ドナルド・トランプを形作った恐るべき父親、フレッド・トランプとは何者なのか?

Celebrity 2024.11.09

ドナルド・トランプに多大な影響を及ぼしたのは支配的な父親、フレデリック・トランプだった。

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『The Art of the Deal』(日本版タイトル:『トランプ自伝―不動産王にビジネスを学ぶ』、早川書房(1988年)、筑摩書房(2008年))出版記念パーティーに出席したドナルド・トランプとフレッド・トランプ。(1987年12月12日、ニューヨーク) photography: Sonia Moskowitz / Getty Images

ドナルドの姪であるメアリー・トランプによると、祖父フレッド・トランプは家庭を戦いの場とみなし、勝者は1人、その他は負け犬という考えの持ち主だった。そして勝者になる気満々の青年ドナルドは父親のお気に入りとなり、事業後継者の地位を手に入れた。そのことからしても、どれだけ父親の影響力が強かったかがわかる。抜け目ない事業家のフレッドは妥協を許さず、「勝者」ドナルドは、「負け」という言葉を自分の辞書から抹殺した。

家父長制度

ドナルド・トランプは1946年、5人きょうだいの第4子に生まれた。母メアリー・アン・マクラウドはスコットランド生まれで、結婚前はニューヨークの裕福な家庭で乳母をしていた。父フレデリックことフレッド・トランプは、20世紀初頭にクイーンズに定住したドイツ系アメリカ人で、裕福な実業家だった。フレッドは1936年に結婚し、母親が創業したファミリービジネス、「エリザベス・トランプ・アンド・サン」の剛腕経営者として、クイーンズ、ブルックリン、ニューヨークの郊外に中流階級向けの住宅を精力的に建設した。それは非常に儲かるビジネスで、儲けの一部は息子ドナルドの名義にした。結果として8歳にしてドナルドはすでに大金持ちだった。

家庭では誰も父親に逆らわなかった。フレッド・トランプは子どもを威圧するオーラを放ち、話し相手と認めるのは息子たちだけだった。長年「ニューヨーク・タイムズ」紙の調査ジャーナリストだったデビッド・ケイ・ジョンストンはトランプ家の環境を次のように描写した。「ドナルドは本当にひどい環境で育ちました。父親のフレッドはとんでもなく冷淡で意地が悪い一方で、非常に勤勉でした。怠け者のドナルドとは真逆です。フレッドはしょっちゅう、子どもたちを怒鳴りつけていました。どうして儲けがでないんだ?あの事業、この事業の元がなぜ取れていない?と」

オーストラリアのTV局の取材を受けたメアリー・トランプは「祖父は結局、家庭内で唯一発言権がありました。絶対的な権力者だったのです。それは徹底的な家父長制度で男尊女卑思想が強く、女性であることはそれだけでマイナス要因でした」と言うと、「祖父には血筋を大事にする側面もありました。本人はそうとは言わなかったでしょうが、祖父が築き上げた不動産帝国があり、自分と同名の長男、つまり私の父(ドナルドの兄のフレッド)がおり、彼が後継者となれば帝国が永遠に続くと感じていたのではないでしょうか」と続けた。メアリー・トランプに言わせると、祖父は平気で弱者いじめをして人を意のままに動かすことを好む「マニピュレーター」だったそうだ。

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金と名声と権力

仏「フィガロ」紙のポッドキャスト『Scandales(原題)』でジャーナリストのデビッド・ケイ・ジョンストンは次のエピゾードを語っている。「トランプ家の近くに住んでいたジョニー・メッサーに聞いた、子ども時代の思い出です。ある日、ジョニーがトランプ家の前を自転車で通り過ぎ、25セント硬貨をポケットから落としました。ちょうどそのとき、フレッド・トランプがキャディラックで帰宅してきたのです。フレッドは車を停めると、お金を拾いに戻ったジョニーよりも先に急いでコインを拾い、ジョニーに見せびらかしながらこう発言しました。『もう俺のもんだ』と。たかだか6歳とか8歳の子どもにそんなことをする人間がいるなんて。それがフレッド・トランプなんです」

フレッドの子どもたちはそんな父の行動に影響を受けた。とりわけドナルドは姪のメアリーいわく、逆境にあって「敵対的な無関心と攻撃的な無礼さ」を身につけたようだ。やんちゃすぎたドナルドは13歳の時に父親の手で陸軍幼年学校へ送られる。「父親から拒絶され、ヒエラルキーが支配する規律正しい環境に放り込まれたことで、人生は厳しい、常に戦いだ、どんな分野でも勝たなければならないことを学んだのでしょう」とジャーナリストで『TheTruth About Donald Trump(原題)』を執筆したマイケル・ダントニオは、公共放送サービスPBSの取材に語っている。陸軍幼年学校でドナルド・トランプは期待に応え、戦争マシーンと化す。

だが本人は自著『The Art of the Deal』(日本版タイトル:『トランプ自伝―不動産王にビジネスを学ぶ』、早川書房(1988年)、筑摩書房(2008年))で父親に威圧されたことは一度もないと書いている。「堂々と父と渡り合い、それを評価されていた」と主張している。2000年に出版されたグウェンダ・ブレアの伝記本『The Trumps(原題)』は、親密な父子関係ではなかったことを指摘している。一緒に話をしていても相手の話を聞かず、ライバルのような関係なのに協力しあっていた。ニューヨークのフォーダム大学に入学、その後フィラデルフィアのペンシルバニア大学に転校した大学生のドナルドは毎週金曜日にクイーンズの自宅に戻り、父親と顔を合わせた。「当初からドナルドが狙っていたのは家業を掌握し、事業を発展させて金と名声と権力を手に入れることでした。そして最終的にその目標を達成したのです」とジャーナリストのマイケル・ダントニオはPBSに語っている。

1968年、フレッド・トランプは息子がベトナム戦争へ行かずに済むように手を打った。知り合いの医者に頼み、ドナルドのかかとの骨に発達異常があると診断させたのだ。そのお礼にフレッド・トランプはその専門医に自社ビル内の仕事を依頼したそうだ。1971年、ドナルド・トランプは家業を受け継ぎ、現在の「トランプ・オーガニゼーション」に社名変更した。1999年に父親が亡くなると、彼は巨額の遺産を手にした。2018年のニューヨーク・タイムズ紙の調査によると4億1300万ドルが懐に入ったらしい。ドナルドの第二の父親的存在であり、影響を及ぼしたコワモテの元弁護士、ロイ・コーンは当時すでに亡くなっていた。

text: Chloé Friedmann (madame.lefigaro.fr)

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