ジェーン・バーキンとの友情を語る、写真家ガブリエル・クロフォード。

Culture 2025.01.16

写真家ガブリエル・クロフォードが2024年秋に上梓した『C'est Jane, Birkin Jane』には、ジェーン・バーキンとの生涯の友情が、身近な人々の証言とともに慎ましやかに語られる。ガブリエルのインタビューとともに、彼女が撮影した素顔のジェーンを公開。

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ガブリエル・クロフォード(左)とジェーン・バーキン(右)は18歳の時に出会い、終生の友となった。©Marco Le Clanche

ガブリエル・クロフォードが"親友"ジェーン・バーキンと出会ったのは1964年、スウィンギング・ロンドン時代だった。そしてふたりは終生の友となった。ディスコへ行く時も海外旅行を楽しむ時も一緒だった。ともに笑い転げ、ヴァカンスを楽しみ、子ども、恋人、仕事のことも語り合うふたりは、ロンドンでもパリでも、ノルマンディでもブルターニュでも仲良しだった。ガブリエル・クロフォードは写真家となり、ジェーンをよく撮るようになった。そんなガブリエルがいちばん好きなのは、起き立てで髪の毛はボサボサ、すっぴんで仏頂面、それでも美しいジェーンの姿だ。

いつも陽気だったジェーン。だが憂いはまったくなかったのだろうか。幸せが逃げるのが怖くて、幸せを避けていたのではないだろうか。2024年、ガブリエルはルー・ドワイヨンとともに、ジェーンが所有していたブルターニュの別荘を片付けていた。別荘の売却先が決まったからだ。そこでガブリエルは自分がジェーンに出した手紙が詰まった箱をいくつも見つけた。ジェーンはなにもかも取っておく人だった。危機感がないまでに。ディナーの席で睡眠薬を配ることもあったぐらいだ。

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1995年、別荘を所有していたブルターニュにて。photography : © Archives personnelles Jane Birkin et Gabrielle Crawford 

「ここでジェーンは穏やかな日々を過ごしていました。マダムフィガロの撮影はブルターニュで行われました。ビーチを歩いたり、プラッタルクームにあるジェーンの家"カシャル"近くのアベール・ブノワ川のほとりを歩いたり。彼女はエルメスのブルゾンを着ていました。同ブランドとの繋がりは誰もが知っています。彼女がきっかけで作られたバッグ「バーキン」は何でも入り、死んだロバほどの重さになるオシャレなバッグでした。この写真はジェーンの母で名女優、ジュディ・キャンベルのお気に入りでもありました。ジェーンのパリ宅にあったジュディの部屋はこの時の写真で覆い尽くされていました。きっと幸せな空気を感じたからでしょう」(ガブリエル)

誰もがジェーン・バーキンのことをよく知っている気分になっている。"ベビードール"のアイドルはファッション、インテリア、料理などなど、すべてにおいて自分のスタイルを貫いた。ガブリエルが上梓した『C'est Jane, Birkin Jane』の醍醐味は、2023年7月に亡くなったジェーン・バーキンとの思い出を実に細かに描写している点にある。そこには衝撃の事実もスキャンダルの香りも含まれない。あるのは重ねた歳月、記憶の中に浮かび上がる思い出。でもそれがジェーン・バーキンを私たちの心の中に生き生きと蘇らせてくれるのだ。

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『C'est Jane, Birkin Jane』
Gabrielle Crawford著 Actes Sud刊 22ユーロ
https://www.actes-sud.fr/catalogue/memoires-temoignages-biographies/cest-jane-birkin-jane/

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マダムフィガロ(以下MF):58年間の友情を一冊の本にまとめたのは大変だったでしょう?

ガブリエル・クロフォード(以下GC):私は写真家であって文筆家ではありません。プライベートな思い出にスキャンダラスな内容は何も含まれていません。いくつかの誤解も正しました。たとえばジェーンはドラッグをやっていませんでした。一度だけ吸ったことはあります。彼女はそんなものを必要としませんでした。いろいろありましたが、真面目な女性でした。この本を前向きな内容にしたいと思い、ジェーンの娘や友人、音楽や演劇、映画業界の知り合いなどに呼びかけて協力してもらったんです。ゲストには、エティエンヌ・ダオオリヴィエ・ロラン、ジャック・ドワイヨン、ジェーンに演劇の魅力を教えたミシェル・フルニエ、さらに同人誌『My Chérie Jane』を執筆しているイギリスのファン、ラシェル・リー・カーターがいます。

MF:本のタイトルを 『C'est Jane, Birkin Jane』とした理由は?

CG:ジェーンは電話に出る時、「ジェーンです、バーキン・ジェーン」と名乗っていました。ジェームス・ボンドみたいですよね。ジェーンです、だけで十分なのに、どうしてバーキン・ジェーンまで言っていたのかしら。それはもうひとつの彼女のようなものだったかもしれません。イメージとしての彼女のほう!

MF:ジェーンからあなたはなんと呼ばれていましたか?

GC:「ガブ」です! アルバム『アラベスク』を作ってからは 「アンジュ(天使)」。バックステージのミュージシャンから私がそう呼ばれていたからです。晩年、病気になると「マイ・ワイフ」に。「あなたと結婚できればいいのに」と言われました。男性たちとのつきあいを経て、何も求めず、誠実で、優しく包んでくれる人を見つけたかのように思ったのでしょうか。

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2002年、モロッコの砂丘でドルチェ&ガッバーナのドレスを着て撮影するジェーン。photography : © Archives personnelles Jane Birkin et Gabrielle Crawford 

「アルバム『アラベスク』は最終的に赤いドレスの写真を使ったけれど、これらは使わなかったアザー写真です。撮影はモロッコで行いました。ドルチェ&ガッバーナには保証金として小切手を預けておきました。ジェーンが海に向かって突進したのでドレスを汚さないよう、制止しなくてはなりませんでした。砂丘でポーズを取っています。お姫様のような素敵なドレスを着るのがジェーンは大好きでした。でも、彼女らしくないですね。彼女がいつも着ていたのはジーンズにTシャツ、虫に喰われたカシミアのセーター。寛いでいる表情を見せるのはそんな格好の時でした」(ガブリエル)

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MF:ジェーンは恋人としてどんなタイプ?

GC:嫉妬深い人。とても嫉妬深いのに、愛する男性をパリでもどこでもひとり置き去りにして、どこかへ行ってしまう矛盾を抱えていました。嫉妬深さは彼女の性格の一部で、それは子ども時代の不安感に根付くものでした。美しいのに本人はそう思わず、欠点だらけだと思いこんでいました。なかなか複雑で、彼女は自分をとても誇りに思いながら自分をあまり好きではなかったのです。

MF:あなたの本の贈呈メッセージには、「私が読者に伝えたいこと、それはジェーンというかけがえのない、そしてみんなから愛された女性の親切心、決意、優しさ、怒り、脆さ、勇気、美しさ、人間性、思いやりがどんなものであったかということです」とあります。このうち、ひとつだけを選ぶなら?

GC:「決意」です。彼女はステージから直接病院に向かい、輸血を受けました。「舞台で死にたい」と語っていました。

MF:モリエールのように!と言いたいところですが、実のところモリエールが舞台で亡くなったというのは風評に過ぎません。この本はジェーンがいかに勇敢だったかが語られています。

CG:か弱い人なのにルワンダにもサラエボにも出かけ......怯むことはありませんでした。2022年、彼女はフランスの芸術文化勲章を受章することになっていました。式典の日が近づいたものの、10日前から彼女は入院しており、主治医のレヴィ教授からは外出禁止を言い渡されていました。ちなみにレヴィ教授はジェーンの電話番号を「ターザン」というコードネームで登録していたんです。ジェーンは私に電話してきて、「どうしよう! 式に出られないなんてがっかりだわ」と言いました。そこで私は「わかった、いま行く」と答えました。到着すると、彼女はICUにいて、美容師に髪を染めてもらっていました。結局、式典に出席したんです! 病気の人たちがこの本で勇気づけられることを願っています。ジェーンは17年間、頑張りました......。

MF:彼女とのいちばん楽しい思い出は何ですか?

CG:少なくとも彼女が運転する助手席に座っている時ではないことは確か。それはリストのだいぶ後ろの方に来ますね。本当に危険な運転でした。砂丘では愛車シトロエン・メアリを弾丸のごとく走らせるし、レンタカーの時はペダルの位置がわからない。道を見つけられずにブレストの街を何度もぐるぐる回ったこともあります。警官から止められてもサインを求められる始末! 彼女は免許をセルジュに買ってもらったんじゃないかしら。

MF:それで結局、いちばんの思い出は?

CG:パリやロンドンなどのナイトクラブでの思い出ですね。ジェーンは外向的、私は内向的と正反対の性格なんです。彼女はドラマティックなことが大好きで、何でも話を盛っていました。そのことを指摘すると、「でもガブリエル、70%は本当よ 」と言われました。ある時、彼女から電話がかかってきました。「大声でしゃべれないの。戦車の中だから」と。現実離れしたことが大好きな人でした。

MF:最後の恋人となったオリヴィエ・ロランとはサラエボの戦車で出会ったと本人は言っていましたが、あなたの本ではパリのホテル・ルテシアで出会ったとありますね。

CG:彼女が人生をともにする男性は、尊敬できて賞賛に値する人でなければなりませんでした。彼女は毎回、自分に何かをもたらしてくれる人、学べる人を見つけていました。ジョン・バリーは偉大なミュージシャンでした。セルジュと出会って、彼女は私に「彼は魔法使いよ」と言いました。そしてジャックは、「素晴らしい監督」だったんです。

MF:ジェーンはこんなことを言っています。「仕事の上で3人に影響を受けました。セルジュ・ゲンスブール、ジャック・ドワイヨン、パトリス・シェローです。セルジュは私の人生の作者でした。ジャックは私に作家性のある映画への扉を開いてくれました。そしてパトリスからは、マリヴォー劇『贋の侍女』への出演を依頼され、私のキャリアは変わりました」

CG:ジャック・ドワイヨンのおかげで彼女は女優として開花しました。それまでは無邪気な娘の役しか演じていませんでした。パトリス・シェローは、彼女に舞台に立つ勇気を与えました。ジェーンは褒めてもらいたかった。尊敬する人たちから承認される必要があったのです。女優として、歌手として、女性としての価値を認められたいと思っていました。よく言われるように、彼女は不安だったのです。セルジュの歌を練習する姿を覚えています。本番前の楽屋で、彼女は一語一句、1時間かけて練習していました。安心させようと「もう20年も歌っているじゃない」と言ったものです。彼女は完璧主義者で、何気ない顔をしながら大変努力していました。仕事が大好きだったんです!

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MF:彼女にとって子どもたちはとても大切な存在ですね。

CG:子どもは彼女にとってかけがえのない存在でした。子育て時期が同じだったので、よく一緒に子どもの話をしていました。

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1976年、ロンドンのガブリエルの息子サムの洗礼式に出席したバーキン一家。photography : © Archives personnelles Jane Birkin et Gabrielle Crawford 

「ジェーン、(彼女の母の)ジュディ、小さいケイトに抱かれた私の息子のサム。右にジェーンの父親、デヴィッド・バーキンもいます。ジェーンが『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』を録音した頃です。ロンドンのケンジントンにあるカトリック教会、ブロンプトン礼拝堂の前で撮りました。ジェーンは私の娘ルーシーの名付け親にもなってくれました。ジェーン自身は娘たちに洗礼を受けさせませんでした。ひとつの宗教に縛りつけたくなかったそうです」(ガブリエル)

MF:ジェーンは人前で娘たちのことをよく話していました。タクシーの運転手からシャルロットは元気? と聞かれるほど......

CG:「娘たちは私のロイヤルファミリー!」と彼女は言っていました。私は彼女に、映画『Boxes(原題)』、TVドラマ『Oh!Pardon tu dormais...(原題)』に続く3作目を撮って三部作にするよう勧めていました。彼女の母が亡くなって病気になった後の人生です。ユニークな人生でした。

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家族でイースターエッグ探し。2004年に逝去したジェーンの母、ジュディ・キャンベルの姿も。photography : © Archives personnelles Jane Birkin et Gabrielle Crawford 

MF:イギリスでは無名の存在であることを気に病んでいました。なぜフランスで人気が出たのでしょう?

CG:フランス人は彼女のイメージに恋したのです。彼女が浮かべる笑顔、セルジュと一緒に撮った写真、舞台に立った時には出ないのに英語訛りのしゃべり方。彼女はイメージを操り、いえ、イメージの中で生きていました。ジェーンは友達です。時々、彼女にこう言い返したものです。「悪いけど、あなたのファンじゃないからそんな口調で喋らないでちょうだい」って。彼女は時々ボス気取りで高飛車に命令することがありました。今夜は劇場に行くわよとか、遅くまでテレビを見ることにするわとか。いつも元気で何にでも興味を持ち、アイデアにあふれていました。睡眠薬のおかげで脳を休めることができたのです。

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2018年、パリのジェーンの書斎。彼女の巣であり、隠れ家だった。

「これがパリ5区のギ・ドゥ・ラ・ブロス通りにあった一軒家のものなのか、6区のフェル通りのアパルトマンの写真なのかよくわかりません。ジェーンはいつも同じような内装にしていました。伝書鳩のような彼女には巣や戻る場所が必要だったのです。いつも同じ花柄の壁紙はブラクニエのもの。壁にはゲンスブールの言葉、シャルロットのデッサン、そして本が積み重ねられていました。どの家にも私の部屋が用意されていて、セルジュの家でさえ、お人形ルームを用意してくれました」(ガブリエル)

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キッチンで愛犬と。イングリッシュブルドッグの品種を彼女は気に入っていた。photography : © Archives personnelles Jane Birkin et Gabrielle Crawford 

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text : Lætitia Cénac (Madame Figaro)

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