シルビア・クリステル、『エマニエル夫人』のイメージに付き纏われた人生とは?
Celebrity 2024.10.24
1974年、女優シルビア・クリステルはジャスト・ジャカン監督の映画『エマニエル夫人』でスキャンダラスなキャラクターを最初に演じた。それから50年後、ノエミ・メルランがエマニエル夫人を演じる長編映画のリメイクが劇場公開された。
1978年、シルビア・クリステルとイアン・マクシェーン。photography: Steve Wood/Popperfoto / Popperfoto via Getty Images
彼女のスキャンダルは、彼女の成功と同じくらい衝撃的だった。1974年、エマニエル・アルサン(ペンネーム)の同名小説を基にしたセンセーショナルな長編映画『エマニエル夫人』はフランスの大衆を魅了し、ヒロインの若手女優シルビア・クリステルを一躍トップ女優に押し上げた。それから50年後、オドレイ・ディワンとレベッカ・ズロトヴスキが共同執筆した新しいリメイク版が、9月25日(水)に劇場公開された。ノエミ・メルランがシルビア・クリステルに続き、官能的な体験を重ねる女性を演じている。ただし、大きな違いがある。今回の主人公は、失われた快楽を求めるラグジュアリーホテルチェーンの品質管理官であるのに対し、クリステルは、夫に誘われ、見ず知らずの女性との妄想にふける怠惰な妻の役を演じた。この役は、オランダ出身の女優シルビア・クリステルの人生を終生にわたって影響を与えることになった。
「逃げ出したかった」
1952年9月28日、ユトレヒトに生まれたシルビア・クリステルは、平凡な人生を送る運命にあるように見えた。ホテル経営者のジャン=ニコラス・クリステルとピエチェ・ヘンドリカ・ランメの長女として生まれた彼女は、オランダの中流家庭で姉とともに育った。彼女は2007年に出版された回想録『Nue(原題)』の中で、少なくとも暗い幼少期を振り返っている。「厳格に育てられた。私は逃げたかった」と彼女は書いている。この時期は、初めてのトラウマでさらに影響を受けていた。最近『デイリー・メール』紙が抜粋した彼女の自伝によると、彼女は9歳の時に両親が経営する学校のマネージャーから性的暴行を受けたことを明かしている。被害者となった彼女につらい記憶を残したに違いない。
3年後、11歳で喫煙を始めた少女は修道女の寄宿学校に入学した。ティーンエイジャーの彼女は学校では優秀で、英語、フランス語、オランダ語、イタリア語に堪能だった。彼女は何度も学年を飛び級するほどの知的な努力を重ね、その瞬間だけでもクリステル家の重苦しい雰囲気から逃れることができた。そして彼女が14歳のとき、両親が離婚した。自伝の中で、著者はもうひとつのトラウマ、つまり父との別れについて言及している。帰宅したとき、父ジャン=ニコラス・クリステルには愛人がいて、妻とふたりの娘を追い出した。「これが私に起こった最も悲しい出来事」とシルビア・クリステルは綴っている。
映画にぴったりだと思った
2年後、彼女は学校を退学する。そして、秘書や看護師、販売員など、さまざまなアルバイトを掛け持ちする。やがて、彼女の白い肌、細い顔立ち、透き通った目がモデルの道を開いた。21歳のとき、彼女はミステレビヨーロッパのコンテストで優勝すると、広告撮影が続いた。間違った扉を開いたことで、彼女は人生を変える役を手に入れることになる。当時、シルビア・クリステルは洗剤の広告のオーディションを受けると思っていた。しかし、監督のジュスト・ジャカンがカメラの前で脱ぐように求めたとき、彼女はすぐに自分の間違いに気づいた。
「彼のために撮影テストをした」と、女優は回顧録の中で振り返った。「私はただ『愛している、愛している』と言えばよかったのに、代わりに『私の名前はシルビア・クリステル、ユトレヒトに住んでいます......』と、自分の生活の詳細を語ってしまったの。彼はそれを気に入り、新鮮で官能的だと思ったみたい。」ジュスト・ジャカン監督は、彼女を彼の最初の映画『エマニエル夫人』の主役に選んだ。「美しい女の子たちをたくさん見た後、ショートブロンドの若い女性が通り過ぎるのを見て、一瞬で映画にぴったりだと思った」と彼は語っている。
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呪縛
シルビア・クリステルは『チャタレイ夫人の恋人』に主演した。(1980年10月10日)photography: Abaca
しかし、若きシルビアはその役を辞退する。提案された給料はわずか18,000フラン(約311万円)だった。そして、彼女はこの性的な成長を描いた物語を知った母親の反応を恐れていた。しかし、シルビアは、23歳年上のベルギー人小説家フーゴ・クラウスの後押しで結局この役を引き受けることになる。彼との間に、1975年に息子アーサーが誕生した。映画『エマニエル夫人』は1974年6月26日にパリの映画館で公開され、物議を醸しながらも巨大な成功を収める。シャンゼリゼの映画館トリオンフでは、なんと12年間も上映され続けた。『エマニエル夫人』は、全世界で3億5000万人の観客を動員した。
シルビアは当初気づかなかったものの、エマニエルというキャラクターは彼女に張り付き続け、次第に重荷となっていく。「私は服を着ていたのに、人々は私が裸でいることを望んでいた」と彼女は著書の中で嘆いた。「私が話をしていても、周りは私が黙っているか、音声を吹き替えられることを望んでいた。」
彼女が断ち切ることのできない呪いだった。以降の数十年、オランダ出身の彼女は再びこのような熱狂的人気を味わうことはなかった。もちろん、何人かの偉大な監督の作品には出演した。ジャン=ピエール・モッキー監督の『Un linceul n'a pas de poches(原題)』(1975年)、ロジェ・ヴァディム監督の『Une femme fidèle(原題)』(1976年)、クロード・シャブロル監督の『Alice ou la dernière fugue(原題)』(1977年)に出演。フランシス・ジロド監督からは『シルビア・クリステルのピンク泥棒』(1977年)の主役のオファーもあった。
しかし、シルビア・クリステルはその危険なイメージから抜け出すのに苦労する。さらに、彼女は契約を守らなければならず、さまざまな『エマニエル夫人』の続編に出演する。その後、彼女はより控えめな作品に出演したが、再びエロティックなジャンルへと復帰した。さらに、ジュスト・ジャカン監督のD.H.ロレンスの小説を原作とした映画『チャタレイ夫人の恋人』にも出演する。『魔性の女スパイ』(1985年)、『ドラキュラ・ウィドー』(1988年)、『ホット・ブラッド』(1990年)にも出演した。また、アラン・ドロンと共演した『エアポート'80』(1979年)などのアメリカ映画にも出演している。今にして思えば、1980年代には恋愛を含め、間違った選択を繰り返していたと彼女は認めている。
破壊的な情熱
1977年、シルビアはフーゴ・クラウスと別れた。その後、ミシェル・ポルナレフとの短い恋愛関係を持ったことを2016年週刊誌の「パリ・マッチ」で明かしている。「私たちの関係は1年続きましたが、それは当時の私にとって記録的なことでした。彼女は素晴らしい人で、周囲の状況に圧倒されていました。彼女は遊び相手ではなく、むしろ知的で非常に優れた画家でもありました」とミシェル・ポルナレフは語っている。その後、シルビア・クリステルは映画『The Fifth Musketeer(原題)』(1979年)の撮影中にイギリス人俳優イアン・マクシェーンと出会う。彼らは1980年代初頭まで破壊的な恋愛関係にあった。
ふたりの関係は破綻した。暴力的なエピソードも繰り返された。シルビアは『スタンダード』紙のインタビューで、俳優としてキャリアが軌道に乗らないことに苛立ったパートナーの暴発について語っている。「この現実が彼をいらだたせ、時には怒りを爆発させていました」と彼女は分析した。「彼は時に暴力的でしたが、その後は女性のような優しさで私に接しました。彼は時に泣き、自分の過ちを後悔していました。しかし、何の前触れもなく、私たちは再びケンカに発展することがありました。」その頃、シルビアはコカインを摂取し始める。「吸引し、走り、転び、さらに吸引し続けました」と彼女は語る。彼女はイアンと別れても、その地獄のようなスパイラルから抜け出すのに苦労した。
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健康上の問題
著書『Nue(原題)』のサイン会に参加するシルビア・クリステル。(ロンドン、2007年7月5日)photography: Abaca
1982年、シルビアはアメリカの実業家アラン・ターナーとの結婚を決意する。この結婚は5ヶ月間続いた。その後、彼女はベルギー人プロデューサー、フィリップ・ブロットと再婚する。女優は彼の映画に投資するが、損失を出し、その後1991年に離婚した。この法廷闘争で、シルビアはロサンゼルス、パリ、フランス南部、オランダにある不動産を失った。これらの物件は、彼女が『エマニエル夫人』のシリーズで得た報酬で取得したものだった。そして決意を固め、シルビアはオランダへと戻る。彼女はそこで中毒治療を受けるが、すぐに新たな健康問題に悩まされることになる。
2001年、シルビア・クリステルは喉のがんの診断を受けた。病気は徐々に肺に広がっていった。しかし、彼女は最後のパートナーであるベルギー人ラジオプロデューサー、フレッド・デ・ヴリーの支えを受けながらこの試練に立ち向かった。彼が2004年に亡くなると、彼女はひとりで闘いを続けた。その傍ら、彼女は小規模なヨーロッパのプロダクションで演技を続けた。しかし、2012年6月、再び不運が訪れる。脳卒中を起こしたのだ。4か月後、彼女は肺と食道のがんのため、60歳で眠るように息を引き取った。女優はオランダのユトレヒトに埋葬された。そこは彼女が生まれ育った場所であり、かつて逃れたいと願った土地だった。
text: Chloé Friedmann (madame.lefigaro.fr) translation: Hanae Yamaguchi