに一目ぼれし、瞬く間に虜となります。
寿命の短かい時代ではありながらも、この年代にして既に人生の辛酸をなめ尽くしていたテオドラは、その美貌のみならず、機知にも富んだ聡明さで魅了します。
野心家の彼女にとって、王道コースまっしぐらの純真な彼を、手玉に取るなどたやすいもの。
とはいえ、
身分制度の厳格なこの時代、皇帝の後継者と、貴族でも富豪令嬢でもない女性との婚姻など許されるはずがありません。
なんと、
彼は当時の皇帝であった叔父に泣きついて懇願し、法律を改定。晴れて結婚に至ることになったのです。
歴史は繰り返す!
自身の離婚、再婚のためにカトリックを離脱、英国国教会を作ってしまったヘンリー八世を思い出します。
こんな私物化、現代では許されるはずはありませんが、何が機動力なのか、婚礼にかけるセレブリティの情熱にだけは、ほとほと感心しますね!
さて、会いたかったテオドラをじっくりと観察。
まだ日本は古墳時代だというのに、この精密さ、いかがですか。
テオドラや周りの女性たちが身に着けているエナメルや真珠等、数々の宝石の輝きや、ドレスの重厚感、テキスタイルのリッチな質感が十分に伝わってきます。
メイク?目力も迫力あります。
しかも、
彼女のマントゥーの裾に描かれているのは「東方の三博士」で、名実共に皇后を象徴する風格あるデザイン。
天井知らずのアッパーな人生を謳歌し、当時のファッショニスタでもあった彼女の存在感、威圧感が溢れ出ているようですね!
そして、こちらが、「ユスティニアヌス帝の行列」
先ほどの女性たちの煌びやかな衣装に慣れてしまったので、目がすっかり疲弊してしまい、なんとなく地味な印象に映ります。
実際の政治面でも、テオドラのサポートや助言を得て、公私ともに熱愛し続けたのだとか。
そういえば、
10年ほど前に、ファッショントレンドとして「ヴィザンチンスタイル」が流行したことを思い出しました。
多くのブランドから、デコラティヴでドラマティックな、まるで美術品のようなドレスなどが、こぞって発表されましたが、ルーツは、このテオドラにあるかもしれません。
21世紀になっても、テオドラは色褪せることなく、今尚、世界中を魅了しているのですね。
他にも、
ハイジュエラーが、デザインソースとして取り入れた礼拝堂のモザイク絵画なども、多数鑑賞してきましたので、またご紹介します。
どうぞお付き合いください!
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