エリザベス女王、95年の歩み。

Culture 2021.04.24

1952年に即位した時、世界最年少の女王だった彼女は、ご先祖ヴィクトリア女王の記録を抜いて、在位期間の最長記録を更新中。95歳の誕生日を迎えたばかりのエリザベス女王の、生きる伝説をひもといてみよう。

【写真】写真で振り返る、エリザベス女王の人生。

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厳しいしきたりの後ろに隠れているのは、信念はもちろんだが、簡素な好みとチャーミングな人柄も持つ、ひとりの女性だ。photo:Abaca

2015年9月、エリザベス女王は、ご先祖ヴィクトリア女王の63年216日という記録を抜いて、最長在位記録を更新した。去る4月21日に95歳の誕生日を迎えた女王は、歴代最年長の英国君主でもある。コロナウィルス対策が続く中、誕生日は、ウィンザー城で身内だけで祝われた。

エリザベス女王は、時を経ても人気が下がることなく、国民の大多数の敬愛を集め続ける数少ない国家君主の一人。長年の間に、王家の問題は国民の問題となり、大英帝国の残影は植民地からイギリス連邦に変わったが、王室の華やかさと王家の儀式は、インターネット、フェイスブック、インスタグラムとツイッターを取り入れた王室と仲良く調和している。モードを発信することはないが、エリザベス女王は時代を取り入れ、歴史の激動の中でも、王家の安定と継続を体現しようと努めてきた。スコットランド独立に関する国民投票や、ブレクジットにつながった2016年6月23日の国民投票などの王国の危機には、英国はいつも、女王を中心に団結してきた。

昨日は確かに見えたものが、今日は疑問視され、ぐらついて見える世の中にあって、95歳のエリザベス女王は、確かな立ち位置を体現する存在。60年以上の間に、彼女は大理石のように冷たく確かな存在となり、国家がそのアイデンティティとモラルを守りながらさまざまな試練を乗り越えることを可能にしてくれる国家遺産となった。1952年の即位以来、エリザベス女王は100以上の公式訪問、複数回の世界ツアーに出かけ、50万もの褒賞を与え、バッキンガム宮殿の庭に100万人以上の人物を迎えた。毎週火曜日の午後6時には、ウィンストン・チャーチルからボリス・ジョンソンに至るまで、15人の歴代首相が女王の元を訪れた。彼女は国の永遠性を体現する存在。君臨すれども統治せず。そしてその象徴的な役割は「問いかけられ、勇気づけ、忠告する」にとどまっている。

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国の定めをはるかに上回る権力

現実には、エリザベス女王の力は、国の定めをはるかに上回るものだ。時を超越した不変の姿勢で国民全体とともに歩む女王の役割と、乗馬と犬と田舎を愛するミドルクラスの女性のイメージ。その繊細なミックスが、英国を奥深くから体現している。彼女の仕事の本質は、公式セレモニーを司ることでも、王家の神秘性を守ることでもない。

また、死ぬまで息子に譲ることなく守り続けるであろう、先祖から受け継いだ王冠を擁護することでもない。ウェストミンスター寺院での戴冠式で聖油を受けた者として、彼女は玉座の上で最期を迎えるのだ。それもなるべく遅く。「Long to reign over us(御代の永からんことを)」と英国国歌「God save the Queen」が歌っているのだから。エリザベス女王にとって、95歳の誕生日を迎えても、その義務に少しも変わるところはない。1947年4月21日、21歳の時に、南アフリカから国民に向けた演説で約束したように。「皆さんの前で、長いと短いとにかかわらず、私の全生涯を、皆さんのために捧げることを誓います」。

リリベットの個性

1926年4月21日にロンドンのピカデリー145番地で誕生した幼い王女エリザベスは、ある日英国の王座に就くことになろうとは予想されていなかった。エリザベス・アレクサンドラ・メアリーは、国王ジョージ5世とメアリー女王の次男ヨーク公アルバート王子を父に、スコットランド貴族出身のレディ・エリザベス・ボーズ=ライアンを母に持つ。推定相続人となったのは10歳の時。1936年12月、国王ジョージ5世の逝去後に跡を継いだエドワード8世が、ワリス・シンプソンを妻に迎えるために退位する道を選び、エリザベスの父のヨーク公がジョージ6世として王位につくことになったのだ。ジョージ6世夫妻は、1930年8月にもう一人の王女、マーガレット・ローズに恵まれていた。一家は一体となって王家のしきたりを守り、国王は常に、愛情を込めて家族を「私たち4人」と呼んだ。

女王は愛情を込めて、二人の王女の教育を見守った。王女たちは、ナニーのクララ・ナイト(愛称アラ)やマーガレット・マクドナルド(愛称ボボ)、家庭教師のマリオン・クロフォード(クロフィ)に懐いた。赤毛のスコットランド人女性マーガレット・マクドナルドは60年の長きにわたってエリザベス女王の近くに仕えた。また、マリオン・クロフォードは16年間王家に仕えたが、その思い出を出版するという過ちを犯した。その中で彼女は「リリベットは個性が強いが、それを制御することを知っていた」と書いている。それはチャーチル首相が、エリザベス女王との最初の会見について妻のクレマンティーヌに語った言葉にも通じる。「彼女は威厳があり、まるで思慮深い子どものような雰囲気がある」。子ども時代のエリザベスは、学識とは程遠く、自然の中で馬と犬と、家族に囲まれ、厳しい義務の観念を培った。

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エリザベス、登録番号230873

1937年5月12日、父のジョージ6世の戴冠式で、王女エリザベスは、自分が将来女王になるという運命を自覚する。この時、彼女は、手首を優雅にねじるように群衆に挨拶する、彼女特有のジェスチャーを取り入れた。1940年のロンドン空襲の間、王家は危険に立ち向かう。国の士気が低下し、10月13日、後継者である王女にラジオでの発言が求められた。「我々子どもたちは、信じる心と勇気を持っています…戦争の危険と悲しみを分かち合う努力をしましょう。きっと最後には、良き終わりが来るのですから」。

自らも戦争への協力をしようと、エリザベスは登録番号230873を得て、国内の補助勤務につきたいと父を説得、トラックの運転と、メンテナンスのために働いた。勝利の時、国王ジョージ6世は長女の模範的な行動を誇りとし、また、フィリップ王子の魅力から遠ざけることも決意して、エリザベスを王の巡回大使に任命する。彼女は女王の職務を、現場で習得することになった。

2021年4月9日に99歳で亡くなるまで、70年以上も連れ添うことになる生涯の夫に、エリザベスが恋に落ちたのは、わずか13歳の時のこと。1939年7月22日、ダートマスの海軍兵学校を訪問したジョージ6世夫妻は、二人の娘とともに、王家のヨット、ヴィクトリア&アルバート号の船上にいた。

この日、ロイヤルファミリーを案内したのは、ヴィクトリア女王を母方の曽祖母に持つマウントバッテン卿。ヨーロッパ中の王家に親戚を持つが、軍隊で戦績をあげ、バッテンベルグの名をイギリス風にマウントバッテンに変えたにもかかわらず、ヘッセン家出身のドイツの2流貴族の子息と見なされていた人物だ。彼は王家とのつながりを生かして、18歳になる甥を売り出そうとしていた。

背の高いブロンドの、フィリップ・オブ・グリース&デンマーク王子は、マウントバッテン卿の姉アリス・オブ・バッテンバーグとギリシャ王子アンドレアスの息子であり、王立海軍兵学校の士官候補生だった。王女たちの家庭教師クロフィが、「やや気取り屋で無遠慮なところがある」という評価を残しているものの、北欧の血を引くフィリップ王子の姿は、プリンセスたちを魅了してやまなかった。

国王夫妻は、中耳炎にかかっていた娘二人をマウントバッテン大佐の家に残して出かけていった。フィリップ王子は二人の王女を相手に電気機関車で遊ばせたり、クロッケーやテニスで遊ばせた。ここでもクロフィは、彼について「なかなか尊大だ」と書き記している。

王女エリザベスは彼のスポーツ万能な姿にすっかり魅せられてしまう。フィリップは王家のヨットでの昼食に招待され、クラスメートとともにヴィクトリ&アルバート号をボートでエスコートする際にもボートを漕ぎ続けた。なぜなら、エリザベスが双眼鏡で彼を見つめているのを知っていたからだ。「なんというばか者!」王女の心臓が高鳴っている間、国王は唸っていたに違いない。

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ドイツ人、文無しのフィリップ・オブ・グリース&デンマーク。

戦時中は英国海軍の士官となり、休暇でウィンザー城を訪れると、フィリップ王子の魅力は女心を悩ませた。「あまりに魅力的で、自分でも気づかぬうちに誘惑してしまう」と言ったのは、フィリップ王子のいとこで、後にジョージ6世の義理の妹、ケント公爵夫人となったマリナ・オブ・グリース。フィリップは別の目でエリザベスを見るようになり、二人は秘密のうちに文通を始める。

一部の人にはドイツ人だと言われ、無国籍だ、文無しだという人もいた。だが戦時中にはイギリス海軍で勇敢に戦ったフィリップ王子は、1946年3月にギリシャの王家が再建されるのを慎重に待ってイギリスに帰化。ロンドンでもわかりやすいように、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルクという名字を英国風のマウントバッテンに改名した。

1946年夏、バルモラル城を取り巻くスコットランドのロマンティックな景色の中で、エリザベスにプロポーズ。すっかり恋に落ちていたエリザベスは、父のジョージ6世の意見を聞くまでもなく、即座に承諾する。

フィリップ・マウントバッテン大尉との婚約は、国王一家の南アフリカへの長い公式旅行の後、1947年7月10日に公式に発表された。国王は長女が家族の元を離れていくのを悲しげに見つめていた。

ウェストミンスター寺院で結婚式が行われたのは1947年11月20日。その数日前、フィリップは王国の公爵の爵位、グリニッジ男爵、メリオネス伯爵、エディンバラ公爵の爵位を受け、名誉あるガーター勲章も授けられた。花嫁の装いは、アイボリー色のサテンに真珠の刺繍の施された、星モチーフの4.6mのトレーンを引くドレス。まだ配給切符が使われていたこの時代、政府の援助も受けて、花嫁はお気に入りのクチュリエ、ノーマン・ハートネルにドレスを仕立ててもらうことができたのだ。

セレモニーの後はバッキンガム宮殿へ戻り、興奮に包まれた群衆に向かって、バルコニーで挨拶。マウントバッテン卿夫妻のハンプシャーの住まい、ブロードランドでハネムーンを過ごす娘に、国王ジョージ6世は素晴らしい手紙を書き送っている。「あなたをとても誇りに思い、ウェストミンスター寺院で長い距離を一緒に歩いたことを嬉しく思うがために、まるで非常に大切な何かを失ったような気持ちがしています。ミサの間、あなたはとても静かで確信に満ちていた。しっかりと誓いの言葉を述べられたから、何もかもうまくいくだろうとわかっています…あなたの旅立ちは私たちの暮らしに大きな空白を残しますが、あなたの昔の家族は、いつでもあなたのもの。できるだけ頻繁に、長い間、戻ってきていいのだということを覚えておいてください」。エリザベスとフィリップの結婚の最初の2年間は、確かに、二人の人生で最も幸せな時間だっただろう。結婚式の3ヶ月後、王女エリザベスは懐妊する。

しかし、二人には家がなかった。クラレンス・ハウスが二人に割り当てられていたが、工事には18ヶ月が必要だとされた。それを待つ間、二人はバッキンガム宮殿に居を構える。そこはブラウニング将軍が、チャーチル首相が養成した私設秘書ジョック・コルヴィルとともに仕切る次期国王の家だった。コルヴィルは、1948年5月のエリザベス王女夫妻のパリ訪問をオーガナイズした人物だ。

だが、フィリップ王子は、海軍でのキャリアを犠牲にして、毎朝決まって海軍本部に通う公務員になるつもりはなかった。とはいえ、彼が再び船に乗るまでには、1948年11月14日のチャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ王子の誕生、さらに1949年6月のクラレンス・ハウスへの引っ越しを待たなくてはならなかった。

クラレンス・ハウスでは、夫妻の寝室は別とはいえ、直接行き来できる構造になっていた。1949年10月、エリザベスが公務に少しずつ慣れていく一方、フィリップはマルタ島にベースを置く地中海船団のリーダー、チェカースの副司令官に任命される。

エリザベスは息子をロンドンの国王夫妻の元に残し、マルタ島の夫の元に数週間滞在し、士官の妻としての普通の暮らしに近い幸せな日々を過ごした。買い物をし、お茶を飲み、踊り、ゴルフをし、ビーチを歩き、ピクニックをオーガナイズする…1950年春に再びこの地を訪れた彼女は、二人めの赤ちゃんを懐妊。戦艦の指揮を取るという夢を実現することなく、フィリップは子どもの誕生のためにロンドンに戻る。1950年8月15日、王女アン・エリザベス・アリス・ルイーズが誕生した。

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世界でいちばん若い女王

海軍への復帰が長くは続かないことを、フィリップは知っていた。肺ガンを患う国王ジョージ6世の健康状態は急速に悪化していた。1950年末のギリシャ滞在、51年4月のローマ公式訪問、そして何度も延期を重ねたカナダとアメリカ合衆国への公式旅行を10月に終え、王女エリザベスはあらゆる公式文書に目を通して将来の職務に備えてゆく。

エリザベスとフィリップは、1951年12月、国王の私設アドバイザーに任命された。1952年2月6日にサンドリンガム城でジョージ6世が息を引き取ったとき、長女エリザベスはフィリップとともにケニアにいた。26歳を待たずして、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザーは、世界でいちばん年少の女王になった。公式旅行にもきちんと持参してきていた喪服に着替えると、彼女は運命に立ち向かう。ロンドン、ヒースロー空港に降り立った彼女は、首相のサー・ウィンストン・チャーチルに迎えられた。首相は、エリザベスの叔父たち、グロースター公爵とマウントバッテン卿よりも前に、女王に挨拶をした。

王は亡くなり、女王が生まれた。セントジェームズ宮のヘラルド・オブ・アームズが高らかに、女王の誕生を告げた。「エリザベス2世女王陛下は、神の恩寵により、この王国とその他の領土と王国の女王となり、イギリス連邦の長となり、信仰の守護者となり…」。聖エドワード王冠の重さに備えてきたとはいえ、儚く若きエリザベスにとって、荷はあまりに重い。1953年6月2日、ウェストミンスター寺院で、カンタベリー大司教によって戴冠が行われた。2000万人の視聴者の見守る中、聖油を受け、王位の象徴を授けられる。出席者から「God save the Queen!」の荘厳な声が上がった。

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湯沸しは絶対に忘れない

本当の政治的権力こそ持たないが、エリザベス女王が、英国でいちばん政治経験が豊富な人物であることは間違いない。毎朝、彼女は、すべての公式文書、法案、外交文書の入った、かの有名な赤い箱を受け取る。彼女の義務は、いわば国家の母を体現すること。

公の建物のオープンを執り行い、託児所や老人ホームを訪問し、船をシャンパーニュで祝福、命名し、任命し、王国の各地を駆け回って国民に会いに行き、イギリス連邦を情熱的に擁護し、1000ものアソシエーションの後援者となり、女王の名の下に戦う兵士たちを保護する。

そして、世界中の王や大統領をロンドンに迎えるように、彼女もまた、たくさんの国を訪問するのだ。毎年彼女が行なっている本当に個人的なことといえば、12月25日の午後、自分自身で書き、首相のチェックを受ける必要のないクリスマスのメッセージを読むこと。義務を全部やり終えたという気持ちになる前に床につくことはない。毎日の幾千もの秘密を語る相手は、日記帳だけだ。

彼女は、英国だけの女王ではない。エリザベス女王を象徴的な君主として戴くのは16カ国、そして、彼女はイギリス連邦を構成する53カ国の長でもある。大英帝国の終焉を生き残った、家族的、言語的とも言える連合に、女王は愛着を持ち、自治領や旧植民地のあちこちを駆け巡って60年間で210以上の訪問をこなしている…そのうちの24回がカナダ訪問だ。

公式訪問はディテールにも細心の注意を払ってオーガナイズされる。「the Queen」という黄色いステッカーが貼られたラゲージの中には、お茶を入れるための湯沸かし器や愛飲するマルバーン・ウォーターだけでなく、あらゆるイベントと儀式のための衣装一式が、スペアの手袋や、天候に合わせたおそろいの帽子の数々とともに収まっている。何しろ、女王陛下は遠くからでも、誰の目にも見えなくてはいけないのだ。

60年来の、旅行や国家主席たちとの会見という外交のおかげで、彼女は政府にとってまたとない助言者になった。エリザベス女王がフランスをこの上なく愛しているのは周知の事実。フランス語を話し、フランスのワイン、シャンパーニュを好み、ノルマンディの種馬牧場やロワールの城、ブルゴーニュを訪れている。先祖のエドワード7世が結んだ英仏協商の長い伝統。ヴィクトリア女王はウー城を訪ね、フランス王ルイ・フィリップと緊密な絆を結び、ナポレオン3世とウージェニー皇后とも近しかった。ヴィクトリア女王はビアリッツで海水浴を楽しみ、リヴィエラを流行させた人物だ。

フランスは、ヨーロッパ諸国の中で、エリザベス女王が最も頻繁に訪れた国。1957年にはルネ・コティ大統領とともにパリのオペラ座へ。72年にはポンピドゥ大統領が、欧州連合への英国の加入を祝ってヴェルサイユのトリアノン宮に女王を迎えた。92年には彼女の遠い親戚(32親等)にあたるフランソワ・ミッテラン大統領に招かれ、2004年にはジャック・シラク大統領が彼女を迎えた。その間、英仏トンネルのオープニングにも訪れている。

1960年4月にはド・ゴール将軍をロンドンで歓待し、ヴィクトリア勲章を授与。1976年の猛暑の時にロンドンを訪ねたジスカール・デスタン大統領は、ラブラドールの子犬サンバを連れて帰国した。1984年10月には、ミッテラン大統領が、1996年5月にはシラク大統領が英国を訪問。そして2008年3月にはニコラ・サルコジ大統領の妻カーラ・ブルーニ=サルコジが英国と王家を魅了した。

エリザベス女王の最後のフランス公式訪問は2014年6月6日、7日で、ノルマンディへの連合軍上陸70周年記念の時。女王とフランスの関係を要約するには、1972年にジョルジュ・ポンピドゥに向けたスピーチの一文が引用できるだろう。「互いに道路の同じ側を走らない私達ですが、同じ方向に進んでいるのです」

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フィリップは一家の主人

エリザベスは誰もが頭を下げる女王だが、プライベートではフィリップ王配、エディンバラ公が一家の主人だった。「私はただのアメーバか」と不平を漏らすフィリップ王配のために、エリザベスは、名字の問題について譲歩し、子どもたちがマウントバッテン=ウィンザーと名乗ることを受けいれた。

確かに、彼女は子どもたちよりも馬と犬たちの世話に忙しかった。確かに、1948年にチャールズ王子を、50年にはアン王女を出産してすぐに、女王としての責務に捕らえられ、王家という祭壇の上に、家族との暮しを生贄として差し出した。チャールズ王子が5歳になった時、女王は戴冠に続いて、イギリス連合のはるか遠い自治領を歴訪する6ヶ月の長旅に出発しなくてはならなかった。子どもたちのもとに戻ってきた時、彼女はチャールズにキスするのでなく、握手の手を差し出した。あふれる母性は私生活の枠に押し込めて。ただし、この家族の中で、あふれる愛情が語られるとすればの話だが…。

エリザベスは、女王の役割について自信を持ち、1960年にアンドルー王子を、64年にエドワード王子を出産したときになって、ようやく母としての気持ちを本当に持つことができたのだ。

エリザベスは、夫に子どもたちの教育を一任した。フィリップ王配のメソードは乱暴で、子どもたちは、厳しさで定評のあるカレッジや学校に送り込まれた。チャールズは、スコットランドのゴードンストウン校で苦しみ、末っ子で、兄弟のうち最も貴族的だったエドワードは海軍を逃げ出すことになる。とはいえフィリップ王配は常に、そのユーモアと研ぎ澄まされたエスプリで、99歳の生涯を閉じるまで、ファミリーの中心だった。ウィンザー城のセントジョージ礼拝堂で4月17日に行われた葬儀は、ロイヤルファミリーが一堂に会する機会となった。

エリザベス女王は家族としっかり結びついていた。毎日、母のクイーン・マザーと、妹のマーガレット王女に電話した。妹に対しては、1955年、最愛のピーター・タウンゼント大佐との結婚を禁じたことに続く感情面の不幸について、責任を感じていたのだ。時が経つと、女王は、アン王女の子どもたち、ピーターとザラ・フィリップス、アンドルー王子の娘たちのベアトリスとユージェニー、エドワード王子の子どものルイーズとジェームズ、そして祖母を愛してやまないウィリアムとハリーを得て、素晴らしい祖母としての顔をのぞかせることになる。それだけに 、孫が離れていくことは彼女を深く傷つけた。

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4人の子どもの3つの離婚

まじめなキリスト教信者として、女王は、自分自身同様、子どもたちの結婚が成功することを願ってやまなかっただろう。4人の子どものうち、3人が離婚し、そのうち2人が再婚した。妹のマーガレット王女は、60年にアンソニー・アームストロング=ジョーンズと結婚し、78年に離婚。家族の他のメンバーの同様の出来事を予感させる失敗だった。

73年11月14日、アン王女は、兄弟の中で一番早く、前年にミュンヘン・オリンピックで出会った乗馬チャンピオンのマーク・フィリップス大尉と結婚。ピーターとザラの二人の子どもをもうけるが、92年4月に離婚。ティモシー・ローレンス中佐と同年12月に再婚した。だが、メディアが「世紀の結婚」と形容したのは、33歳のプリンス・オブ・ウェールズ、チャールズ皇太子と20歳のレディ・ダイアナ・スペンサーの挙式だった。1981年7月29日、セントポール大聖堂に各国の王族が出席し、7億5千万人のテレビ視聴者に見守られた結婚。この結婚の行く末は、語るには及ばないだろう。

二人は1992年に別居(この年を、女王は「ひどい年」と表現している)、96年に離婚。その1年後にダイアナは悲劇の死を遂げ、王家は大きく動揺する。92年にはまた、息子のヨーク公アンドルーも、86年7月23日にウェストミンスター寺院で結婚した美しきサラ・ファーガスンと離婚。夫婦間の嵐もメディアの圧力も乗り越えた唯一の結婚は、1999年6月19日にウィンザー城のセントジョージ礼拝堂で結婚した、末息子エドワードとソフィ・ライス=ジョーンズだった。

2005年4月9日、チャールズ皇太子は56歳の時に、57歳になった最愛の人、カミラ・パーカー=ジョーンズと、ウィンザーで再婚を果たした。幸いなことに、2011年4月29日にウェストミンスター寺院で行われたウィリアム王子とキャサリン・ミドルトンの婚礼で、王家は輝きを取り戻す。未来の女王は史上初の平民出身という、英国王家の発展をも象徴することになった。

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キャサリン妃は「仕事をする」

エリザベス女王とキャサリン妃の年齢差は50歳以上だが、二人の間には、温かく通じ合うものがある。2013年7月22日にはジョージ王子が、2015年5月2日にはシャーロット王女が、そして2018年4月23日にはルイ王子が誕生。女王は、孫の嫁が、子どもたちの教育に自分で目を配りながら、公務をしっかりそつなくこなす姿に感じ入っているようだ。

キャサリン妃は、公務の前線に姿を見せながら、女王の敬意を勝ち取り、女王が90歳の機会に放映されたドキュメンタリーでも発言権を得ている。それは、バッキンガム宮殿のエキスパートたちが見逃さない、女王陛下お気に入りのサインだ。

キャサリン妃は巨額の費用をかけて改修したケンジントン宮よりもサンドリンガムに近いアムナーホールに住みたがる、あるいは女王がミドルトン家を鬱陶しがる、といった、二人の間の摩擦の噂とは裏腹に、女王は、キャサリン妃が「仕事をする」やり方を評価し、国民が彼女にオーラを感じることを喜んでいる。ことに、ウィリアム王子とキャサリン妃には、いつか順番が回ってくるのだから…

【写真】写真で振り返る、キャサリン妃の「お気に入り」。

女王はこれからの数ヶ月で、チャールズ皇太子のために、段階的に身を引いていく準備をしている。女王としての特権も手放さず、代理のサインもさせないが、ウィンザー城で過ごす時間を増やし、ロンドンには週に3日以上は滞在しないつもりだという。同時に、チャールズ皇太子とカミラ夫人を海外の外交ミッションへと送り出す。自分はもうアジアへの旅に出られる年齢ではないと考えて、アジアにはウィリアムとキャサリン妃を送り込んでいる。

ハリー王子と妻のメーガン・マークルは、2018年5月19日に結婚し、王家の未来に重要な役割を果たすはずだった。だがカップルは2019年5月6日に息子のアーチーが誕生すると、2020年1月には、王家との距離をとり、公務から離れたいという希望を表明した。

エリザベス女王はこの「メグジット」を1年後に認め、声明の中で、二人は「王家が愛するメンバーであり続ける」と語っているが、王家とサセックス家の間には緊張が生まれた。2021年3月には、アメリカのテレビCBSで放映された夫妻の衝撃的なインタビューのせいで、この溝はさらに深まった。

インタビューでは「会社」の中での二人の居心地の悪さや、メーガン夫人の感じた人種差別にも話が及んだ。この嵐に、女王は非常に温かな声明で答えを返した。「ハリーとメーガンにとってこの数年がどんなに困難なものだったかを知り、家族全員が悲しんでいます。提起された問題、特に人種に関する問題は、非常に気がかりなものです。記憶というものは場合によってさまざまではありますが、これらの問題は真剣に受け止め、プライベートな家族の問題として考えていきます」。それは何よりも、団結の証だ。

text:Stephane Bern (madame.lefigaro.fr)

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