映画監督・齊藤 工について、聞かせてください。 高橋一生 「言葉で説明し合わなくてもいい人だと感じた」

Culture 2018.02.20

映画を愛する俳優・斎藤 工が、映画監督・齊藤 工として初長編作に挑戦、2018年2月初旬よりシネマート新宿にて公開中だ。2月24日からは劇場数を拡大して全国にて順次公開される。この最新作『blank13』は国内外の映画祭に招聘され、6つの賞に輝いた。
齊藤 工とともに映画を創ったキャスト&スタッフに聞いた「映画監督・齊藤 工ってどんな人ですか?」 現在書店に並んでいる「フィガロジャポン」の最新号2018年4月号でのコメントに加えて、こちらではほぼ全コメント、紹介します!

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—松田コウジ役を演じるにあたって、こんな準備をしてほしいなど、具体的なリクエストは齊藤監督からありましたか?

何もなかったです。台本をいただいただけでした。

—高橋さん自身は、どういう役作りをしようと考えていましたか?

特に、役作りもしなかったんです。最初に読ませていただいた台本からも変わっていきましたし……コメディやシリアスというようなシンプルなパッケージングの映画にしてしまうのは違うかもしれない、という考えは伝えました。悲喜こもごも、すべてがごちゃまぜになっているのが生々しくてまさに人生、と僕は思うので。

—葬儀のシーンで、映画が転調するのがおもしろいと感じましたが。

僕は転調と思っていないんです。楽しいことと悲しいことって、人生の中でミックスされていると思いますし。工さんともそんな話をしましたが、表現の仕方や使う言葉は違っていても僕たちが向いている方向は同じだと感じました。

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高橋さんと齊藤監督は、(撮影現場で)あまり言葉は交わさなくても、互いにわかり合っている印象を受けた、とサオリ役の松岡茉優さんからコメントをいただきました。

本来、監督と俳優はあまりしゃべらないほうがいいと僕は思っていて。俳優は芝居で見せるべきだと思いますし、それを言葉で表現すると途端に陳腐なものになってしまう。工さんは、最初から“会話しなくてもよい人”だと感じていました。
好きな映画でわかり合う、ということってあると思うんです。「『インディアン・ランナー』が好きなんです」、「わかります」というだけで、互いがわかるというか……。『インディアン・ランナー』の兄弟がとても好き、『ガタカ』のこういうところが好き、というような会話を工さんとしたんです。『ガタカ』は近未来を描いているけれど、本質的な部分で人間の感情が描かれている映画。けれど、「サスペンス」として受け取られているのが、とてももったいないと思っていて。パッケージングとしてSFサスペンス、というふうにレンタルビデオ屋で分類されているのを見ると違うと感じます、と話したんです。そんな話から、「直接的なことを話し合わなくても、本質的なことに触れられる」という印象を最初の出会いから持ちました。

撮影の「現場」で演技に対してリクエストはありましたか?

言葉としての説明的なリクエストは、ほぼほぼなかったです。「ここに立つ、っていうのでどうですか」、くらいです。コウジと父親が話す屋上のシーンの撮影の時、「ジュースを持っていてください。そこにリリーさんがいて。それで流してみますかね」。そんなことだけです。演出の意図を直接説明するような言葉での指示はなかったです。

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齊藤監督の「言わない、という意図」なのでしょうか。たとえば、先の質問への高橋さんがおっしゃっていた好きな映画にまつわる話とか、もしくは引用や例として色彩であればこんなふうにとか。屋上シーンのこと以外に、何か現場で監督の意図を感じたエピソードはありますか?

「(13年間会わなかった父親とコウジの病室の再会シーンで)映さないようにしようと思っているんです、父親の変わり果てた姿を。一生さんの表情だけでわかるようにしようと思います」とだけ言われました。工さんの、この作品は空白を大事にする映画でありたい、という意図だったと思います。
たとえ話をすると、「これが白である」と説明されても、人それぞれで、その人の思う「白」がオフホワイトなのか、ぱっきりした白なのか、クリーム色なのか、定義が異なると思うんです。それが多少違っていても、総括して「白にしていける」工さんの監督としての大らかさと同時に、監督としての強さも感じました。僕はすごく安心して、工さんは白と言っているだろう、と予想して「僕の白」を出せたように感じています。

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—齊藤監督は、人によって接し方は異なりますか?

僕と似ている部分があるような気がするので、いい意味で自在に使い分けている印象はあります。そういう在り方を、僕はとても肯定しているんです。自分自身がどこまで他者との境界として存在しているか、と考えると、どれもこれも自分みたいだ、と思うことが増えてきて。工さんも俳優として演じたり、監督として演出をしたりすることを通じて、「自分自身が何者でもない」、ということに感づいている気がします。齊藤 工という人間が他者にも存在している感覚を持っているから、演出も自我を出さずに相手を生かして総括できる。他者と自分の隔たりをはっきり感じてしまうと、お芝居することも演出もそうですが、邪魔になってしまう気がするんです、自分がありすぎるから。「自分が何者でもない」という感覚を持てば、限りなく「誰か」になれる。僕自身にはそういう感覚があるんです。
映画をたくさん観て、いろんな人を見ている工さんだから、自分のアイデンティティだってしっかり持っている。けれど他者に譲っていくことで自身のアイデンティティを表現する、という方法をすでに発見している人、という印象です。

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観察者としての優れた視点を齊藤監督は持っている人と思うのですが。

サイコパスといわれる人に取材するうちに、自分もサイコパスになってしまった医者の話を聞いたことがあるのですが、工さんは観察しながらも、相手に呑まれずに、そこに存在する、という感じです。現場での演出もそうです。画角など技術的なことでは指示がありますが、先ほどの屋上シーンの例でも言ったように、俳優に対しては「ここにいるような気がするんですよ」という提示の仕方です。
時々、「どういう理由でこれをやったの?」と聞いてくる演出家の方もいるんです。けれど僕は、そういう質問をすることって本当に正しいのだろうか?と思ってしまう。人間って反射的な生き物であって、意図的じゃない。いかに演じる側にその意図を気付かせないようにして進めるか、は大切なことだと思っているんです。
工さんは提示のスタイルとして、「こういう演出ですよ」と言語化しない。僕も「こういうふうに演じようと考えています」、と語るのが嫌です。言葉にした途端に鮮度が失われていってしまう。まず提示して、そこに何が生まれたか。お芝居の提示のスタイルとしては、まず見せて、受け取ってOKであればそれでいい。「白だ」、というよりも、「その白い感じだといいですね」、と言ってもらえるほうがいい。そういう監督と俳優との関係性が作れる方は、人生でもほんのわずかしか出会っていません。

—俳優・斎藤 工と監督・齊藤 工で異なると感じますか?

あまりにも作為がなくて。切り替えの境界がないんです。とても自然に俳優になったり監督になったりします。そういうことが撮影現場で目の前で行われていました。

—完成した『blank13』を最初に観た時、どう感じましたか?

とてもシンプルな話だということはわかっていたけれど、それだけシンプルにそぎ落としていたからこそ、観客を前にして見えてくるべきところが見えていないとまずい、と思っていました。ですが、あますところなく映っていました。とても素敵な映画に参加させてもらえた、とうれしく感じました。観客が、葬儀に参列する気持ちも味わえるし、お母ちゃんにもなれるような作品になっている。主人公がいちばん語らない、というタイプの映画でもあったから、むしろ作品への移入はしやすいと思いました。エピソードとエピソードの間が意図して空白化されていて、キャッチボールなどがキーワードとして挿入されている。読経の時には笑っちゃいけない感覚とか、葬儀の大きさに差があることとか、普遍的な日本人の遺伝子に語りかけてくるような描写も多い。畳の部屋、アパートの造り……どこかで見たことがあるような風景が、単に切り貼りされているような印象に見せておきながら、実はとても緻密。作為的にディテールが作られているのに、無作為に見える。観客の感情に直接的に訴えるというより、観客は、翻ってどういうことなのか?と感じたり考えたりできる。意図した空白があるからこそ、観客は作品に移入しやすいと思います。

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それに画角も、人間が(普通に日常に)見ている視線や視点に近い感じがします。外の風景は引きが多いし、葬式の場面ではバストショットが多いし、人間の普通の目線がある。お母ちゃんの事故のシーンも。
ただ乾いているんです。なのに、生々しくぬるっとしている。

—齊藤監督にいま、どんな言葉をかけたいですか?

一緒にこの時間を共有できたことを、感謝したい。撮影後に工さんと別の場所でお会いした時に、ここから先は余生です、と言いきったくらい。いままでの自分はもう死んでもいいかも、と思っちゃいました。もちろんこれで死ぬ、ということではなくて、違う自分に今後なっていかなくてはならない、と思ったんです。あの時の僕が全部やりたいと思ったこと、工さんがやりたいと思ったこと、それらをすべて受け入れてくださった。これで一度ピリオドなんです、僕にとっては。

—今後、また齊藤監督と組めるとしたらどんな映画を作りたいですか?

『blank13』みたいな作品もいいですけれど、意図が丸見えな作品もいいかもしれないです。家族の話でもいいですし。『blank13』の兄弟の話にフォーカスしてもおもしろいかもしれない。商業ベースを意識せずに、何もしゃべらなくても成立するような映画とか、トーキーになる前の映画とか。実験的なことをやってみたい。日本の映画の手法や定義を度外視して、工さんの世界観そのままの映画を一緒に作ってみたいです。

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「齊藤工 活動寫眞館」について

ISSEY TAKAHASHI
1980年12月9日生まれ。映画、ドラマ、舞台など多方面で活躍。2017年にはドラマ「カルテット」(TBS)、大河ドラマ「おんな城主 直虎」(NHK)などに出演。現在、連続テレビ小説「わろてんか」(NHK)が放映中のほか、映画『嘘を愛する女』が公開中。映画『空飛ぶタイヤ』は6月15日公開予定。



映画『blank13』は家族の物語である。妻と息子ふたりを残し忽然と消えてしまったひとりの男=父親と、残された家族が、13年後、父が余命3ケ月の状態で息子(次男)と再会し、逝き、葬儀へといたる。その過程を、登場人物たちの心の経緯をなぞるようなかたちで表現された映画である。実話を軸にしている。

『blank13』
出演/高橋一生、松岡茉優、斎藤 工、神野三鈴、佐藤二朗、リリー・フランキーほか
監督/齊藤 工
2017年、日本映画/70分 
配給/クロックワークス
シネマート新宿にて公開中、2月24日より全国順次公開
Ⓒ2017「blank13」製作委員会  photos : LESLIE KEE
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