La boîte à bijoux pour les mots précieux.ーことばの宝石箱 「女性にとって最も美しい装いとは」イヴ・サン=ローランが語った「美意識」とは?

文筆家・村上香住子が胸をときめかせた言葉を綴る連載「La boîte à bijoux pour les mots précieuxーことばの宝石箱」。今回はファッション界に革命をもたらした「モードの帝王」イヴ・サン=ローランのことばに迫る。


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究極のエレガンスを追求したモード界の才人とはいえ、ひとりの生涯に、ほぼ同時に2本の伝記映画が製作されるというのは滅多にないことだが、2014年の『SAINT LAURENT/サンローラン』(ベルトラン・ボネロ監督)と『イヴ・サンローラン』(ジャリル・レスペール監督)、どちらもなかなか完成度の高い作品だった。サンローラン役のギャスパー・ウリエルもよかったが、ピエール・ニネもまた、活き活きと再現していた。それほど彼の生涯は魅力的だったし、ロマネスクで、愛のドラマに満ちあふれていた。

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パリで仕事をしていた頃、残念ながらサンローランをインタヴューする機会はなかったが、オープニングパーティーで立ち話をしたことがある。2003年にサンローランのミューズといわれたルルー・ドゥ・ラ・ファレーズの、ジュエリーとアクセサリーの店のオープニングパーティーの日に、友人の小説家フランソワ=マリ・バニエと一緒にいった時、丁度入ってきたサンローランが真っ直ぐに私の前にやってきて、出会い頭にその日私がつけていたネックレスをいきなりぎゅっと掴んだので、驚いてしまった。
それはオークル色とワインカラーの球形が、交互に繋がっていて、合成樹脂のような素材で、1920年代のもので、いまは廃業してしまっているが、リヴォリ通りの宝飾店で買ったものだった。

「素晴らしく魅力的な、忘れられない色だな。綺麗だ。実に見事だ」

一直線にまるで宝物を見つけて目を輝かせている少年のように、少しの間長い指の間でごろごろと転がしながら、それを弄んでいたのを覚えている。

「あなたは幸せものですよ」

そういうと、私が同行したフランソワ=マリとは親しかったらしく、少し談笑していたが、それから不意にルルーのいる奥の控え室の方に姿を消した。

その以前にも、シシリアのパレルモでの文学賞のイベントに、私がマリア・コダマ・ボルヘスといっていた時、グランド・ホテル・ワーグナーにピエール・ベルジェときていたサンローランに、ほんの短い挨拶をしたこともあった。夜の晩餐会で会えると思っていたところ、その後部屋のバスルームで足を滑らせて転んだらしく、晩餐会には出席せず、その日のうちにパリに帰ってしまったということだった。

数年後も劇場でみかけたりしたが、言葉を交わしたのは、その2回だけだ。私のみたサンローランの印象は、どこか深い奥で傷ついた鳥のように、痛々しく、腺病質な感じのするひとだった。

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幼い頃から繊細なものが好きで、自らも僕は赤ん坊の頃から神経過敏症だったといっているように、1936年北アフリカの美しい港町、オランで生まれ育った美少年は、母親のファッション誌を眺めながら、耽美的なものに憧れ、ひたすらパリにいくことを夢見ていた。

オートクチュールを学ぶために、パリにあるサンディカ・パリクチュール校に入学すると、彼の北アフリカ風の色彩感覚や、磨き抜かれたセンスの良さは他の生徒たちと較べて群を抜いていて、たちまち注目を集めるようになる。

19歳の時に、仏版「ヴォーグ」にいたミシェル・ドゥ・ブランホフから、当時パリのモード界の頂点にいたクリスチャン・ディオールに紹介されると、ディオールは彼の天才的な感覚を見抜き、すぐに自分のアシスタントにしたというから、おそらく相当エキセントリックな個性の持ち主だったに違いない。

そしてその2年後、1957年にディオールが亡くなると、イヴ・サンローランはそのままディオールの後継者になっている。こうして成功への階段を駆け上っていった彼は、瞬く間に時代の寵児になっていった。

私が日本の雑誌社のパリ支局に赴任したのは、1985年春だったが、パリでは90年代になると、まだ当時LGBTという言葉は生まれてはいなかったが、ファッション界のクリエーターやフォトグラファーたちのほとんどが同性愛者、といっても過言ではない位だった。

仕事場の周辺には、そういう人ばかりで、そうしたひとたちを偏見の眼で見ていたものは、当時は不思議なことにひとりもいなかった。至極自然な現象として私たちは受け入れていたのだ。毎年私の誕生日のディナーパーティーを開いてくれていたのも、同性愛者のカップルの友人たちだったのを思い出す。

そんな環境だったので、そうした私の友人知人の中には、サンローランと親しかった人もいて、彼があるとき通りで美しい若者を見つけて、つい見惚れて少しの間後をついていった、という嘘か本当かわからない話も伝わってきたものだ。

もちろん若い頃に知り合ったピエール・ベルジェとはカップルだったとしても、日常的には感情の赴くままに私のネックレスを鷲掴みにした時の様子からして、興味のあるものに即刻触れてみないと気が済まなかったのではないだろうか。

サンローランはクリエイター、その相手ベルジェは経営者としての手腕を発揮して、1962年にディオールから独立、独自のメゾンを創設し、ふたりは世界的なブランドにすることに成功していた。羨望の的だったのだ。 メゾン・サンローランは、ふたりの愛の象徴として築かれたものだった。

2002年に引退を表明した時期にサンローランは、冒頭の言葉を語っている。おそらく自分がどんなにエレガントなドレスを生み出しても、それを着る女性の愛する恋人には敵わないだろう、と本気で思ったのかもしれない。

彼は生涯、愛と美を追い求めたひとだった。

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Yves Saint-Laurent
1936年、フランス領アルジェリア生まれ。18歳で親元を離れパリ17区へ、デザインコンクールのドレス部門で最優秀賞を受賞しクリスチャン・ディオールのアシスタントに。57年、ディオールの死去により同社の主任デザイナーに就任、60年まで5つのコレクションを発表。61年からは自身のメゾン「イヴ・サンローラン」を設立。2002年にパリのオートクチュールコレクションを最後に引退し、その後はモロッコの自宅で過ごしていた。08年、癌のため71歳で逝去。

>>連載『ことばの宝石箱』を読む。

フランス文学翻訳の後、1985年に渡仏。20年間、本誌をはじめとする女性誌の特派員として取材、執筆。フランスで『Et puis après』(Actes Sud刊)が、日本では『パリ・スタイル 大人のパリガイド』(リトルモア刊)が好評発売中。食べ歩きがなによりも好き!

Instagram: @kasumiko.murakami 、Twitter:@kasumiko_muraka

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