【写真】シャイな少女から、世界のプリンセスへ......ダイアナ妃の人生。

Culture 2022.09.04

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ダイアナ・フランセス・スペンサーは1961年7月1日、サンドリンガムで生まれた。18世紀にロンドン社交界の花形だったジョージアナ・キャヴェンディッシュ・デヴォンシャー公爵夫人の末裔であり、オルソープ子爵エドワード・スペンサーと妻、フランセスの間に生まれた。フランセスは旧姓バーク・ロッシュと言い、イングランド王チャールズ2世の庶子の家系であり、さらに遡るとヘンリー4世の子孫である。(サンドリンガム、1963年7月)

photo: Abaca

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ダイアナの幼少期は1969年4月の両親の離婚が大きな影を落とした。離婚は母のフランシスがピーター・シャンド・キッドと不倫したことがきっかけだった。バラバラになったスペンサー家でダイアナは2人の姉、サラとジェーンや弟チャールズと耐え忍んだ。(カドガン・ガーデンズ、1968年)

photo: Abaca

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ダイアナは、ノーフォーク州のリドルズワース・ホール校やケント州のウェスト・ヒースガールズスクールで学んだ。16歳のとき、スイスのアルパン・ヴィデマネット学院に短期留学もしている。当時の評価は、「内向的」「品行方正」「スポーツが得意」だった。(イギリス、1970年) 

photo: Abaca

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少女の頃、ダイアナはバーバラ・カートランドのロマンス小説に夢中になり、白馬の王子様に憧れた。(スコットランド、1974年)

photo: Abaca

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その夢は、1970年代末に英国王位継承者であるチャールズ皇太子と出会ったことで叶う。ダイアナの実家は昔からエリザベス女王の領地近くにあり、サラ・スペンサー(ダイアナの姉)は、チャールズ皇太子と一時期つきあったこともあった。しかしながら結婚相手として王室が断然気に入ったのはダイアナだったようだ。これまで無名だった若い保育士にパパラッチも興味を持ち、追いかけ始めた。(ロンドン、1980年11月)

photo: Abaca

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良家の娘で独身、プロテスタント......チャールズ皇太子にとってダイアナは完璧なフィアンセだった。出会ってまもなく結婚が決まり、1981年2月24日に発表された。婚約指輪はかの有名なサファイアリングだ。(バッキンガム宮殿、1981年2月24日)

photo: Abaca

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発表の翌日からダイアナは一躍時の人となる。将来の地位にふさわしい社交行事への招待も増えた。内気なダイアナは慣れないままぎこちなくふるまう。モナコグレース公妃と一緒のこの写真のように。そんなダイアナに大衆は好感を持つ。 (ロンドン、1981年3月) 

photo: Abaca

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1981年7月29日。20歳のダイアナ・スペンサーは33歳のチャールズ皇太子とロンドンのセント・ポール大聖堂で3万5千人の招待客が見守る中、結婚した。世界中の10億人以上の人々がテレビでこの式典を視聴した。(ロンドン、1981年7月29日)

photo: Abaca

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王子様に馬車、金の飾りにお姫様のようなドレス......ダイアナにとってそれはまるでおとぎ話の中の出来事のようだった。(ロンドン、1981年7月29日)

photo: Abaca

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バッキンガム宮殿のバルコニーでキスを交わす。こうしてダイアナは正式に皇太子妃となり、ウェールズ公妃、チェスター伯爵夫人、コーンウォール公爵夫人、ロスシー公爵夫人、キャリック伯爵夫人、レンフルー男爵夫人の称号を得た。 (ロンドン、1981年7月28日) 

photo: Abaca

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ダイアナ妃とチャールズ皇太子はハネムーンに出かけた。旅先には皇太子の実家、バルモラルも含まれていた。しかし、ダイアナは王室メンバーと密接に過ごすことに居心地悪さを覚え、新婚夫婦の仲はギクシャクした。チャールズ皇太子は妻と距離を置きはじめる。(バルモラル、1981年8月) 

photo: Abaca

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ダイアナ妃が妊娠すると、夫婦の仲は改善されたように見えた。(1982)

photo: Abaca

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1982年6月21日、ダイアナ妃は未来の国王となるウィリアム王子を出産する。夫婦の絆は強く結ばれたようだった。(ロンドン、1982年6月22日)

photo: Abaca

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それなら子供をもう一人と思ってもおかしくない。妊娠7カ月のダイアナ妃。(シリー諸島、1984年4月)

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1984年9月15日、第2子で末子のヘンリー王子誕生。(ロンドン、1984年9月16日)

photo: Abaca

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問題はカミラ・シャンドことカミラ・パーカー・ボウルズだった。チャールズ皇太子の元恋人で、今も皇太子の側近であり、愛人だった。チャールズ皇太子は彼女を忘れることができず、ダイアナ妃とのすれ違いから不倫に走った。それを知ってもダイアナ妃には、なす術がなかった。(ラドロー、1980年代)

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結婚生活がほころびかけているのに、ダイアナ妃は幸せな妻を演じなければならない......。(オーストラリア、1985年) 

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そして何気ない顔をして、「ダンシングクイーン」の異名通り、ジョン・トラボルタと見事なダンスを披露する。(ワシントン、1985年11月)

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とりわけ心を砕いたのはこよなく愛している子供たちを守ることだ。 (スペイン王室一家と。スペイン、1988年8月)

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その一方でダイアナ妃はたくましくなり、徐々に自立へと向かう。(ロンドン、1989年)

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ウィリアム王子とハリー王子にとっては、楽しいお母さんだった......。 (1990)

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母は息子たちへ他者と心を通わせることを伝えた。(ランダフ、1991年3月)

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1992年2月11日、夫婦の戦いが始まった。皇太子夫妻のインド公式訪問中に、チャールズ皇太子の不倫話が報道された。ダイアナ妃は、公式行事をすべて一人でこなした。やがてくる災厄の前触れだったのだろうか、永遠の愛の象徴であるタージマハルの前でもダイアナ妃はひとりぼっちだった......。 (1992年2月、インド)

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タージマハルの一件があった後、チャールズ皇太子は夫婦仲をとりつくろうとした。ポロ競技に勝った後、妻にキスしようとするが、ダイアナ妃は最後の瞬間に顔をそむけた。 (インド、1992年2月13日) 

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またしても一人で旅立ったダイアナ妃。今度はエジプトだ。メッセージは明白だった。ダイアナ妃は夫やイギリス王室と訣別した。1992年、いろいろあった末にダイアナ妃とチャールズ皇太子は12月、正式に別居した。(エジプト、1992年5月)

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ウィリアム王子とハリー王子も、心の準備ができたようだ。(イギリス 1993年4月)

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王室の保護がなくなったダイアナは別居後のマスコミ攻勢に悩まされた。(1994年7月、ロンドン)

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マスコミから注目されていることを利用して、貧しい子供たちの教育問題など、関心のあるテーマに光を当てた。(ジンバブエ、1993年7月) 

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人道支援のための視察や水面下で進行する離婚問題を抱えながらもダイアナ妃はウィリアム王子がかの有名なイートン校へ入学する際など、息子たちの大事な行事には出席していた。(イートン校でチャールズ皇太子と、1995年9月)

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ダイアナ妃が赤十字とともに尽力したもう一つの活動は、地雷廃絶だった。特に内戦が2002年まで続き、荒廃したアンゴラで大量に設置されていた対人地雷の禁止を訴えた。(アンゴラ、1997年1月15日)

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アンゴラでダイアナ妃は地雷の犠牲者を見舞う。(アンゴラ、1997年1月)

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他者を思いやり、精力的に活動するダイアナ妃は、さりげないエレガンスの持ち主として90年代のグラマラスなアイコンとなった。(ニューヨーク・ファッション・アワード、1997年2月) 

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昔の内気な若い保育士の面影はもうない。大義のためならひるむことのない代弁者となったダイアナ妃は米国大統領夫人だったヒラリー・クリントンのような有力な政治家とも会うようになる。ヒラリーもまた、夫の不倫に対処しなければならなかった一人だ。(ワシントン、1997年6月)

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ダイアナ妃はボスニアのフランス兵を訪ね、紛争の犠牲者に会い、地雷廃絶のための闘いを続けた。(サラエボ、1997年8月) 

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ついに自由の身となったダイアナ妃は心臓外科医のハスナット・カーン博士とつきあうようになる。しかしながら、1995年に始まった交際は、1997年に終わる。破局のきっかけは、エジプトの大富豪モハメド・アルファイド所有のクルーザーで休暇を過ごしたときに、彼の息子のドディと知り合ったことだった。ダイアナ妃はこの夏の恋を、チャールズ皇太子とカミラ夫人を挑発するために利用した。ダイアナ妃とドディがキスをしている写真「The Kiss」は瞬く間に広まった。(サントロペ、1997年8月22日)

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パリに立ち寄った二人は、パパラッチから逃れようと、ホテルの裏手に停めてあったベンツに乗り込んだ。午前0時20分のことだった。それがダイアナの最後の姿となった。(パリ、1997年8月31日)

photo: Abaca

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00時23分、アルマ橋下のトンネルに入った車は運転を誤り100km/h以上のスピードで右壁に激突した。ドディ・アルファイドと運転手のアンリ・ポールは即死だった。ボディガードのトレバー・リー・ジョーンズは重傷を負った。ダイアナが車の残骸から救出された時は生きていたが、午前4時25分、負った傷がもとで死亡した。(パリ、1997年8月31日) 

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バッキンガム宮殿にはすぐに連絡が入った。全世界が衝撃を受け、彼女の死を悼んだ。宮殿の外には何千もの花や賛辞が積まれた。(ロンドン、1997年9月5日)

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ダイアナの葬儀は9月6日、ウェストミンスター寺院で執り行われ、友人のエルトン・ジョンが自曲「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」のリメイクを歌った。(ロンドン、1997年9月6日)

photo: Abaca

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ダイアナ妃の息子たち、ウィリアム王子とハリー王子は母の思い出を育みながらその思いを受け継ぎ、今日、多くの人道的プロジェクトに取り組んでいる。 (ロンドン、1997年9月6日)

photo: Abaca

text: Marion Galy-Ramounot (madame.lefigaro.fr)

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