日本からパリのオートクチュールまで:マダム・バタフライ、森英恵の魅惑の運命。
Culture 2022.08.19
日本人で初めてパリ・オートクチュール協会に入会したデザイナーの森英恵が、8月11日、東京で96歳の生涯を閉じた。花や構造的なクリエーションを好み、東洋と西洋の架け橋となったことで、ファッション界に足跡を残した。
森英恵(ニューヨーク、1987年)photo: Getty Images
彼女は自身の作品を通して、「自然」を蘇らせた。8月18日(木)、共同通信社は、デザイナーの森英恵が8月11日に東京の自宅で、96歳で亡くなったことを報じた。1980年代から90年代にかけて一流のメゾンを創設し、「西洋」のテイストと「東洋」のモチーフを組み合わせた花柄のデザインで世界のファッションを席捲した。1980年のピーク時には、そのグループの評価額は5億ドル(約680億円)、売上高は1億ドル(約136億円)を超えていた。その証拠に、同年、東京タイムズ紙は「森英恵の名は、自動車におけるトヨタのように、婦人服における日本の代名詞となった」と評している。また、1977年に日本人女性として初めて「オートクチュール」を掲げ、そのブランドはしっかり保護・管理されるようになった。
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ガブリエル・シャネルとの出会い
森英恵は、1926年1月8日、激動の時代に島根県に生まれた。父親は外科医、母親は専業主婦だった。1996年、彼女は幼少期を振り返り、「故郷で洋服を着ていたのは私たちだけでした」と話した。1947年、繊維メーカー経営者の子息である森健三と結婚し、再び服飾を学ぶことを決意する。彼女はデザインの訓練を受け、1951年に東京で映画館の向かいに縫製工房を開いた。幸運にも、映画プロデューサーたちが彼女に目をつけて宣伝してくれた。1950年代から60年代にかけて、小津安二郎監督の『初秋』や『さらば夏の光』などの映画で、何百もの衣装を制作したのである。
さらに、1960年にガブリエル・シャネルと出会ったことが、決定的な意味を持つことになる。フィッティングの際、フランス人デザイナーのココ・シャネルは、森英恵の漆黒の髪と対照的な鮮やかなオレンジ色の服を彼女に提案した。そして、こうして彼女のブランドの美学が生まれたという。「日本人の美の概念はすべて隠すことに基づいている(...)。私は突然、アプローチを変え、女性が際立つ服を作らなければならないと気づいたのです」
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マダム・バタフライ
海のある景色、版画、書、日本の花の版画......。1977年のパリでの最初のショーで、彼女の成功の主要な要素はすでに現れていた。それは、「東洋」と「西洋」の出会いをテーマにニューヨークで行われた、彼女の初めての海外発表にも通じるものだった。パリでは「和」のドレスを次々と発表したが、肩を広げたスーツなど、「洋」のカットや柄を取り入れたモデルも登場した。そして、これらはすべて「オートクチュール」の作品である。1977年に日本人女性として初めてオートクチュール組合に入会し、当時男性中心だった他のデザイナーたちとは違った特異な存在であった。シーズンごとに、彫刻のようなカクテルドレス、透明感を生かしたドレス、そして「マダム・バタフライ」の異名を持つ有名な「蝶」モチーフのドレスなどを発表した。1985年には、ミラノ・スカラ座で上演されたオペラ「蝶々夫人」の衣装デザインも手がけた。
森英恵の最後のショーでは、彼女の愛称である「マダム・バタフライ」へのオマージュとして、蝶をモチーフにした一連のドレスが構成された。(2004年7月、パリ) photo: Getty Images
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マダム・バタフライは、彼女が道を開いた三宅一生や川久保玲といった日本の同業者と比較して、過激さはないものの、革命的なファッションを提案している。「女性に着物を着ることを強制することはできませんが、着物の雰囲気を纏わせることはできます」
西洋と日本の文化の間に対話を築き、すべての女性がそこに自分を見出せるようにすること、それが彼女のファッションの本質である。皇后雅子のウェディングドレスをデザインし、グレース・ケリー、カロリーヌ・ド・モナコ妃、ヒラリー・クリントンなど、彼女の国際的な顧客層がそれを証明している。2004年、最後のファッションショーは自ら手がけ、蝶の刺繍が施されたドレスを着たモデルたちに囲まれて観客を出迎えた。羽ばたくようなフィナーレであった。
text: Alexander Peters (madame.lefigaro.fr) translation: Hanae Yamaguchi