「子を亡くした悲しみ」、どう向き合う?

Culture 2021.02.18

Netflixで、映画『私というパズル』の配信が始まった。赤ちゃんを亡くした親の悲哀に光を当てたコルネル・ムンドルッツォ監督の問題作。周産期(出産前後の期間)に子どもを亡くした親の悲しみと心の闇――パリ郊外クラマールでアントワーヌ・ベクレール病院産科に所属する臨床心理士ジュスティーヌ・プロタンに、この映画が取り上げた特殊なテーマについて話を聞いた。

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コルネル・ムンドルッツォ監督のNetflixオリジナル映画『私というパズル』で、ヴァネッサ・カービー演じるヒロインは分娩から数分後に赤ちゃんを亡くす。photo : Netflix

赤ちゃんの死という、言語に絶する苦しみをテーマにした映画の配信がNetflixで始まった。ハンガリーのコルネル・ムンドルッツォ監督による『私というパズル』は、自宅出産で、分娩の数分後に我が子を亡くしたカップルが負った傷と、彼らの悲哀の過程を描く。監督自身の経験も反映したこの映画は、妊娠中の胎児死亡、分娩時の死産、生後1年未満の乳児死亡といった周産期の死を経験した親の苦しみという、これまでタブー視されていたテーマを取りあげている。

フランスでは毎年、出生1000人あたり7人の新生児が亡くなっている。クラマール市のアントワーヌ・ベクレール病院で産科の専属臨床心理士を務めるジュスティーヌ・プロタンは、5年前から、心理的なケアを必要とする妊婦、とりわけ子どもを亡くしたカップルをサポートしている。そのプロタン氏に、子どもを失うという苦しみの特殊性と、親たちの心の闇について話を聞いた。プロタン氏は、より適切な支援を提供するために、医療関係者の育成が緊急課題だと言う。

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周産期の死がこれまで描かれてこなかった理由

――映画「私というパズル」は、子ども、より正確には赤ちゃんを亡くすという究極のタブーに光を当てました。この主題がこれまでほとんど語られてこなかった理由はどこにあるのでしょう?

私たちの社会では死そのものが一般的にタブー視されています。周産期の死にそれが一層顕著に現われるのは、出産はおめでたいものという紋切り型のイメージがあるからです。妊娠はすばらしい出来事で、人生でもっとも美しい瞬間だ、と。

しかし、いつもそうだというわけではありません。忘れられがちですが、たとえば妊娠中のエコー検査は子どもの性別だけでなく、胎児の発育に異常がないかを診断するために行うものです。医学的人工妊娠中絶後のカウンセリングでは、かなりの数の親が、子どもに異常が見つかる可能性を一度も考えたことがなかったと言います。妊娠3ヶ月までは流産のリスクが高いということはよく知られていますが、この時期が過ぎれば万事順調だと思う人が多いのです。

そのうえ妊娠中は特有の心理的メカニズムが働いて情緒不安定になりやすく、認知機能に乱れが生じることもあります。いわば感情が死角を作り、胎児の病気や死産の可能性を考えないようにしてしまう。赤ちゃんの死はあまりにむごい、理不尽な出来事であるために、子どもの死を受け止めることができないのです。生まれる前に亡くなった場合はなおさら。生まれたばかりの子を失った男性や女性を定義する言葉がないのも重要な問題です。

――映画では、自宅出産をサポートした助産婦に対して両親が訴訟を起こします。赤ちゃんを失った責任者を捜し出そうとするのは、親にとってサバイバル反応のひとつなのでしょうか?

かなりの数のカップルにこうした行動が見られます。予期しない流産(後期流産や子宮内胎児死亡)や分娩時に死亡した場合は特にそうです。

精神的に限界を超えてしまうと、想像を絶する出来事について考えたり、そのことで被った傷を癒すために、何が何でも答えを見つけようとしてしまう。悲劇を引き起こした張本人を捜し出すことは、自分自身が抱える罪の意識を軽減するための絶望的な試み。特に母親に多く見られる反応です。

女性は妊娠が判明したその日から、自分の子どもを守る必要を感じます。赤ちゃんを亡くした女性は自分には欠陥がある、子どもを守れなかった自分に”母親という世界”の一員になる資格はないと思ってしまうのです。周産期の死に直面した女性の大多数が、自分に責任があるのでは、と何度も自分を問い詰めたと言います。「子どもが亡くなったのは、私が何を食べたせい、何をしたせい、何をしなかったせい?あるいは何を考えたせいなのか?」と。心の中の罪悪感に押し潰されないために、罪悪感の「外在化」という反応が、悲劇を起こした犯人を捜すといった形で表れることがあります。

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見えづらい“親としての”苦しみ

――映画では、赤ちゃんが亡くなって数か月間、母親はほとんど喋りません。それに対し父親はむしろ口数が多い。これは意外でしたか?

確かに話す、つまり感情を言語化することは、一般的に母親に見られることが多いのですが、逆の場合もあります。体験とはとても個人的なものです。映画を見ると、両親それぞれが歩んできた人生が、悲しみに対する反応や受け止め方にいかに影響しているかがわかります。

たとえば母親の反応には、子どもの頃の育てられ方、つまり彼女自身の母親が、意識的かつ無意識的に彼女に伝達したことが関与しています。結局彼女は、夫の命令と母親の命令の間で板挟みになってしまう。

夫は妻に、感じていることを言葉にするよう絶えず求めます。夫自身がそれを必要としているからです。母親は、責任者を見つけ、お金を取り返し、不正を正し、子どもが亡くなったのは自分の責任ではないと世間に証明しなさいと娘に説教する。娘が子どもの死に沈黙をもって対峙していることが、彼女にとっては耐え難いのです。

――子どもを亡くした親の中には、周囲の人たちへの不満を訴える人もいます。自分たちの苦しみを理解してくれない、と。

多くの場合、親はまず自分の中に閉じこもります。母親が妊娠をまっとうできなかったという屈辱に苛まれるのはこの期間です。

家族や世間とのつきあいは徐々に再開されます。家族や友人の支援が最も重要という人もいますが、周囲の反応が害を及ぼす場合もあります。映画もその辺りをかなり過激に描いています。父親と、とりわけ祖母が、母親の代わりに何でも決めようとしますが、こうした子ども扱いは喪に服すプロセスを横取りすることでもあり、耐え難いこと。無意識とはいえ、彼女には正しい決断ができない、と絶えず通告しているわけです。その背後にあるのは、“正しい”反応と、間違った反応があるという考えです。

もちろんそんなことはありません。自分たちの苦しみを否定する周囲の人は、親たちにとって耐え難い存在であり、彼らは二重の痛みを被ることになります。身近な人の言葉の中には、親の心を深く傷つけるものもあります。「まだ若いのだから、また子どもができるよ」といった言葉は、かえがえのない“この”赤ちゃんを亡くして悲嘆に暮れる親にとっては聞くのもつらいものです。

――特殊なことだけに、親の悲しみを想像するのはとても難しい……。

その通り、ひどい出来事です。高齢者なら「幸せな人生を送った」と思うことで死を受け入れられますが、子どもの死を同じように考えることはできません。生まれる前に亡くなった場合はなおさら。

世間から親としてまだ認知されていないカップルの、“親としての”苦しみ。それを理解する手がかりを周囲の人は持っていませんし、彼らが失った子どものことを具体的に思い浮かべることもできません。この世に生き、思い出もある人の不在や悲しみは想像できても、生まれてこなかった子どもの死を悼む気持ちをどう想像すればいいのでしょう。また、死が「近づいてくる」と、人は怖さを感じるものです。まるで死に感染力があるかのように。ですから大抵、周りの人は死が伝染しないようにと用心します。

結局、悲劇が一段落すると、みんなはそれぞれ自分のことに戻ってゆき、親だけが空虚感と不在感と納得できない思いとともに取り残される。それゆえ自分たちの苦しみに耳を傾けてくれる人を求めている親たちには、支援ネットワークが必要になるわけです。

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ヴァネッサ・カービー演じる主人公のマーサ・ワイス。 photo : Netflix

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周囲はどう接すればいいのか

――悲しみに沈む親たちにどう接していいかわからないという人は少なくありません……。

そうですね。だからこそ、どういう接し方をしてほしいかをそれぞれに尋ねることが大切です。触れられたくないという人もいますし、むしろ聞いてほしいという人もいます……。

普通、話さなければいつか忘れて、元気を取り戻すだろうと考えるものです。ただし話さないことで孤立感や理解してもらえないという気持ちが募り、よけいに辛い状況になってしまうこともあります。「前に進まないと」という人も多いですし、何か特定の手続きを踏めば元気を取り戻せると思いがちですが、残念ながらありきたりの気休めにすぎません。

喪の悲しみを生き抜くことは、しばらくの間、苦しみと共に生きること。立ち直るのはそれからです。失った人への過剰なほどの思い、それを経て初めて、ようやくほかのことにエネルギーを向けられるようになるのです。それは忘却とは違います。苦しみを伴った感情的負荷が薄らいでいくことです。

――祖父母の反応はどんなものでしょう?

祖父母の苦しみも軽んじてはいけません。子どもの誕生は祖父母も楽しみにしていたわけですから。産科ではカップルに対するケアは行われますが、祖父母はその中に加われないため、疎外感が生まれるようです。

多くの場合、祖父母は赤ちゃんに対面することもできないし、自分たちの子どもが悲劇に遭遇して苦しむ姿を見るのも辛いことです。祖父母は悲しい思いをしつつも、当事者ではないため外側で見守るしかありません。

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子の死から、日常に復帰するまでのプロセス

――周産期の子どもの死に遭遇した親の悲嘆はどのような過程を経るのでしょうか?

まずは茫然自失です。あまりに強いショックのため感情が嵐のように襲い、脳がフリーズします。告知の瞬間は、凄まじい、激しい衝撃に襲われます。医療関係者の言うことがまったく耳に入らない。精神的麻痺の状態です。

その後、否認、怒りといった段階が続きます。現実の時間と心理的時間は同じではありませんから、普段の精神機能を取り戻すまでには時間がかかります。映画では、母親は悲しみのあまり自分の気持ちを外に出すことができず、まるで悪夢の中にいるような、綱渡りの時期を送ります。彼女が初めて涙を流すのは、娘が亡くなる前、誕生時の写真を見たときです。まるで子どもの具体的なイメージ、痕跡が、彼女に失ったものを思い出させ、それまで凍りついていた感情を溶かしてくれたかのように。写真のおかげで像が結ばれたことで、子どもが本当に存在したのだと言えるようになったのです。

――亡くなった赤ちゃんと対面することは親にとってつら過ぎるのではないでしょうか?

逆にとても重要なステップだと話す人が多いですね。それだけでなく、赤ちゃんを抱く、分娩室で一緒に過ごす、服を着せる、出産祝いのプレゼントをあげる、こうしたことを通して、亡くなった赤ちゃんの出産という痛ましい瞬間を改めて人間的なものにするのです。外形に異常があると聞いて、異様な姿を想像してしまう親もいます。しかし彼らがその瞬間に出会うのは、まぎれもなく自分たちの子どもなのです。異常なものではありません。こうして彼らは小さな赤ちゃんの親になるのです。育てることは叶わないものの、それまで話しかけ、動くのを感じてきた、間違いなく現実に存在していた、自分たちの赤ちゃんなのです。

――実際に子どもに会わない場合にはどんなリスクがありますか?

幻のイメージに囚われてしまう危険があります。苦しく異様なイメージであれ、素晴らしいイメージであれ、外の世界に再びエネルギーを注ぐための妨げになります。とはいえ子どもに会わないという選択肢も尊重するべき。面会を親に強制することはよくありません。すでに存在するトラウマに、また別のトラウマを加えることになりかねません。

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パートナーとの向き合い方

――映画には、職場に帰った主人公の女性に、同僚たちが同情に満ちた目を向ける場面があります。「日常生活への復帰」はもうひとつの試練であるように思います。

仕事への復帰に不安を覚える人は多いですね。母親の場合、妊娠22週以後であれば、16週間の産休を取っている人もいます。人の目や反応、哀れみを受けるのではないかという不安。それは思い過ごしではない場合もあり、彼女たちにとってこれほど耐えがたいことはありません。

同僚だけでなく、隣人、つまり広い意味でいう他人は、お腹の大きい彼女たちの姿を見ています。子どもと一緒ではなく自分だけで家に戻ったときに、みんなに何と言ったらいいのでしょう。

妊娠期間中、妊婦はほとんど公的な存在になります。いろいろな人が自分なりのアドバイスや、自分のエピソードを言いたがりますが、出産はとりわけプライベートな分野に属する事柄なのです。私が診ている母親たちの大半は、仕事に戻りたい、でも理由を説明したくはないと言います。

――この映画は子どもの喪失というテーマの中では語られることの少ない、“カップルの崩壊”にも焦点を置いています。こうした状況に出会うことは多いのですか?

この出来事を乗り越えられないカップルももちろんいますが、私の経験では多くのカップルが別れることなく、やがてまた子どもを得ています。

パートナーはそれぞれ、悲しみの体験のしかたは当然違います。多くの場合、彼らはこの極限の状況を力を合わせて乗り切っていきます。やがてそれぞれが独自の苦しみに向かい合い、自分なりのやり方でものごとを「観念化」する時期が訪れます。悲嘆のプロセスは孤独な個別の道のりです。

よく見られるのは、男性が妻をサポートする場合です。カップルで面談に訪れると、男性たちは「ここに来たのは妻のためです。何よりも妻のことが心配です」と言います。逆に女性の中には、パートナーと悲しみの表現方法が違うこと自体を訴える人もいます。「私ひとりで苦しんでいる感じがする。彼が仕事に戻ってからは、ふたりでこの出来事について話すこともなくなってしまった……」。体験の強度は人によってかなり異なる場合があるため、お互いに気持ちを理解し合えなかったり、怒りの感情が相手に向かうこともあります。

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ヴァネッサ・カービーと、亡くなった赤ちゃんの祖母役を演じたエレン・バースティン。 photo : Netflix

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子どもを亡くした悲しみ、どう支援する?

――タブーがなくなりはじめた今、家族の支援環境を改善するためにどのような課題が残っていますか?

産科退院後の支援体制が非常に不足しています。私たちの病院では、後期流産、子宮内胎児死亡、医学的人工妊娠中絶、新生児死亡に当たるすべての入院患者に対して、退院から2~3週間後に少なくとも1度は面談を受けるよう提案しています。

しかしその後、産科以外で、彼らのためにどのような支援が用意されているでしょうか? カップル自身が自力で何とかしているのが現状です。彼らを受け入れる窓口が非常に少ない。子どもを亡くした母親に話し合いの場を提供する組織や団体はいくつかありますが、周産期死亡の1000人に7人という数字に対して、少なすぎるのが現状。またこうした組織は、パリ周辺のイル=ド=フランス地方やフランス北東部グラン・テスト地域の大都市に集中しています。産科には必ず専門のカウンセラーが常勤することになっているとはいえ、もっと数を増やす必要がありますし、精神科医や周産期専門の児童精神科医との連携にも力を入れるべきです。

また、助産婦や産科医をはじめ、あらゆる専門分野の医療チームで研修を行うことも大切です。そして、計り知れない悲嘆による精神的負担のケアという点では、産業医の役割も重要になります。周産期医療の現場における精神的支援体制の整備はかなり進んできたとはいえ、周産期死亡体験者への支援の質を高めるために、特に人材や資金の面でやるべきことはまだまだ残っているのです。

texte : Ophélie Ostermann (madame.lefigaro.fr)

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