ドイツ首相アンゲラ・メルケルの知られざる少女時代。
Culture 2021.08.31
2021年5月12日に刊行された著書『メルケル時代』で、マリオン・ヴァン・ランテルゲムは、もうじき4期目の任期満了とともにドイツ連邦共和国首相を退任するアンゲラ・メルケルの非凡な運命をたどっている。世界で最も力のある女性のひとりであるメルケルの(ちょっとだけおてんばな)少女時代について話を聞いた。

省内の審議会に出席する環境大臣時代のアンゲラ・メルケル。(ドイツ、1994年4月14日)
photo:Getty Images
「私はうぬぼれ屋ではありません。ただ男性のようにうぬぼれを利用する術は心得ています」。2005年以来ドイツ首相を務めるアンゲラ・メルケルの言葉だ。5月12日に出版された『メルケル時代』(1)の中で、著者のマリオン・ヴァン・ランテルゲムは、全体主義体制下で育った少女の非凡な運命を振り返っている。
1957年、アンゲラの父ホルスト・カスナーは西ドイツから東ドイツのテンプリンへ、妻のヘルリントとまだ3歳だった長女のアンゲラとともに移住した。移住後、夫婦の間にはアンゲラの弟妹マーカスとイレーヌも誕生する。
『メルケル時代』では、これまで明かされてこなかったアンゲラ・メルケルの幼少時代が詳しく語られている。周囲の憧れの的だった「ブルージーンズ」から、父親が勤務する神学校でのパーティ、16歳の時の「Club Der Ungeküssten(キスをされたことのない女子の会)」のエピソードなど、著者はドイツ首相の知られざる(時折おてんばな顔も覗かせる)少女時代について掘り下げている。
当時は誰ひとりとして、とてつもない運命が彼女を待ち受けているとは予想しなかった。ちょっとだけ左翼的な女の子が、男性が大半を占める世界で頭角を表し、4期15年にわたって権力の座に就き、ドイツの歴史に決して消すことのできない足跡を残したのだ。
---fadeinpager---
“天国から遠くない”幼少時代
道徳的な厳格さ、理想の高さといった点で、アンゲラは父親に大いに感化を受けています。
マリオン・ヴァン・ランテルゲム
ーーアンゲラ・メルケルの両親はどういう人たちですか?
父親のホルスト・カスナーはアンゲラの人生にとってとても重要な人物です。アンゲラの出生地でもある西ドイツのハンブルクで育ち、牧師となった父親はカリスマ的な存在でした。
ベルリンの壁が建設される前、東ドイツの市民が西側へ逃亡していた時期に、ホルストはそれとは逆の道のりを歩んだ破格な人。カスナーはテンプリンの神学生の養成に携わるポストを提案されました。彼は東側のドイツ民主共和国が掲げる社会主義的理想に共感を抱いていました。カスナーは家族を連れて1957年に東ドイツに移住。アンゲラは当時3歳でした。
父親に関して興味深い点は、ドイツ東方地域で主流であるプロテスタントを含め、東側は宗教全般への風当たりが強いことを知りながら、イデオロギー的信念を理由に東側に渡ったことです。アンゲラの母親のヘルリントはラテン語と英語の教師でしたが、牧師の妻であるために、東側では教壇に立つ権利はありませんでした。
ーーアンゲラ・メルケルはどんな子どもだったのでしょうか?
控えめで、勉強が得意な女の子。それでいて友だち付き合いも上手で、ユーモアもありました。大変な読書家で、数学はクラスでトップ。どんな教科でも優秀でしたが、スポーツだけは例外でした。不器用で体を動かすのが苦手だったのです。自分でも「運動音痴」と認めていました。
ーー両親は彼女の人格や性格の形成にどんな影響を与えたのでしょうか?
口の堅さや警戒心、慎重さだけでなく、並外れたオープンスピリットも親譲り。彼女の母親は、他者に対する興味を持った、陽気でおしゃべりな人だったといいます。
その点はアンゲラも同じで、シュタージ(編集部注:国家保安省:東ドイツの諜報機関及び政治警察を統括する省)が彼女を勧誘しようとした時も、彼女はこの気質を入省辞退の理由に挙げました。「私はとてもおしゃべりなので、絶対に秘密を守り通せないと思います」と諜報部員に言ったそうです。
道徳的な厳格さ、理想の高さ、職業倫理といった点で、アンゲラは父親に大いに感化を受けています。統治者としての彼女の形成には、プロテスタントの道徳規範が大きな影響を及ぼしています。
ーー東ドイツでは一党独裁制が敷かれていたとはいえ、アンゲラの幼少期は「天国から遠くなかった」と述べています。どういった理由からでしょうか?
これはひとつのパラドックスです。何千人もの人々が東ドイツを逃れるために命を失ったのですから。この本は思想の自由を妨げた体制の残酷さに疑問をさしはさむものではありません。
しかしアンゲラはある意味、特殊な世界で生きていた。父親はテンプリンにある、自らが勤務していた神学生養成機関の隣に居を構え、近くには障害者を支援する施設がありました。この施設は森に隣接した広大な敷地の中にあり、遊び場のような雰囲気。こうした場所が身近にあり、障害を抱えた人々と常に接する機会があったことは、アンゲラにとって非常に重要な意味を持っています。
この経験によって、人間一般、そして人間の標準的な枠から外れる部分に対する鋭敏な感受性が磨かれたのです。
---fadeinpager---
神学校でのパーティ
独裁体制下でありながら、アンゲラはある意味、保護された世界で生きていました。
マリオン・ヴァン・ランテルゲム
ーー当時、カスナー家は山羊の乳を絞り、庭のイラクサを採って調理していました。一家は貧困世帯だったのでしょうか?
カスナー家は金銭的に裕福ではなく、暮らしは質素でした。アンゲラに贅沢への嗜好が完全に欠落しているのも、こうした家庭環境によるものです。
とはいえ子ども時代の彼女はある種の特権を享受していました。彼女の家族はよそに比べて文化的に恵まれていました。家の中には多くの本があり、西側のテレビ放送を受信することもできました。私が面会したアンゲラの長年の友人のひとりは、アンゲラの家に行って、彼女の両親と話をするのが大好きだったと語っています。カスナー家には知的な雰囲気が満ちていた。アンゲラの父は、非常に冷静で、やや威圧感さえありますが、長女の友人たちに対しては温かく接しました。
ーー学生時代のアンゲラは人気者だったのでしょうか?
取材の過程でアンゲラやその友人たちの写真を見る機会がありました。ヴァカンスやキャンプに出かけ、パーティを楽しんでいたようです。アンゲラは父親の許可を得て牧師たちの研修室を借りて、新年パーティを開いていました。
異性との付き合いでは奥手だったようです。級友たちの証言では、16歳のアンゲラは「CDU」、つまりキスをされたことのない女子の会のメンバーだったそうです。とはいえ、友人たちからは慕われました。いまもそれは変わりません。
人生を楽しむことを大切にし、ワインとチーズを愛しています。フランスの大統領、とくにニコラ・サルコジとジャック・シラクをよく見習っていますね。誠実な人でもあります。友人たちは、いまでも近況を尋ねるために、忙しいスケジュールにもかかわらず、彼女の方から連絡を取ってくれると言って驚いています。
ちなみに官邸スタッフとも強い信頼関係で結ばれています。最も近しい間柄の顧問のなかには、10年あるいは20年前から彼女と行動を共にしている人たちもいます。
ーー思春期の頃、「アンゲラのジーンズ」は級友の間で羨望の的だったと書かれています……。
親戚の一部がハンブルクに留まっていたので、西ドイツから届くプレゼントもありました。かの有名なブルージーズンズもこうして贈られたもの。
ジーンズは当時、東側では誰もが欲しがる貴重品のひとつでした。東ドイツで製造されていたのは模造デニムを使った偽物で、違いは一目瞭然でした。西側の本物のブルージーンズは人々の目にとても素晴らしいものとして映っていました。アンゲラの当時の数学の教師はいまも、みんながうらやましがったジーンズのことを覚えています。
要するにアンゲラは保護された世界で育ったのです。シュタージが周囲を巡回していることは知っていましたが、いわば閉ざされた世界の中で生活することで、そうした状況に甘んじていました。それが一変したのは、ライプツィヒで物理学を学び、その後東ベルリンで研究者になった時です。東ドイツの独裁体制という現実に彼女は直面したのです。
---fadeinpager---
“困窮する人々を前に、彼女は手を差し伸べる”
難民危機の際に彼女が取った態度は、壁の向こうの貧しい側で育った経験と結びついています。
マリオン・ヴァン・ランテルゲム
ーー独裁時代の東ドイツで生活した経験はアンゲラの未来の政治をどのように鍛え上げたのですか?
そのことが彼女の中に、ある種の慎重さをもたらしました。アンゲラは言葉数が非常に少ない。それはプロテスタントの価値観に加え、隣近所の住民さえ信用できなかった東ドイツでは自然と口数が少なかったという事実に由来するものです。むやみに人を信用せず、時間をかけてお互いを知ってから交流するのが普通だったのです。
彼女はまた法治国家と自由への愛を心の中で育み続けました。どちらも奪われていたからこそ、こうした愛が芽生えたのです。
2015年の難民危機は彼女のキャリアの山場にあたりますが、壁の反対の貧しい側、鉄条網の向こうで幼少期を送った彼女の経験と深く結びついていると思います。そのことが彼女にさらに人間味を与えました。恵まれた場所に生まれなかったばかりに、生きるために国境を越えようと望む困難な状況にある人たちを前にしたら、彼女には手を差し伸べる以外のことはできません。
ーー若い頃からすでにアメリカに惹かれていたというのは本当ですか?
アンゲラは壁の向こう側の独裁体制下で幼年時代を送り、そのことは彼女に強い影響を及ぼしました。彼女はこの体制が瓦解し、壁が崩壊するとは一瞬たりとも考えませんでした。
幼い頃の彼女は「定年退職したら、岩山と太平洋を見に行こうと」と考えていました。東ドイツでは、高齢者は東側諸国の外に旅行することが許可されていたからです。高齢者は危険な存在ではない、姿をくらまして抵抗運動をしたりはしないと考えられていたのでしょう。
アメリカは民主主義を奪われた者にとって、自由の国の象徴でした。彼女がアメリカに対する特別な気持ちを持っているのはそのため。しかしこれはメルケル首相ひとりに関わることではありません。民主主義の番人としてのアメリカと、世界の警察官を任じた戦後アメリカに対する敬慕は、ドイツ国民全般に共通する感情なのです。アンゲラが初めて大西洋を渡るのは1990年、36歳になっていました。
---fadeinpager---
バック・トゥ・ザ・フューチャー
ーー今日、テンプリンはアンゲラの人生の中でどのような位置を占めていますか?
まだ東ドイツにいた頃に彼女はセカンドハウスを購入しています。いわゆる「ダーチャ」です。住居は質素そのもの。赤い瓦屋根の小さな家で、調度はイケアの家具。両親が住んでいたテンプリンの家から20キロほどの場所です。
彼女の母親は昨年亡くなりました。父親は10年ほど前に亡くなっています。父親の死後、アンゲラは定期的にテンプリンに通っていました。週末には母親の面倒を見たり、買い物を手伝ったり。彼女はいまもこの地域に愛着を抱いています。湖に水浴びに行ったり、田園地帯を散歩するのが好きだそうです。
ーー彼女の旧友たちの言葉を信じるなら、アンゲラ・メルケルがこのような運命をたどろうとは誰も想像していなかったようです……。これについてどう思いますか?
子どもの頃から大統領になると言っていたニコラ・サルコジとは対照的に、アンゲラはドイツ首相になりたいなどとはこれっぽっちも思っていませんでしたし、そんな考えは頭をよぎりもしませんでした。子どもの頃は彼女がいまの立場につくとは誰も予想しませんでした。壁が崩壊し、東ドイツがなくなる日が来るなんて誰も想像しなかったように。もし彼女が政治の世界に足を踏み入れていたら、体制側に奉仕していたかもしれませんし、英雄的な離脱者となっていたかもしれません。しかし彼女はそのどちらにもならなかった。逆に、体制の監視を逃れるために科学的研究の分野に進みました。もちろんその分野での才能があったからです。独裁体制が崩壊しなかったら、彼女は東ドイツの偉大な研究者となっていたでしょうし、それで満足していたと思います。歴史の流れとタイミングが、運命を大きく変えたのです。
彼女は自分の前に開かれたこの新しい世界、国家統一の途上にあるドイツに、夢中になりました。ある日突然、政治に心を奪われたのです。政治は彼女にとって、それまで知らなかった、自由が保障された政治体制に貢献する手段だったのです。
(1)Marion Van Renterghem著『C’était Merkel』Les Arènes出版
text:Chloe Friedmann (madame.lefigaro.fr)