ダイアナ妃、英国王室一家とクリスマスを過ごせなかった理由とは?

Celebrity 2024.11.29

幼い頃の悲しい思い出がトラウマとなっていたダイアナ妃。サンドリンガム・ハウスでもやはり、ウィンザー家と心を通わせる時間を過ごすことはできなかった。

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家出した子どもたちがホームレスにならないよう支援するセンターポイントのクリスマスキャンペーンに参加したダイアナ妃。(ロンドン、1996年12月2日)photography: Getty Images

クリスマスという言葉を聞いた時、プレゼント、家族との食事、そして喜びを連想する人もいれば、辛い時間を連想する人もいる。とりわけダイアナ妃にとっては辛い時間だった。このことをよりよく理解するためには、1967年にさかのぼる必要がある。当時6歳だった幼いダイアナ妃は、王室の私領地サンドリンガムにある彼女の幼少期の家、パークハウスの冷たい階段に座り、年末の祝祭の中でただひとつの願いを抱いていた。それは、母親のフランセスが家に戻ってくることだった。

見捨てられたという思い

1967年、雑誌「ヴァニティ・フェア」によると、ダイアナ妃の母親であるフランセス・バーク・ロシェは、父親であるジョン・スペンサー子爵と別れ、ピーター・シャンド・キッドと一緒になるために家を出た(彼と2年後に結婚する)。4人の子どもの母親であるフランセスはロンドンに引っ越し、ダイアナとチャールズのふたりを一緒に連れて行こうとしたが、夫の反対に直面した。「彼は子どもたちが私の元に戻ることを拒否し、裁判所に対して子どもたちをノーフォークに永遠に戻すよう求めました。その要求が認められたのです。裁判所はクリスマス休暇中で、私は何もできず、打ちひしがれていました」とフランセスは語ったと、米ジャーナリストのサリー・ベデル・スミスの著書『Diana in Search of Herself: Portrait of a Troubled Princess(原題)』(1999年)に書かれている。

幼いダイアナは、トラウマになるような場面をいくつも目撃した。「ダイアナはノーフォークの家の冷たい石の階段の下に静かに座り、鉄製の手すりにしがみつきながら、その周りでは切羽詰まった騒動が繰り広げられるのを見つめていた。彼女は、父親が車のトランクに荷物を詰め込む音を聞き、次にフランセスが庭の砂利道を歩く足音、車のドアが閉まる音、そしてエンジン音が高まっていくのを聞いた。それから車のエンジンが徐々に遠ざかり、母親がパークハウスの門を越えて去っていく音を聞きながら、母親が彼女の人生から出ていくのを感じた。」このエピソードは、アンドリュー・モートンの著書『ダイアナ妃の真実』に書かれたもので、ダイアナ妃が密かに協力して執筆された著名な伝記である。

それ以降、ダイアナと弟、ふたりの姉は母親と週末を過ごすこともあったが、主に父親と一緒に暮らすことになった。離婚後、家族はイギリスのノーサンプトンシャーにあるスペンサー家の歴史的な邸宅、アルソープ・ハウスで暮らした。ジョン・スペンサーは、高価な贈り物で子どもたちを甘やかすことで、フランセスを失った空白を埋め合わせようと最善を尽くした。

継母

スペンサー夫妻が別居してから数年間、アルソープでのクリスマスをダイアナは楽しむことができなかった。その原因は継母のレイン・スペンサーにあった。アンドリュー・モートンが語るように、「レインはタイムキーパーのようにプレゼントを開けるのを取り仕切った。子どもたちは彼女が指示したプレゼントしか開けることが許されず、彼女の時計を見てからでないと、紙を破る許可を与えられなかった」。

月日が流れ、ダイアナはある男性と出会う。彼こそが彼女の人生を変える人物、チャールズ皇太子だ。ダイアナが夢見るのはただひとつ、彼と結婚すること。しかし、プロポーズはなかなか訪れなかった。それは若く美しい貴族の女性であるダイアナにとって、あまりにも遅すぎた。1980年、彼女はクリスマスの休暇中、非常に動揺していたと言う。「ダイアナはとても悲しんでいる。チャールズが結婚を申し込まないせいで、公園でひとり、散歩しながら泣いている」とレイン・スペンサーは友人に語った。ダイアナは最終的に、1981年7月29日にエリザベス女王の息子、チャールズ皇太子と結婚し、世界中の人々の前で王室の一員となった。1981年12月、ウェールズのプリンセスとして彼女は初めてウィンザー家とのクリスマスの日を迎えた。その時、彼女は第一子を妊娠中で、1982年6月21日にウィリアム王子が誕生し、その2年後には次男ハリー王子が生まれた。

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ウィンザー家の部外者

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レディ・ローズ・ウィンザーとともに聖ジョージ礼拝堂を去るダイアナ妃。(ウィンザー、1987年12月25日)photography: Getty Images

しかし、「ダイアナ妃」と呼ばれるようになっても尚、幸せではなかった。そして、サンドリンガムでのクリスマスも何も変わらなかった。ダイアナ妃の美容師リチャード・ダルトンは、ダイアナ妃がそのクリスマスを心底嫌っていたと語っている。「彼女は私に、『とても寒かったし、ディナーは3時までに終わらなければならなかった』と言っていました。『3時だわ、テレビで私を見なければ』と言いながら、皆様もご存知のあの方(エリザベス女王)の真似をしていました。その時、王室は女王のクリスマスメッセージをテレビで観ることになっていたのです。また、それは『形式的なものだった』と語っていました」と「ヴァニティ・フェア」は伝えている。また、「とても緊張した」と、ダイアナ妃はジャーナリストのアンドリュー・モートンに告白している。「私は、何をお渡ししたかは記憶にありますが、何を頂いたのかは全く思い出せません。それは非常に悲しいことではないでしょうか。私はすべての贈り物を整え、チャールズがカードにサインしていたのです。それは非常に失望感を伴い、心苦しいものでした。緊張感に満ち、時に不適切な行動や冗談が交わされていました。それらは外部の方々には理解しづらいもので、理解できるのは内輪の者だけでした。私は間違いなく部外者だったのです。」これらの告白は、2021年に公開されたパブロ・ラライン監督の映画『スペンサー ダイアナの決意』に影響を与えた。本作では、クリステン・スチュワートが1991年のダイアナ妃を演じ、息が詰まるような状況と不安に悩まされながら、クリスマスを王室メンバーと過ごさなければならない姿が描かれている。

年々、ダイアナ妃はクリスマスの義務から逃れるためにあらゆる手段を尽くした。1988年12月、プリンセスは息子たちを連れてシンデレラのクリスマス公演を鑑賞したと報じられた。ダイアナ妃の弟チャールズ・スペンサーによると、父ジョンはウィリアム王子とハリー王子のために、一家の屋敷でアクロバットやピエロを使ったパーティーも企画したという。「彼らはそのパーティを楽しみにしていた」と、スペンサー卿は『デイリー・エクスプレス』に語ったと、『ヴァニティ・フェア』の記事でも引用されている。「ティータイムになると、子どもたちにお小遣いの入った小さな袋を渡し、自分たちでプレゼントを買うことができました。それからみんなで外に出ると、ロバに乗ってプレゼントをたくさん持ったサンタクロースがやってくる。父はそんな幸せを子どもたちに与えることができて、とても喜んでいました。」

それでも尚、ダイアナ妃はクリスマスを楽しむことができなかったのだろうか? 1997年に出版された『The Diana Chronicles(原題)』で、雑誌「タトラー」の元編集長ティナ・ブラウンは、「クリスマス前夜、彼女から電話をもらうことがあり、彼女はひとりでいることが多かった」とダイアナ妃の友人から聞いたという。その後の展開は周知のとおりである。結婚生活に悩んでいたダイアナ妃は、1992年12月にチャールズ皇太子と正式に別れ、4年後に離婚が成立する。それ以降、「ハートのプリンセス」として親しまれたダイアナ妃は、ウィンザー家のサンドリンガムでのクリスマスには招かれなくなった。「ダイアナは、息子たちがクリスマスの日に祖父母や父親と一緒に過ごすべきだと理解していました。もし彼女が反対していたら、息子たちの未来に関わる権利を奪うことになったでしょう」と、元執事のポール・バレルは後に雑誌「サンデー・ピープル」に語っている。

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冷遇

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クリスマスのミサを終えたロイヤルファミリー。(サンドリンガム、1993年12月25日)photography: Getty Images

『デイリー・メール』の編集長リチャード・ケイによると、1993年、盛んに報道されたチャールズ皇太子との別居から1年後、ダイアナ妃はサンドリンガムでのクリスマスイヴに参加した。彼女はそこで一晩を過ごし、家族と一緒にミサに出席した。「しかし、昼食には残らず、ケンジントン宮殿にひとりで戻り、その後は残りの一日をそこで過ごし、友人たちと過ごすためにワシントンへと出発しました。1994年にも同じことが起こりましたが、ダイアナ妃は他のロイヤルファミリーメンバーから『冷たい』対応を受けたと感じていました」と、タブロイド紙の記者は報じた。また、リチャード・ケイにある情報提供者が次のように証言したと言う。「ダイアナは全く歓迎されていると感じていませんでした。彼女は自分の存在がみんなを緊張させ、不安にさせていることが分かっていました。彼女は息子たちのために参加したのですが、うまくいきませんでした。」

ダイアナ妃はその後、もう努力しないことを決めたと報じられた。元王室料理人のダレン・マクレイディが語るように、1996年、最後のクリスマスをひとりで過ごした。「クリスマスイブにダイアナ妃に仕えるのは、いつも非常に悲しいことでした」と、彼は王室ジャーナリストのオミッド・スコビーに語っている。「ウィリアム王子とハリー王子はサンドリンガムに向かい、ダイアナ妃はひとりで過ごしていました。彼女はスタッフに家族と一緒に過ごすようにと強く勧め、私たちには食事を冷蔵庫に入れておくようにと言いました。」1997年8月31日、ダイアナ妃はパリのアルマ橋で発生した事故により命を落とし、ふたりの息子たちが彼女とクリスマスを過ごす機会は永遠に奪われてしまった。

From madameFIGARO.fr

text: Ségolène Forgar (madame.lefigaro.fr) translation: Hanae Yamaguchi

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