女優ジャンヌ・モローの未完の自伝がフランスで発売に。
Culture 2023.10.08
10月5日にフランスで発売された豪華本『Jeanne par Jeanne Moreau(原題訳:ジャンヌ・モローが語るジャンヌ)』は、本人が書き残した原稿や書簡を中心に、偉大な名女優、ジャンヌ・モローの内面を語った本だ。
「今朝、ちょっと想像力を働かせてみた」と2005年にジャンヌ・モローは書いている。「自分が70代ではなく、29歳だと想像してみる。『死刑台のエレベーター』の撮影に向かっている自分は足取りも軽く、そしてああ!なんてキレイで若くて自由なんだろう。もう一度、半世紀前を生きたとしても、する選択は同じ。私は女優に、歌手になる。恋をして、とんでもなく自由になる」
ジャンヌ・モローは2017年7月に89歳で死去した。彼女が映画の撮影現場に現れると「神々しいまでの彼女しか目に入らなかった」とルイ・マルに言わしめた存在。それがジャンヌ・モローであり、マルチな才能を持つアーティストであり、誰にも屈しない自由な女性だった。舞台に立っている時も、映画に出ている時も、歌っている時も、彼女は貪欲に芸術と人生を追求した。「それまでにも、役者になろうかと思ったことはあった。でも1944年のある日曜日の午後、それは自己の情熱を捧げるべきものとなった。何の見返りがなくとも、これに私の生涯をかけよう」と書く彼女の頭の中は、ジャン・アヌイの舞台劇『アンチゴーヌ』を初めて観た感動でいっぱいだった。ジャンヌ・モローの思いが綴られた未完の自伝が一冊の本となり、この度フランスでガリマール出版社から発売された。
自分を厳しく律したひとりの女性
女優のレベッカ・マルデールによる序文がついた本書は、ジャンヌ・モローの原稿や書簡、プライベートな写真、撮影風景や友人との写真などの未発表資料を通してこの女優の内面を描きだす。2017年10月にジャンヌ=モロー財団が設立され、女優が遺したアーカイブを公開したことがこの本の出版に繋がった。ページをめくるにつれて浮かびあがってくるのは、世間に流されて生きることをよしとせず、自分を厳しく律したひとりの女性の姿だ。10代の頃は病気がちで読書に熱中した。バレエダンサーを夢見るようになったのは、元フォリー・ベルジェールの踊り子だったイギリス人の母親の影響だった。芸術の道を志す娘を冷酷にあざわらったのは、レストラン経営者のフランス人の父親だった。そして密かに通いはじめた演劇のクラスがきっかけで、ジャンヌ・モローはフランスを代表する劇団、コメディ・フランセーズの舞台に立つこととなる。
やがて映画に脇役で出るようになり、1954年にジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』やジャン・ドレヴィル監督の『バルテルミーの大虐殺』でブレイクした。次いでルイ・マル監督との決定的な出会いがあった。ヌーヴェル・ヴァーグ運動の中ではやや異質な存在であったルイ・マルは、アントニオーニ監督(『夜』、1961年)よりも先にジャンヌ・モローを見出し、彼女こそ自分の待ち望んでいた女優だと崇めた。それが名作『死刑台のエレベーター』での忘れがたい役へとつながっていく。化粧もせず夜のパリをさまようヒロイン。素顔をさらすのは当時として革命的なことであり、パーフェクトビューティーを追求する50年代のハリウッドスターの対極にあった。ジャンヌ・モローは無邪気に挑発し、スキャンダラスな魅力を放つ。
映画ファンを自認する映画スター
一時期恋人関係にあったルイ・マルの作品、『恋人たち』のワンシーンでは濡れ場を演じ、ヌードを披露した。当時、そうしたシーンはまだ珍しく、一大スキャンダルとなるも映画は大ヒット。その後も多くの映画で既成概念に縛られずにさまざまな役を演じ、伝説を残した。フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』、『突然炎のごとく』、『黒衣の花嫁』、ルイス・ブニュエル監督の『小間使の日記』、ジャック・ドゥミ監督の『天使の入江』など、60年近い俳優生活のなかで130本以上の長編映画に出演し、フランスの名監督たちやアメリカの大物監督たち(オーソン・ウェルズ、エリア・カザン、ジョセフ・ロージー)、ニュー・ジャーマン・シネマの監督たち(ヴィム・ヴェンダース、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー)らと仕事をしてきた。もっとも彼女は単に演技がうまいだけではない。大の映画ファンを自認する映画スターであり、創作や演出に対する鋭い判断で常に出演作を選択してきた。
偉大な作家たちの作品がずらりと並ぶジャンヌ・モローのフィルモグラフィーは映画史そのものだ。フランソワ・オゾン監督は「彼女はヌーヴェルヴァーグに触れることで解放され、自ら監督を選ぶようになった」と称賛している。
ジャンヌ・モローの個性的なスタイルは独自に生みだされた。魅力的な低音ボイスにきらきら輝く瞳、どこか倦怠感を感じさせるぽってりとした唇にエレガントな容姿はスクリーンに初登場した時から変わらない。時によそよそしくクールな美しさは、デビュー当初こそ一般的な美女の基準から外れていると思われたが、多くの映画監督やファッションデザイナーの想像力をかき立てた。彼女の豊富な恋愛遍歴の中でもっとも型破りだったのは、ココ・シャネルから紹介されたピエール・カルダン、すなわち1960年代を代表するクチュリエであり、同性愛者であることを公言していたデザイナーとの恋愛だった。
深い愛を求めて
男好きで自由奔放な性格と言われたジャンヌ・モローは、恋愛をはかないものと考え、もっと深い愛を求めていることを常々公言していた。結婚歴は2回、ジャン=ルイ・リシャール、そしてウィリアム・フリードキンといずれも映画監督だった。母になるも母性は否定した。「子どもがひとりいるけれど、欲しくなかった。女性の多くがショックを受けることはわかっている」と2012年にフランスの「マダム・フィガロ」誌のインタビューで語っている。つきあう男性はいずれも並外れていた。フランソワ・トリュフォー、トニー・リチャードソン、ジョルジュ・ムスタキ、マルチェロ・マストロヤンニ等々。『突然炎のごとく』で彼女が歌うセルジュ・レズヴァニの歌『つむじ風』の歌詞にひっかけて「私は自由を生きた。愛するとは何かを学ぶための試みや体験に満ちた人生だった」とジャンヌ・モローはインタビュー時に語っている。
その生き様はまるで竜巻のよう。友人のマルグリット・デュラスは、彼女が自らによく似た女性、個性的で世間からはみ出た、反抗心あふれる役ばかり演じたことに言及し、「彼女の映画は彼女を引き裂く」と書いている。本書に収められた書簡からは、フランス内外の著名人と交流していた様子が浮かびあがってくる。オーソン・ウェルズからの手紙、ロジェ・ニミエとの日常的なやりとり、ペーター・ハントケからは「最も偉大で、最も威厳があり、最も優美な女優」の褒め言葉をもらい、フランソワ・オゾンからは一緒にいると賢くなった気がすると言われ、さらにフランスのフェミニスト女優、デルフィーヌ・セリッグからはあなたの監督作品に出たいとラブコールまでもらっている。
1970年代からは監督としても活躍し、ドラマ2本(『リュミエール』、『ジャンヌ・モローの思春期』)およびドキュメンタリー1本(『リリアン・ギッシュの肖像』)を撮った。スクリーンでさまざまな女性を演じたジャンヌ・モローは常に女性の権利に関心を寄せ、日頃から「映画に真の命を吹きこむのは、映画の中のヒロインである女性の圧倒的な存在感である」と語っていた。レッテルを貼られることは嫌いながらも自らの信念に従い、何度も女性の権利のために立ちあがった。1971年にはシモーヌ・ド・ボーヴォワールやカトリーヌ・ドヌーヴらの著名人とともに、中絶の合法化を求め、かの有名な嘆願書「343人のマニフェスト」に名を連ね、違法中絶を受けた経験があることを表明している。こよなく自由を愛し、過激で奔放だったジャンヌ・モローは、映画評論家のセルジュ・トゥビアナがいみじくも言ったように、「記憶すべき時間」に属している女優なのだろう。
『Jeanne par Jeanne Moreau(原題訳:ジャンヌ・モローが語るジャンヌ)』 Gallimard出版、フランスで2023年10月5日発売。
text : Paola Genone (madame.lefigaro.fr)