仏作家が描く、ジャクリーン・ケネディの数奇な運命。

Culture 2021.06.24

グレース・ケリーとのライバル関係、JFKの暗殺、第1子の死......。ジャクリーン・ケネディ=オナシスの数奇な運命を、彼女自身の目を通して描き出した1冊。6月にフランスで処女作『From Jackie, with love』を発表した、著者エルミーヌ・シモンに、インタビュー。

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1953年9月12日に結婚式を挙げたジャクリーヌとジョン・F・ケネディ。(ニューポート) photo:Getty Images

「ジョン・F・ケネディと結婚すれば高い代償を払うことになるのはわかっていた。でもこの悲しみはそれだけの価値があるもの」

誤解のないように言っておくが、この告白はジャクリーン・ケネディ=オナシスの日記ではない。彼女の生涯をつぶさに追った著作から引用した一文だ。元ファーストレディの特異な運命に新たな光を当てた、エルミーヌ・シモンの処女小説『From Jackie, with love』(1)が6月9日、フランスで刊行された。全編を通して一人称で書かれた架空の回想録形式で、著者は独創的な試みに挑戦している。

著者のエルミーヌ・シモンは4年間、アメリカのアイコン的存在であるJFKの元妻、ジャッキーになりきって執筆に取り組んだ。彼女と同じ煙草を吸うほどのこだわりぶりだ。著者は自らの手法を「俳優の仕事」に例える。「ケネディ一族に関する当時のインタビューや映画をたくさん見ました」と彼女は話す。「ジャクリーン・ケネディ=オナシスの身振りや話し方、仕草を研究し尽くしました。ファッション史に決定的なインパクトを与えた彼女の装いを語った『The White House Years』にも目を通しました。すべてがジャッキーという人物の役作りにプラスになった」。こうした努力が主人公の心理を深くえぐった著作に結実した。ジャッキー・ケネディという謎がようやく解き明かされる。

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JFKの暗殺

ーーとりわけ語りにくいと感じた出来事はありましたか?

JFKの暗殺について書くことは苦痛でした。ザプルーダー・フィルム(1963年11月22日に起きた元アメリカ大統領の暗殺をリアルタイムで撮影したアマチュア映像)を午前中いっぱい見続け、ジャッキー・ケネディがそのときどう反応し、車の中でどういう動きをしたかを知ろうと務めました。

動画が捉えたこと、そしてジャッキーがその後に語った言葉に基づいて、この瞬間を忠実に描写したかったのです。出来事を簡潔に語るよう努めました。湿っぽいパトスに陥るのはとくに避けたかったので。

ーー「私はタイタニックのように暗い、凍った海に沈んでいった」。ジャッキー・ケネディはJFKの死後、そう語っています。著書の中では、第35代アメリカ大統領の葬儀後の悲嘆の日々が詳細に描かれています。ジャッキーはこのつらい時期をどう過ごしたのでしょうか?

当時は誰も公にはそのことに触れませんでしたが、ジャクリーン・ケネディは間違いなく心的外傷後ストレス障害に苦しんでいました。この期間、彼女は完全に打ちのめされていたものの、強靭な精神力で彼女の真価を発揮しました。数日間、自分自身の苦しみを表に出さずに葬儀の準備を進めたこの能力は驚くべきものです。

葬儀後はアルコールや薬への依存が進み、何度か自殺を図っています.......。子どもたちを心配する思いだけが、彼女を生につなぎとめていました。ここに、彼女の心底人間らしい一面が現れています。この悲嘆の日々に、彼女自身の真の姿である最も傷つきやすい部分が垣間見えています。

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ジャクリーン・ブヴィエの動揺

ーージャクリーン・ケネディ=オナシスになる前、彼女はジャクリーン・ブヴィエというひとりの女性でした。株の仲買人で遊蕩癖で身を持ち崩した父親と、社交界の付き合いに熱中する主婦を母親に持つ彼女は、どのような子どもだったのでしょうか?

自発的で外向的な、強い個性を持った子どもでした。専制的な面もあり、いとこや妹に対して、自分の思い通りにさせようとするところがありました。乗馬を習っていたことは注目に値します。乗馬は、彼女の自制心と、小さい頃からすでに持っていたコントロール欲を反映しています。しかし1940年の両親の離婚の後、子どもの頃は強い個性の持ち主だった彼女はずっと傷つきやすくなってしまいます。

ーー著書の中でジャクリーヌと妹のリーとのライバル関係に触れています。何がきっかけだったのでしょう? また、どのような形で現れたのでしょう?

あらゆる兄弟姉妹間のライバル関係のもとにあるのは、親の態度です。明らかに、娘たちの父親であるジョン・ベルヌー・ブヴィエ3世はジャッキーを可愛がり、母親のジャネット・ノートン・リーは妹の方を優遇していました。

長い間、リーは姉に対する競争心を持ち続けました。ジャクリーンが有名になったのも、彼女にとっては耐え難いことでした。JFKの死後、ジャクリーンとアリストテレス・オナシスとの交際が始まると、オナシスはリー自身がかつて狙っていた相手だったこともあり、姉妹の関係はさらに悪化しました。

ーージャクリーンはどのような思春期を送ったのですか?

メリーウッドのハマースミスファームにある、義理の父親ヒュー・D・オーチンクロスの家で暮らしていました。ほれぼれするようなお屋敷です。

思春期の頃は空想の世界に閉じこもりがちで、友だちはあまりおらず、読書や乗馬を好んでいました。この世界は彼女を現実から守ってくれたのです。あまり幸福な思春期ではありませんでした。自分はステップファミリーのなかで「おまけ」でしかないと自覚していました。

母親と再婚相手との間に生まれた、ジャクリーンの義理の弟妹であるジェームズとジャネットが父親の財産を相続することになっており、ジャクリーンが相続する分はありませんでした。

実の父親は破産していました。彼女が教育を受け、贅沢な環境で生活することができたのは継父のおかげです。彼女は上級階級の子女として育てられましたが、こうした継父の金銭的サポートがなかったら、そんな暮らしは望めなかったでしょう。

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フランスでの1年

ーー1949年に彼女は1年間フランスに留学します。彼女にとって最後の自由の時間だったといえますか?

フランスで過ごした1年は彼女の人生で最も重要な年、と本人が語っています。アメリカでは上流階級であるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの略語)の窮屈なしきたりの中で、彼女は息苦しい思いをしていました。パリの暮らしによって、本来の自分とのつながりを取り戻すことができたのです。これは本当に素晴らしい経験でした。

彼女の手紙を読むと、その興奮が感じられます。また、フランスの文化、歴史、建築に関して、多大な好奇心を抱いていたことも伝わってきます。

ーー大学最終学年のとき、ジャクリーンは雑誌「ヴォーグ」が主宰するコンクールで優勝し、同雑誌から6ヶ月間のパリ勤務を提案されています。しかし母親に反対され、最終的にこの申し出を辞退しました。どのような意味でこの決断が彼女の人生の転機となったのでしょうか?

パリ行きを断った後、彼女はしばらくの間「ワシントン・タイムズ=ヘラルド」紙で記者として働いています。頻繁に上院に取材に出かけていましたが、そこは当時上院議員だった未来のアメリカ大統領の仕事場でした。おかげで、JFKと知り合った後も、彼とのつながりを保つことができたのです。

コンクールの褒賞を受け入れていたら、有名にはなったでしょうが、政治の世界とは縁がなかったでしょう。彼女はファッションの世界で自ら地位を築き、仕事をしながらより多くの自由と幸福を手にしていたでしょう。

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運命の目配せ

ーー「同じ環境で育った若者とは」結婚しないと誓っていた彼女はこの決意を貫き、アウトサイダーであるジョン・フィッツジェラルド・ケネディと恋に落ちました。ふたりはどうやって出会ったのですか?

ジャクリーヌ・ブーヴィエがJFKに出会ったのは、共通の友人であるバートレット夫妻の家に招かれたときでした。出会った瞬間に、彼女は、彼が自分の人生を「根底から揺るがす」影響力を持つことになると感じました。その後、思春期の頃に電車の中で一度彼とすれ違ったことがあるのを思い出します。ふたりの再会にはどこか運命の目配せを思わせるところがあります。

しかしJFKはジャッキーが育った階級には属していませんでした。ケネディ家はWASP社会からかなり軽視されていた。ケネディ家はカトリック、そしてアイルランド系だったからです。ジャッキーもアイルランドの血を引いているとはいえ(母親はその事実を消すためにあらゆる手を尽くした)、彼女の家族にとっては、身分の低い相手と結婚するのとあまり変わらなかったのです。

ーージョン・F・ケネディはジャクリーヌ・ブーヴィエをどのように誘ったのでしょう?

JFKはとても魅力的な人で、知的でユーモアのセンスがある男性です。どちらもジャッキーにとって重要な資質でした。バートレット家で行われたなぞかけゲームで、ふたりはすぐに意気投合しました。いわば一目惚れのようなもの。

その後、ジャッキーは洗練された手腕で、自分の感情をストレートに伝えるのを控え、相手の方から自分に言い寄ってくるのを待ちました。相手が電話をかけてきても、出ない。相手がかけ直すのを待つ。普通の恋愛の駆け引きとは違いました。ジョン・F・ケネディは恋愛に関することはあまり得意ではなかったのです。

ーーJFKの結婚の申し込みもそのことを物語っています。とても簡単なものだったそうですね。「彼があっけらかんとした口調で私と結婚したいと言った時、彼のその無頓着な態度に、若い娘の抱く幻想ががらがらと崩れた。まるで、さっさと次の案件に移りたいとでも言うように急いでいるようだった」とあなたの本の中でジャッキーは語っています。

婚約指輪を選んだのもジョンではなく、彼の父親のジョセフでした。ジャッキー・ケネディがその事実を知ることはありませんでしたが。

JFKはとても屈託のないタイプで、それが彼の魅力でもありました。もちろんジャッキーは、彼の伴侶となって大きな苦しみを味わうことになるなど想像もしていませんでした。

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自尊心とライバル心

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(左から)ジャッキー・ケネディ、レーニエ大公、グレース公妃、ジョン・F・ケネディ。モナコ大公夫妻によるホワイトハウス公式訪問の折。(ワシントン、1961年6月12日)photo:Getty Images

ーージャッキーはグレース・ケリーに対してわだかまりを抱いていたと断言していますね。それはどういう理由からですか?

JFKは1956年のグレース・ケリーとモナコのレーニエ大公との結婚式の写真を見て、グレースは美しい、彼女なら素晴らしいケネディ夫人になっただろうと言ったのです。この言葉にジャッキーは深く傷つきました。

彼女はその後、グレース公妃に対して苦い思いを抱き続けました。ケネディ家とケリー家は、彼らが子どもの頃から思春期の頃まで親しく付き合う間柄で、ケネディがグレースにちょっとした恋心を抱いていたこともあったので、なおさらでした。グレースの存在によって、ジャッキーが愛情面で抱えるフラストレーションが表面化することになったのです。

グレースが悪いわけではなかったのですが、ジャッキーは彼女に対してかなり冷淡な態度で接しました。ファーストレディ時代には、彼女に面会するためにアメリカを訪れたモナコ大公夫妻との公式晩餐会をぞんざいに済ませたこともありました。JFKの葬儀の際に、グレースが遺された子どもたちに宛てて贈ったプレゼントも突き返しています。1960年代にグレースとすれ違ったときは、そっけなくあしらっておしまいでした。

ーーJFKの浮気には、どういう対応をしたのでしょうか?

ジャクリーンはアルコールをかなり飲みました。浮気のことでJFKと口論することもあり、浮気などなかったかのように振る舞うこともありました。時には、出て行くこともありました。

彼女によると、JFKに一番効果がある方法は、ふくれっつらをすること。乗馬に行くと言って2日間家を空け、子どもたちと田舎にこもっていました。マリリン・モンローがマディソン・スクエア・ガーデンでJFKのために歌うと知った時はホワイトハウスから出て行きました。

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真似のできないスタイル

ーーJFKの大統領当選を彼女はどう受けとめましたか?

喜び......そして大きな不安を感じていました。子どもたちが衆目に晒されたり、四六時中シークレットサービスに付きまとわれるようなことは望まなかった。

31歳で「公共財」になったように感じた、語っています。とはいえ彼女は夫の運命を妨げることはできません。ジャッキーには野心があり、夫の成功を望んでいました。それがたとえ彼女にとって大きな負担であったとしても。

ーーところが意に反して、彼女は夫の影を薄くするほどの存在感を発揮しました。彼女はアメリカ国民だけでなく、シャルル・ド・ゴール仏大統領やエリザベス女王さえも魅了しました。第35代アメリカ大統領自身、ファーストレディにここまで主役の座を奪われることになるなど想像していたでしょうか?

当初、JFKは妻のことを持て余していました。彼女のことをあまりにエリート主義的だと感じ、クチュリエたちに夢中になっていることにも不満を抱いていました。ところが選挙戦中に、彼女の人柄が人々に好感を持たれることに気づいたのです。

最終的にはパット・ニクソン(リチャード・ニクソンの妻)よりジャッキー・ケネディの方が人気を集めることになりました。デザイナーのオレグ・カッシーニの才能に負うところももちろん大きい。彼のおかげで未来のファーストレディのスタイルに人々は熱狂しました。

 

ーーオレグ・カッシーニはこの装いの政治学とも呼べるジャッキー・ルックをどうやって作り上げたのでしょうか?

デザイナーのカッシーニは、ジャクリーヌ・ケネディを一目見て、エジプトの王女を連想しました。彼女の大きな目とやや角ばった肩を賞賛していました。

オレグ・カッシーニはMGMの撮影スタジオで衣装デザイナーとして働いていた人。ですから、彼がジャッキーのドレスを考案するときのデザイン手法にも、映画的な要素があります。ピルボックス帽、パールのネックレス、大きなサングラス、テーラードスーツというファーストレディのスタイルは、ファッション史にも大きなインパクトを残しました。

ーー本の中で、ジャッキー・ケネディの人生におけるもうひとつの悲劇、長男パトリックの死にも触れています。この難しい箇所をどうやって書き上げたのでしょうか?

当時、ふたりの間はうまくいっていませんでした。ジャッキーはとても子どもを欲しがっていた。自分の実家とケネディ一族の両方から、彼女は常にプレッシャーを受けていました。息子の死を描いたこの部分には、胸に迫るものがあります。

また、ジョン・F・ケネディの無頓着さやエゴイストな面も物語っています。JFKは友人や女性たちを連れてセーリングに出かけてしまった。ジャッキーはひとり残され、赤ちゃんの死と向き合わなければなりませんでした。

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アリストテレス・オナシスの晩年

ーーJFKが亡くなった後、ジャクリーヌ・ケネディは大富豪のアリストテレス・オナシスと付き合います。この交際がこれほど非難されたのはなぜでしょう?

アメリカ国民はジャッキーを賛美していました。その彼女が彼女より2倍も年上の男と一緒にいる姿を見るのが国民には堪え難かった。アメリカ国民にとってはまるで王女様とヒキガエルのカップルを見るような思いだった。マスコミの反応はとても辛らつでした。

ジャクリーンは自分の選択を貫きました。彼女にとってオナシスは気持ちが通じ合う相手でしたが、JFKを愛したようにオナシスを愛したわけではありませんでした。また彼女の動機も不純でした。彼女にとって一番の懸案は、子どもたちの身の安全を確保すること。財産家のオナシスはそれを保証してくれたわけです。

オナシス自身は世界的に有名なこの未亡人に魅了されていました。彼にとって彼女はまるで戦利品のようなもの。元ファーストレディを妻に迎えて彼は満足しきっていました。

ーーふたりの関係は混沌とした結末を迎えました...

オナシスが亡くなる(編集部注:1975年)前から、ふたりの結婚生活はうまくいっていませんでした。晩年のオナシスは健康状態がかなり悪化していた。息子が死んだのはジャッキーのせいだと彼女を責め、ケネディ家の一員であった彼女は不幸をもたらす人物だと言い張りました。息子の死で、彼は完全に自分を見失ってしまったのです。

ふたりの文化や教育の違い、世代間ギャップは顕著になる一方でした。そのうえジャッキーに嫉妬していたオナシスの娘クリスティナも絡んでさらに複雑な状況になってしまいます。

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見出された安らぎ

ーージャッキー・ケネディの子どもたち、キャロラインとジョン・ジョンについて教えてください。

キャロラインは父親にとても懐いていました。JFKの暗殺後、まだ小さかった娘はメランコリックで控えめな少女になりました。子どもの頃のジャッキーもそうでしたが。

ジョン・ジョンはカリスマ性のある子どもでしたが、注意力に問題を抱えていた。彼の気持ちを鎮められるのは母親だけでした。

JFKの暗殺後、ジャッキーは子どもたちを児童精神科医のもとに連れて行きました。また、ケネディ一族の集まりには子どもたちを参加させないようにしました。いとこたちから悪い影響を受けないようにという気遣いからです。

ケネディ家の一員であるという事実から来るプレッシャーにもかかわらず、キャロラインとジョン・ジョンは少しずつ自信を取り戻しました。その後、キャロラインはずっとニューヨークで暮らしています。オバマ大統領から任命を受けて、一時は在日大使のポストに就きました。ジョン・ジョンは1999年に飛行機事故に遭い、妻とともに亡くなっています。

ーー波乱に満ちた日々の後、ジャッキー・ケネディは平穏を得たのでしょうか?

晩年は病を抱えながらも(編集部注:リンパ腫を患っていた)、ジャッキーはとても幸せでした。最後のパートナーである、実業家でダイヤモンド商のモーリス・タンペルマンは彼女のことを愛し、尊重していました。力関係などは一切なく、彼女の人生で最も幸福な関係でした。ふたりは互いに相手に対する敬意を持ち続けました。

それでもジャッキーが最も愛したのはやはりJFKであることに変わりはありません。彼女は編集者として、仕事の世界でも自己実現を果たしました。ジャッキーはようやく、それまで無縁だった、安らぎと平穏を見い出したのです。

(1)Hermine Simon著『From Jackie, with love』Charleston出版刊。

text:Chloé Friedmann (madame.lefigaro.fr)

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