ジョン・F・ケネディの孫娘タチアナ・シュロスバーグ35歳、末期の白血病であることを告白。

Celebrity 2025.11.25

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キャロライン・ケネディとエドウィン・シュロスバーグの娘、タチアナ・シュロスバーグは「ザ・ニューヨーカー」に感動的な文章を掲載、重度の白血病を患っていることを明らかにし、経緯を語った。

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タチアナ・シュロスバーグが母キャロライン・ケネディとメトロポリタン・オペラハウスにて。(ニューヨーク、2010年5月17日)photography: Fairchild Archive/ Penske Media via Getty Images

「死にゆくとき、人は――少なくとも私の限られた経験では――すべてを思い出し始めるものだ」

彼女はそう書き始めた。11月22日土曜日、タチアナ・シュロスバーグは「ザ・ニューヨーカ」に胸を打つ文章を掲載し、末期がんを患っていることを明かした。この文章で彼女は診断告知を受けてから現在までの経緯を振り返っている。すべては2024年5月25日、第二子となる娘を夫ジョージ・モランとの間に出産して数時間後に始まった。「医師が、私の血液数値がおかしいと言い出しました。白血球の正常値は1マイクロリットルあたり4000〜1万1000個です。私の場合、13万1000個でした」と、ジャクリーンとジョン・F・ケネディの孫娘は語り始めた。

当時、医師たちは安心させようとし、この異常に高い数値は妊娠や出産に関連している可能性があると説明した。しかし別の可能性として白血病が考えられる。ほどなくして彼女は娘と離れ、病院の別の階へ移された。いくつかの医療検査を経て、ついに判定が。タチアナ・シュロスバーグは「急性骨髄性白血病、反転3と呼ばれる稀な変異を伴う」病気に罹患していた。これは主に高齢患者にみられるが、「私は高齢ではない、34歳になったばかりだった」と彼女は語った。「私は信じていなかった――信じられなかった――彼らが私の話をしているとは。前日まで妊娠9カ月で、プールで1.6キロも泳いだのだ。私は病気ではなかった。病気だと感じてもいなかった」と彼女は述べた。

がんを遠ざけるために

タチアナ・シュロスバーグは、治癒を願いながら、長い治療の道のりを歩み始める。「標準治療では治らないとのことでした。少なくとも数カ月の化学療法が必要で、それは骨髄中の芽球細胞の数を減らすことを目的としたものです。(芽球細胞とは未熟な血液細胞で、その数が多いことは白血病の兆候となる)」と彼女は説明した。「その後は骨髄移植が必要で、それによって治癒するかもしれないとのことでした。移植後は、がんが再発しないよう定期的な化学療法が必要になるだろうと言われました」。出産後に病院で過ごした5週間は、タチアナ・シュロスバーグにとって辛い日々だった。しかし、医師でもある夫、子どもたち、友人たち、そして看護師たちが支えてくれた。「最終的に、芽球細胞の数が減り、家族と過ごせる在宅治療のサイクルに移行することが許されました」と彼女は語っている。

化学療法の後、彼女は米国内最大級の骨髄移植センターのひとつであるメモリアル・スローン・ケッタリングがんセンターに入院し、姉からの幹細胞移植を受けた。「それから私は待ちました。血液数値が回復し、姉の細胞が私の体を癒し、変えていくのを」と彼女は書いた。「髪が抜け始めたので、スカーフで頭を覆っていました。(...)息子が面会に来たら、息子も頭にスカーフを巻いていたのです」。50日間の入院を経てタチアナはついに帰宅した。移植は寛解をもたらしたが、免疫系は依然として非常に脆弱で、すべてのワクチンを再接種しなければならなかった。彼女は「がんを遠ざけるため」に新たな化学療法のサイクルを開始したが、再発してしまう。

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歩き方を学び直さなければならなかった

2025年1月、彼女はCAR-T細胞療法の臨床試験に参加する。「特定の血液がんに対して効果があることが示されているタイプの免疫療法」である。しかしこの治療は非常に負担が大きかった。タチアナは炎症を引き起こすサイトカイン放出症候群を発症したのだ。「高流量酸素なしでは呼吸ができませんでした。肺に液体が溜まり、肝臓も悪化し、集中治療室へ移される寸前の状態が常時続きました」と彼女は語る。

数週間後、再び寛解となるが、それも長くは続かなかった。4月には、今度は匿名のドナーから再度移植を受ける必要があった。再び寛解に入った後にも再発し、別の臨床試験への参加を受け入れた。しかし合併症はさらに彼女を苦しめる。「最初は移植片対宿主病を患い、新しい細胞が古い細胞を攻撃しました。そして9月末には、エプスタイン・バーウイルスの一種に襲われ腎臓を破壊されました」とタチアナは語る。「数週間後に帰宅したとき、私は歩き方を学び直さなければならず、子どもたちを抱くこともできませんでした。足の筋肉は萎縮し、腕は骨同然でした」

「子どもたちは私のことを覚えていないかもしれない

治癒の望みはあるものの、がんは依然として残っている。「最後の臨床試験中、医師は『1年ほどは生きられるかもしれない』と言いました」と彼女はザ・ニューヨーカーで明かしている。「最初に頭に浮かんだのは、私の子どもたち――その顔は私の記憶に永遠に刻まれています――が、私のことを覚えていないかもしれない、ということでした」。実際、診断を受けたのは娘を出産した直後であり、タチアナ・シュロスバーグは娘の世話をすることができなかった。「おむつを替えることも、入浴させることも、食べさせることもできませんでした。移植後の感染リスクのためです。娘の人生最初の1年の半分近くを、私は離れて過ごしました。彼女が私をどう思っているのか、本当のところはわかりませんし、私がいなくなったときに、自分の母親だと感じたり覚えていたりするかどうかもわかりません」と彼女は打ち明けた。

治癒への道のりの中で、タチアナ・シュロスバーグは母国の政治状況にも細かく目を向けていた。特に、従兄のロバート・F・ケネディ・ジュニアが、ドナルド・トランプ政権下で米国保健福祉省長官に任命された件についてである。「病院のベッドから、ボビーが常識や理性を無視してこの役職に承認されるのを見ていました。医療、公衆衛生、政府分野で働いたことが一度もないにもかかわらず」とジャクリーン・ケネディの孫娘は嘆いた。「突然、私が頼りにしていた医療制度が脆く、不安定に感じられました」。彼女は文章の中で、医療分野において行われた多くの予算削減を列挙し、また従兄の反ワクチン姿勢にも言及した。「私は特に、再びワクチンを接種できなくなることを心配していました。それは私が残りの人生を免疫不全のまま過ごすことを意味するからです」と彼女は述べる。現在の状況にもかかわらず、タチアナ・シュロスバーグは何より家族について考え、家族との時間を大切に過ごすことを優先している。「ほとんどの時間を私は生きること、そして家族と共にいることを心がけています。ですが実際にいることはなかなか出来ず、思い出が行き来するがままにしています」と思い出をできる限り長く保ちたいと語った。

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text: Leonie Dutrievoz (madame.lefigaro.fr)

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