姉ジャッキー・ケネディの影に隠れたファッションアイコン、リー・ラジウィルとは?
Celebrity 2025.11.30

2019年2月15日に亡くなったリー・ラジウィルは姉のジャッキー・ケネディと終生のライバルだった。そして今日、デザイナーのジョナサン・アンダーソンは、注目の初ディオールコレクションのインスピレーション源としてリーに注目した。
彼女は長らく、姉ジャッキー・ケネディの陰で目立たなかった。だが亡くなって6年経った今日、リー・ラジウィルは世界的なファッションブランドにインスピレーションを与えた。6月27日にパリで予定している初のディオール・ファッションショーを目前に、ジョナサン・アンダーソンは元米大統領夫人の妹のポートレートを共有した。それは「今回のインスピレーションをざっと示したムードボードにあった」写真の一枚で、マリア・グラツィア・キウリが去った後のメゾンの方向性を決めるもの。新任アーティスティック・ディレクターにとってジャッキー・ケネディの妹は、(同じく「ミューズ」である)ジャン=ミシェル・バスキア同様、ひたすら「スタイルの頂点」を象徴する存在なのだ。
実際、リーの生きざまは多くのアーティストを魅了している。元米国ファーストレディの妹は2019年2月15日金曜日、ニューヨークの自宅で85歳で亡くなった。姉より20年以上も長く生きたわけだ。姉妹が結婚した相手がそれぞれ大統領と王族だったのは、人生で大切なのは「お金と権力」であると教えこまれて育ったから。ふたりの母、ジャネットは1951年に「それこそがずっと幸せになる秘訣」と語っている。こうして若きリーとジャッキーは母の信念を生涯かけて実現しようとしたが、道のりは過酷で失望に満ちていた。
姉妹は男性をめぐって激しく競った。ただし「それは一方的なものだった。リーがジャッキーに対抗心を燃やしていた」とJ・ランディ・タラボレッリは著書『Jackie, Janet & Lee』(2018年1月30日刊)で指摘している。愛情とプライド、嫉妬が渦巻く姉妹の関係をもう一度振り返ってみよう。
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自分の運命を明確に理解していたジャッキー
ジャッキーとリーの姉妹は裕福な家庭で育ち、イーストハンプトン、マンハッタン、ニューヨーク、ニューポートで暮らした。父は「ブラック・ジャック」ブーヴィエ。1929年7月28日生れのジャッキー、1933年3月3日生れのリーは怖いものなしのお嬢様。ふたりは仲が良かったが、性格は真逆だった。ジャッキーは生まれながらのお姫様だった。母ジャネットが株仲買人のヒュー・ダドリー・オーチンクロスと再婚して生まれた異父弟ジェイミー・オーチンクロスは「ジャッキーは自分の運命を明確に理解していた。自分が特別な存在だと自覚しているかのようだった」と後日語っている。
姉を崇拝していた妹のリーは姉の言うなりだった。「リーはチャーミングだったけれど、自分の居場所を見つけようとしているようだった」とジェイミーは続ける。仲良し姉妹はすぐに熾烈なライバルとなっていった。
模範生
姉妹の競争心をあおったのは他ならぬ母ジャネットだった。「幼い娘たちに母ジャネットは『勝者になれ』と教えこんでいた。勝者になる方法のひとつは、裕福な男性と結婚することだった」とタラボレッリの著書にある。ジャネットが娘たちを入学させたのは、マナーを学び、交友関係もチェックする名門校だった。
リーは模範生だったが、姉からの、痩せたいならタバコを吸えばいいというアドバイスを真に受けて摂食障害に陥る。しかしながら親が心配なのはジャッキーの方だった。歴史本やセヴィニエ侯爵夫人の書簡集に夢中になるジャッキーを見て、ジャネットはどんな恋愛沙汰を起こすのかと気をもんだ。作家トルーマン・カポーティはジャッキーとリーを「芸者」と呼んだが、男性に気に入られるよう育てられた姉妹は実際、お茶の作法から踊り、フラワーアレンジメントにまで精通していた。ジャネットはニューヨーク、パリ、ロンドンの行きつけの店で姉妹に最高級の服を買い与えた。姉妹が「良い結婚」をするための条件は整った。
ジャッキーの最初の婚約が破談になったのもこの目標のせいだ。1952年6月、株仲買人のジョン・ヒューステッド・ジュニアと婚約後、相手の年収がたった1万7千ドル(今日で16万ドル相当)しかないと知ったジャッキーは失望した。「なぜこの情報を事前にキャッチしておかなかったのかしら」
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ファーストレディへの道
こうして未来のファーストレディはジョン・ヒューステッドをさっさと空港まで送り届けると、無言で婚約指輪を外し、彼のジャケットのポケットに押し込んだ。「まるで氷のように冷ややかだった」と元婚約者はのちに回想している。そうこうしている間に妹のリーが姉に先んじる機会が訪れた。1953年4月、リーは出版業界の名門一族であるマイケル・キャンフィールドと結婚した。だが数ヶ月後にどんでん返しがあった。ジャッキーがマサチューセッツ州選出の上院議員、ジョン・F・ケネディとの結婚を決めたのだ。7年後にアメリカ合衆国第35代大統領となる人物である。
ジョン・F・ケネディが女好きであることは公然の秘密であったが、ジャッキーは子どもが生まれたら夫婦の絆が強まるのではと密かに期待していた。しかしながら1956年、帝王切開で出産した最初の娘アラベラをジャッキーが失ったとき、夫は地中海クルーズを楽しんでおり、帰国するそぶりも見せなかった。ジャッキーは離婚を考え、妹リーに相談するが猛反対される。リーは野心的な義兄を評価しており、また父が母をなん度も裏切る姿に幻滅していたからだ。リーの直感は正しかった。1年後、ジョン・F・ケネディは大統領に就任した。
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私の人生は終わった
しかしながらリーは姉に言ったことを自分で実践できていなかった。1959年、27歳のリーは最初の夫マイケル・キャンフィールドと離婚し、数か月後にポーランドの王族であるスタニスラフ・アルブレヒト・ラジウィルと再婚する。夫妻には子どもが2人、1959年にアンソニー、1960年にアンナ・クリスティーナが生まれる。こうしてリーは実際に「プリンセス」となり、姉を見返したものの、満たされなかった。米国のファーストレディとなって名声を手にした姉の前に妹は屈服するしかなかった。「どうやってこれに太刀打ちできるの?私の人生は終わったわ」と当時、リーは友人に嘆いている。この悔しさからリーは名声を追いかけるようになった。
最初は舞台や映画界で成功しようと考えた。1960年代から舞台に立ち、1968年には映画『ローラ殺人事件』のテレビドラマ化作品にも出演するが、パッとしなかった。1970年代には新たにインテリアデザイナーとして活動を始めるが、彼女が有名になったのは姉のおかげだった。1962年にはジャッキーのインドやパキスタンへの公式訪問に同行している。同年、リーは大富豪アリストテレス・オナシスと不倫関係になった。彼の金銭観がリーにしっくり来たからだった。「お金は単なる贅沢品ではなく、権力だ。俺のそばにいれば、おまえもその権力を享受できる」と言う億万長者はリーに結婚を約束したのだった。
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生きなければ
だがうまく行っているように思えた恋に暗雲が立ちこめた。1963年8月にジャッキーとJFKの息子、パトリックが生まれて2日目で亡くなったがきっかけとなった。リーは姉を慰めようとオナシス家の豪華ヨット「クリスティーナ号」でのクルーズに誘う。ジャッキーが来るとオナシスは手厚くもてなした。船をバラやグラジオラスで飾り、2人のシェフが交互に毎日、フォアグラやロブスターの料理をふんだんに用意した。こうした時間を通じて、ジャッキーとオナシスは親しくなる。
だが、ジャッキーが帰国して5週間後の11月22日、運命が襲いかかる。夫JFKがダラスで暗殺され、ジャッキーは子どもたちを連れてニューヨークに引っ越した。夫を突然失い、深刻なうつ状態に陥ったジャッキーは食事も取らず、アルコールに溺れ、不眠に苦しみ、ずっと泣き続け、自殺をほのめかすこともあった。
ある晩、ジャッキーは泣きながらリーに電話をかけた。そして薬とウォッカを飲んで眠って、そのまま目が覚めなければいいと思っていることを話す。リーは慌てて姉の家へ駆けつけ、家中の薬をトイレに流した。それでも不安なリーは、アリストテレス・オナシスにマンハッタンへ来る時はジャッキーを見守ってほしいと頼む。これをきっかけにオナシスは足繁く元ファーストレディのアパートを訪れるようになる。「ジャッキー、今は喪に服する時だ。でもじきに生きなければ」とオナシスはジャッキーに言う。
ひとまずさようなら
リーはオナシスが姉の元へ通っていることに不安を覚えはじめた。ただジャッキーが当時心惹かれていたのは建築家のジャック・ワーネッキーだった。彼がJFKの墓を設計して以来、ふたりは親密になり、結婚すら考えていた。
ジャッキーの恋に終止符を打ったのは一本の電話だった。「話さなきゃいけないことがある」とジャックは電話口で言った。「ちょっと問題があって...65万ドルの借金があるんだ」。ジャッキーは驚きつつも、「なんとかなるでしょう」と言う。そして最後にこう告げた。「ジャック、ひとまずさようなら」。ジャッキーは恋に別れを告げた。
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私にはこれが必要
1967年、オナシスはジャッキーをギリシャのスコルピオス島に招いた。滞在中にリーの名前がふたりの会話に出ることはなかった。ジャッキーはオナシスにすっかり心を奪われた。一方、リーは激怒していた。翌年、彼女も島に招待され、必死で怒りを抑えながらやってきた。しかし、アリストテレス・オナシスの家に滞在してすっかり変わったジャッキーが笑う姿を見てリーの怒りは陽光で溶ける雪のように消えていった。妹が到着するとジャッキーはリーの腕をつかみ、耳元でささやいた。「私にはこれが必要なの、リー」
リーの祝福を受け、ジャッキー・ケネディはようやく気持ちを解放できた。1968年10月20日、彼女はオナシスと再婚した。オナシスは7年後に亡くなり、ジャッキーに2550万ドルという莫大な遺産を残した。その後、ジャッキーは出版社で働き始め、ダイヤモンド商モーリス・テンプルスマンと恋に落ちる。
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死ぬまで愛する
リーの方は1974年にスタニスラス・ラジウィルと離婚し、14年後にハリウッドのプロデューサー、ハーバート・ロスと再婚する。1993年、ジャッキー・ケネディはリンパ腫と診断される。1994年5月18日、深い昏睡状態に陥った彼女を訪れた人がいた。それは妹のリーだった。「あなたをとても愛してるわ。ずっと、ずっと愛してたの、ジャックス」とリーは姉の耳元にささやいた。
翌日の1994年5月19日、元ファーストレディは亡くなった。子どもたちにそれぞれ100万ドルの遺産を残したが、リーには何も残さなかった。「妹のリー・B・ラジウィルをとても愛していますが、この遺言で彼女には何も遺しません。与えるものは生前に全て与えたからです」。それは妹への死後の賛辞だったのか、それとも最後の挑発だったのか。
姉妹は死してもライバルだった。ただし作家トルーマン・カポーティが1961年のオードリー・ヘップバーン主演映画『ティファニーで朝食を』のヒロイン、ホリー・ゴライトリーのモデルとしたのは、ジャッキーではなく、リー・ラジウィルだった。
From madameFIGARO.fr
text: Chloé Friedmann & Augustin Bougro (madame.lefigaro.fr)





