「ドディが気まぐれを起こさなければ、ダイアナ妃は死ななかった」ダイアナ妃の死の真相とは?

Culture 2022.09.04

ダイアナ妃は25年前の1997年8月31日に交通事故で亡くなった。ドディ・アルファイドが、父親の立てた完璧なプランを守らず変更したからだ、とジャーナリストで作家のジャン=ミシェル・カラデシュは言う。

関連写真:【写真】シャイな少女から、世界のプリンセスへ……ダイアナ妃の人生。

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パリのアルマ橋トンネルでの事故の数時間前、ホテル・リッツ・パリに到着したダイアナ妃とドディ・アルファイド。(1997年8月30日、パリ) photo: Abaca

ダイアナ妃とドディが亡くなったのは、車がスピードを出しすぎており、運転手が酔っており、ふたりがシートベルトをしていなかったからだ。ただそれだけのことだ。だが陰謀説が広まった。そこにはふたつの調査がからんでいる。ひとつは事故後にフランス警察が行った死因調査で、もうひとつは2004年に王室の要請により、暗殺「隠蔽」説やイギリスの秘密情報部MI6による「陰謀」説に関してイギリスで行われた死因究明審問だった。「事実を立証する方が簡単だっただろうが、人々は陰謀論の夢を見がちだ」と語る著名なジャーナリストで『誰がダイアナ妃を殺したか(原題:Qui a tué Lady Di?)』の著者、ジャン=ミシェル・カラデシュ(原注1)とのインタビューをお届けする。

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陰謀説は信じてもいいものでしょうか?

信じるべきではなかった。すべては偶然が積み重なった結果だ。まず、ダイアナ妃はあの晩、リッツ パリにいるはずではなかった。当初の予定では、マレ地区のレストラン、ブノワでディナーを食べるはずだったが、ドディの気が変わった。次に、あの車も使わないはずだった。これまたドディが出かける30分前になって車を変えた。全くの偶然であの車が選ばれた。さらに、あの運転手(リッツ パリの警備主任代理アンリ・ポール)も想定外だった。休暇をとっていたアンリ・ポールにドディが電話をして、かけつけたアンリはかなりの興奮状態だった(分析の結果、アンリの血中には1.74gのエチルアルコールと、いくつかの薬成分が含まれていた)。陰謀というものはあらかじめ準備して組み立てるものだろう。だがこの場合、偶然だらけだった。

「みんなドラマを見続けたかっただけだろう」

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「人々のプリンセス」と称されたダイアナ妃が交通事故で亡くなった、とみんながなかなか納得しないのはなぜでしょう。

みんながそう信じたくないから。彼女の生涯はとてもロマンチックでドラマチックだった。彼女の生涯をなぞらえるとすれば、何シーズンも続くドラマのようなもの。情熱的な場面やドラマ、スキャンダルが盛り込まれている。ただし、最終シーズンがあまりにも唐突に終わってしまった。離婚後の新しい生活、新しいプレイボーイとの関係が始まったところで......だからみんなは話を見続けたがった。そして亡くなったドディの父親、モハメド・アルファイドがこれに大きく関わった。まずはつきあい始めてそれほど間がなかった(3週間)ふたりの関係を一大恋愛ストーリーに仕立て上げた。そしてふたりが婚約間近だったらしいとか、ダイアナ妃が妊娠していたらしいとかほのめかし続けた。そんなことはありえない。ふたりがつきあった期間を考えれば真面目な話、ドディとダイアナ妃が結婚という話が出るはずもない。

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10年以上もの間、無数のインターネットサイトが陰謀説を拡散し続けました。アンリ・ポールの血液サンプルが交換されたとか、ダイアナ妃が妊娠していたとか、イギリスの秘密情報部が車に工作していたとか......どの噂の反響が一番大きかったのでしょう。

後から出てきた白いフィアット・ウーノの反響が大きかった。しかも消えた運転手についてさまざまな憶測が飛びかった。「陰謀論者」やモハメド・アルファイドにとっては追い風だった。モハメド・アルファイドはパパラッチのジェームズ・アンダーソンを疑っていた。アルファイド家が所有するヨット、ジョニカル号(エジプトの大富豪のヨット)の飛び込み台にいるダイアナ妃を追いかけたパパラッチのひとりで、雑誌に掲載された写真は彼が撮ったものだった。当時、白いフィアット・ウーノを所有していたが、捜査員の話では、庭に放置された廃車同然の状態だったようだ。いずれにせよ、ダイアナ妃のパリ滞在を追っていたパパラッチたちは誰もアンダーソンを見かけていない。しかし、アルファイドがタブロイド紙に自分の疑念をぶちまけたことから捜査が始まり、哀れなアンダンソンは事情聴取を受けた。だが実際は事故の晩、パリを離れてクルーズ県におり、その翌日、歌手のジルベール・ベコーを追ってコルシカ島に出発する準備をしていた(2000年にアンダーソンが自殺後、再び陰謀説が取り沙汰された)。

「世界的に有名なプリンセス・オブ・ウェールズを新人女優のように扱うべきではない」ジャン・ミッシェル・カラデシュ

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サルデーニャ島でアルファイド家所有のヨット「ジョニカル」に乗るダイアナ妃とドディ・アルファイド。(1997年8月29日)photo: Abaca

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「事態を混乱させたのはドディだった」

「ダイアナ妃の死の責任は多分に、プリンセスという「立場」を管理できなかったアルファイド家にある」とおっしゃっているのはどのような意味なのでしょう?

事実に基づいての発言だ。亡くなる晩、ダイアナ妃はリッツ パリを出発した。このホテル所有の車に乗り、ここの従業員が運転して......そして、ここのオーナーはモハメド・アルファイドだ。確かに、モハメド本人は責任感が強くて頭が良く、安全にこだわる人物だ。事故の前日の1997年8月30日、ル・ブルジェ空港からパリ市内へ、ダイアナ妃とドディが移動した際にはモハメドの完璧な手配でうまく行った。ディナーの場所も車もドライバーも、父親の手配を全て直前に変更して事態を混乱させたのはドディだった。世界的に有名なプリンセス・オブ・ウェールズを新人女優のように扱うべきではないことを理解していなかったのだ。もちろん、事故が起こらなかった可能性もある。もちろん、いろいろな不運が重なった結果の事故だろう。しかしながらドディの計画変更がなければ、ダイアナ妃は死なずに済んだ。

(1) 『誰がダイアナ妃を殺したか(原題:Qui a tué Lady Di?)』ジャン=ミッシェル・カラデシュ著、グラッセ刊、248p、2017年4月発行。
*本記事は2017年8月28日に公開したものに加筆した。

text: Marion Galy-Ramounot (madame.lefigaro.fr)

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