アラン・ドロン、88歳で生涯を閉じる。伝記で振り返る恋と友情、数々の名シーン。

Culture 2024.08.18

アラン・ドロンが8月18日、家族に見守られ88歳で生涯を閉じた。彼はフランス映画界最後の"聖なる怪物"ともいう存在で、カルト的な人気を誇った俳優であった。

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アラン・ドロン、1964年 photography: PictureLux/Abaca

2023年にアラン・ドロンの初の伝記がフランスで発売されている。デニツァ・バンチェヴァ著、『Alain Delon, amours et mémoires(アラン・ドロンの愛と思い出)』というタイトルで、記憶に残る数々の名シーンを通じてこの偉大な俳優の歩みをたどり、その真髄に迫ったとして話題を読んだ。

アラン・ドロンはビッグスター。それも、アート系映画よりも大衆娯楽映画中心に活躍しながらもカルト的な人気を得て、フランス映画史に名を刻んだスターだ。「一般的にはフィルム・ノワールやアクション映画の俳優と考えられているが、出演作は非常に幅広い。彼のキャリアはアメリカ流で、そこにはスノビズムも排他的な仲間意識もない」と作家のデニツァ・バンチェヴァは最新作『Alain Delon, amours et mémoires(アラン・ドロンの愛とメモワール)』の中で分析している。この本にはアラン・ドロン本人も前文を寄せ、個人所有の資料も提供するなど全面的に協力している。数々の独自取材(ブリジット・バルドー、ナタリー・ベイ、ジェーン・バーキン、ソフィア・ローレン等)を盛りこみながら作品から家族、恋愛関係まで、要するにアラン・ドロン伝説について丸ごと語った本だ。

「いまも世紀の二枚目スターとしてみなされているのは、現代的な俳優だったからでもある。見た目や演技に古臭ささを感じない。そして忘れられがちなのが彼の先見性だ。『鷹』や『危険なささやき』ではいち早く監督や製作なども兼務し、カメラの後ろに回った。風変わりな面もある。俳優はえてして大物スターと共演することを嫌がるものだ。彼は逆に共演したがった。ジャン・ギャバン、友人のジャン=ポール・ベルモンド、シモーヌ・シニョレやロミー・シュナイダーと演技で張りあうことを楽しんだのだ」とデニツァ・バンチェヴァは語る。多くの人々と関わった人生とキャリアの名シーンを著者と共にいくつか振り返ってみよう。

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『太陽が知っている』

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ジャック・ドレー監督作品『太陽が知っている』(1969年)の撮影現場でのアラン・ドロンとロミー・シュナイダー。photography: Gamma-Rapho via Getty Images

「この写真は『太陽が知っている』の撮影中に撮られたもので、アラン・ドロンとロミー・シュナイダーの仲良しぶりが伝わってくる。映画監督のコスタ=ガヴラスは、ふたりが恋人同士だった頃についてこんな言葉を書き残している。「ふたりはまだ伝説のカップルではないけれど、すでにマジカルなカップルだった」と。ふたりがどれだけ才能にあふれ、どれだけ美しく、強く愛しあっていたかをよく表した言葉だ。別れることになってロミー・シュナイダーは失恋の痛手を味わったが、ふたりの縁は切れなかった。ロミー・シュナイダーは1977年のインタビューでアラン・ドロンのことを、人生でもっとも大切な人、もっとも頼りになる人と語っている。映画『太陽が知っている』にロミー・シュナイダーを出演させるよう交渉したのはアラン・ドロン自身だった。プロデューサーたちは、『プリンセス・シシー』三部作で終わった女優とみなし、モニカ・ヴィッティかアンジー・ディッキンソンの起用を検討していた。だがアラン・ドロンはこの企画から手を引くことをチラつかせてまでロミー・シュナイダーが新たなキャリアを築く手助けをした。この作品出演がきっかけで彼女はクロード・ソテ監督やジョゼフ・ロージー監督と仕事をするようになり、アイコン的存在となった」

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カトリーヌ・ドヌーヴ

1982年のロバン・デイビス監督作品『最後の標的』はカトリーヌ・ドヌーヴとの共演2作目である。初共演作は丁度10年前の1972年、ジャン=ピエール・メルヴィル監督作品『リスボン特急』だった。ふたりの役者に共通するのは徹底したプロ意識、そしてどんなジャンルにも挑戦する姿勢だ。どちらも作家性が強い映画から刑事物、コメディまでこなす。恋愛関係にはならなかったが互いに尊敬しあう関係だった。今日、ふたりはフランス映画界の生ける伝説として輝きつづけ、世界から望の眼差しを集めている」

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『サムライ』

「1967年の名作、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の映画『サムライ』は今年の6月28日に修復版が劇場公開される予定だ。フィルム・ノワールの歴史を変えた作品で、その筋立てや独特の様式美でメルヴィル監督は何世代もの映画監督に影響を与えた。アラン・ドロン演じる殺し屋は無表情に見えて、帽子にレインコートというお定まりの服のなかに拠り所を失った現代人の孤独や苦しみを包み隠している。こうして新たな伝説が生まれ、永遠の名作となった。メルヴィル監督とアラン・ドロンはその後、『仁義』や『リスボン特急』でもタグを組み、この3作品はドロン三部作と呼ばれるようになる」

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シモーヌ・シニョレ

「1960年代初頭、アラン・ドロンとロミー・シュナイダー、そしてイヴ・モンタンとシモーヌ・シニョレはカップルぐるみのつきあいをしていた。アラン・ドロンがシモーヌ・シニョレと初共演したのはピエール・グラニエ・ドフェール監督の『帰らざる夜明け』で、ふたりは恋人役を演じた。2年後の1973年、シモーヌ・シニョレは『燃えつきた納屋』で敵役を演じるよう彼に頼んだ。スクリーンの中でふたりはどんなこともやってのけた。アラン・ドロンの映画界でのゴッドマザーがエドヴィージュ・フィエールなら、シモーヌ・シニョレは性別を超えて彼が気に入っていたパートナーだった。芸術面でも人間的にも、アラン・ドロンはシモーヌ・シニョレに敬意の念を抱いていた」

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『太陽がいっぱい』

 

「1960年の映画『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンの写真はとても有名だ。犯罪者という部分を除けば主人公トム・リプリーのキャラクターとアラン・ドロンの間には類似性がある。主人公のようにアラン・ドロンはあまり裕福ではない家庭で育ち、4歳の時に両親が離婚し、何年も里親の家に預けられた。だからこそ、ルネ・クレマン監督の代表作のひとつであるこの作品で、リプリーが大富豪の息子フィリップから受けた屈辱をアラン・ドロンは敏感に感じとれたのかもしれない」

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ジャン・ギャバン

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ジョゼ・ジョバンニ監督の1973年作品『暗黒街のふたり』で共演したアラン・ドロンとジャン・ギャバン。photography: Archives via Getty Images

「アラン・ドロンがよく語っていることだが、彼が俳優デビューする前に第一次インドシナ戦争で従軍していた頃、ジャン・ギャバン主演の1954年作品『現金に手を出すな』を見て、非常に感銘を受けたそうだ。以来ジャン・ギャバンは彼にとって絶対的なお手本であり、理想の俳優だった。アラン・ドロンはジャン・ギャバンのことを「ボス」と呼んでいた。初共演は1963年の『地下室のメロディー』で、その後1969年の『シシリアン』、1973年の『暗黒街のふたり』でも共演する。この頃ジャン・ギャバンはすでに全盛期を過ぎていたが、アラン・ドロンはポスターやプロモーションでもジャン・ギャバンが自分と同等の扱いとなることにこだわった。ふたりとも相手のカリスマ性や才能に敏感だった」

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『ル・ジタン』

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ジョゼ・ジョバンニ監督の1975年映画『ル・ジタン』でのアラン・ドロン。photography: Gamma-Rapho via Getty Images

「ジョゼ・ジョバンニ監督の作品でアラン・ドロンの魅力がフルに発揮されているとは言い難い。でも、当時としては異色の作品だった。それはジプシーを中心に据え、迫害されても誇りを失わず、勇敢な存在として描いている点だ。これは当時のフランス、いやヨーロッパの映画においても異例なことで、この作品によってアラン・ドロンはジプシーのコミュニティにおいて、ある種のアイドルとなった。道義面、そして芸術面でジプシーのために当時動いた唯一のスターだった」

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『パリの灯は遠く』

 

「書くことよりも別な方法で創作活動をしたいと考えていたアラン・ドロンは映画製作に目を向けた。企画を立ちあげる立場になったことで脚本をジャン=クロード・カリエールやパスカル・ジャルダンに頼んだり、自分で監督を選んだりすることができるようになった。この『パリの灯は遠く』もそうした作品のひとつだ。ドイツ軍占領下での対独協力者というテーマは1976年当時、まだデリケートな話題だっただけに、このテーマを取りあげたことは大胆だったし、ジョゼフ・ロージーというフランス語をろくに喋れないアメリカ人監督を選んだことはなおさらだった。しかしながらアラン・ドロンはこの監督の作品、『暗殺者のメロディ』を大変気に入っており、この人選にこだわった。そして時はアラン・ドロンが正しかったことを証明した。この作品はアラン・ドロンの最高傑作の一つとなったからだ。アラン・ドロンはなかなか目ざとい。たとえば『ボルサリーノ』の原作の権利を自ら買い取り、ジャン=ポール・ベルモンドへの出演交渉も自分で行ったこともそうだ。当時、企画にこれほどの発言力のある俳優は他にいなかった。彼のアヴァンギャルドなやり方に俳優仲間は触発され、友人のジャン=ポール・ベルモンドも映画製作に乗りだした」

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ヨーロッパで唯一、国際的なスターであり続けた男優

デニツァ・バンチェヴァ

2019年のカンヌ国際映画祭

「2019年5月19日、アラン・ドロンは第72回カンヌ国際映画祭で長年の功績に対し、名誉パルムドール賞を授与された。これまでにも名誉金熊賞やセザール賞など数々の受賞歴があったものの、世界最大の映画祭であるカンヌは象徴的な存在だ。映画界のレジェンドに与えられるこの賞をもらう資格は十分にあった。1960年の『太陽がいっぱい』以降、ヨーロッパで唯一、国際的なスターであり続けた男優だからだ。しかも近年はスクリーンから姿を消していたにもかかわらず」

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『若者のすべて』

 

 

ルキノ・ヴィスコンティ監督の1960年映画『若者のすべて』は、同年の『太陽がいっぱい』と共に、アラン・ドロンが主演男優としての地位を確立するターニングポイントとなった。『太陽がいっぱい』で世界的巨匠のルネ・クレマン監督と仕事をした後、精神的な父とも言えるルキノ・ヴィスコンティ監督の下でアラン・ドロンは無邪気さと犠牲的精神を持つ複雑な人物を演じきり、俳優として成長する。二年後、ヴィスコンティ監督は名作『山猫』で全く異なる役柄に彼を起用する。イタリア統一戦争のさなか、ガリバルディの赤シャツ隊に参加する若い革命派貴族を演じたアラン・ドロンは「何も変わらないために何もかもが変わらなくてはならない」という名セリフを吐く。ヴィスコンティ監督はアラン・ドロンがロミー・シュナイダーと共演した初舞台『あわれ彼女は娼婦』の演出も手がけており、ふたりのコラボレーションからは多くのものが生まれた」

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ナタリー・ドロン

「アラン・ドロンがナタリーと知り合ったのは1963年、ナイトクラブで共通の友人の紹介だった。ふたりにはある種の身体的対称性があり、性格の強さやエネルギッシュな点も共通している。のちに作家のパスカル・ジャルダンが『もう一人の自分を彼は見つけたようだ』と書いたほどだ。ふたりが出会ったとき、ナタリーは女優に興味がなかった。だがジャン=ピエール・メルヴィルから『サムライ』に出演しないかと言われたのがきっかけとなった......。ふたりの結婚生活は5年間つづき、離婚後も息子のアンソニーのこともあり、良好な関係を続けた。アラン・ドロンは女たらしで浮気性とよく言われるが、関わった女性に対して誠意を尽くすことは語られない」

>>関連記事:アランとナタリー・ドロン、写真で振り返る美しきカップル

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ミレイユ・ダルク

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ジャン・エルマン監督の1969年映画『ジェフ』で共演するアラン・ドロンとミレイユ・ダルク。photography: Corbis via Getty Images

「ふたりは1968年から1983年まで共に暮らし、『ジェフ』や『チェイサー』等で共演した。舞台での共演もある。ドラマチックな役を演じたいと願いながらもそのような役のオファーがなかったミレイユ・ダルクのためにアラン・ドロンは『愛人関係』を製作し、資金調達のために自分も引き立て役で出演した。『マディソン群の橋』の舞台化作品でも共演している。ミレイユ・ダルクによれば、愛しているというセリフは、実生活でもつぶやきあっていたからこそ、なおいっそう素晴らしく思えたそうだ。ふたりは別れてからも仲良しだった」

「Alain Delon, amours et mémoires」

●著者 Denitza Bantcheva & Liliana Rosca(デニツァ・バンチェヴァ&リリアナ・ロスカ)

●出版社 Éd. de La Martinière(ラ・マルティニエール出版)

 

text: Marilyne Letertre (madame.lefigaro.fr)

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