「母が浮気されるなら.......」オードリー・ヘプバーンの息子が明かす、映画スターの知られざる私生活。
Celebrity 2026.04.07

著書『Intimate Audrey(原題)』の中で、オードリー・ヘプバーンの息子であるショーン・ヘプバーン・ファーラーは、母の人生について自身の視点から率直に語っている。幼少期から人道的活動、そして女優としての遺産に至るまで、彼はオードリー・ヘプバーンの歩みの舞台裏を明かした。

ビリー・ワイルダー監督の映画『麗しのサブリナ』の撮影現場でのオードリー・ヘプバーン。photography: Getty Images
「母の人生は戦争に始まり、戦争に終わる。」そう語るのは、ショーン・ヘプバーン・ファーラーだ。彼は4月6日(月)、英紙『ガーディアン』の取材に対し、そう明かしている。オードリー・ヘプバーンの長男である彼は、このたび女優の初となる本格的な伝記『Intimate Audrey』を発表する予定だ。本書では、20世紀を代表する女性のひとりの歩みを、「舞台裏からの視点」で描いていると、彼は同紙に説明している。現在65歳となったショーンは、映画スターである母と俳優のメル・ファーラーのもと、スイスとローマを行き来しながら普通の子ども時代を過ごしたという。実際、オードリー・ヘプバーンは映画界のアイコン的な存在でありながら、ハリウッドの喧騒から距離を置く暮らしを選んでいた。「彼女はヨーロッパの人間であり、あえてハリウッドに住まない選択をした」とショーンは語る。「日常の暮らしとつながり続けることが、いかに大切かを理解していたからです。人々の生活から離れてしまえば、いったいどこからインスピレーションを得られるというのでしょうか?」
戦争で傷ついた幼少期
幼い頃から、オードリー・ヘプバーンはヨーロッパを揺るがす大きな出来事の影響を受けてきた。1929年にベルギーの貴族の家系に生まれた彼女は、父ジョセフ・ラストンが母エラ・ファン・ヘームストラのもとを去った後、学業とバレエのレッスンのためにイギリスへ送られる。しかし、第二次世界大戦が勃発すると、戦火を免れると考えられていたオランダで暮らす母のもとへ身を寄せることになる。そこでオードリー・ヘプバーンは、爆撃や飢餓を経験し、強制収容所へ連行されるユダヤ人に対する暴力行為も目の当たりにした。さらに、空襲の際には砲弾の破片が首に突き刺さる負傷も負っている。この傷により、彼女の動きは制限され、あの印象的なまっすぐな姿勢を保つことを余儀なくされた。また、戦前には両親が熱心なファシズム支持者であり、アドルフ・ヒトラーとともに写真に収まっていたこともあった。この過去は、長く彼女に深い心の傷を残したという。「彼女がそれを完全に乗り越えられたとは思いません」と、ショーンは『ガーディアン』に語っている。「彼女は両親のありのままを受け入れたのだと思います。受け取れるものは受け取り、そして自分にできることをしてきたのでしょう。」
「彼女は"インスタグラムの女王"だった」
戦争が終わると、オードリー・ヘプバーンはロンドンへ戻る。負傷の影響で夢だったプリマバレリーナになることは叶わなかったものの、その後は映画の道へと進む。映画『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を受賞すると、彼女のキャリアは一気に花開いた。さらに、エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞のすべてを受賞した人物に与えられる「EGOT(イーゴット)」の称号を持つ数少ない女性のひとりにもなっている。どこへ行っても映画界のアイコンとしての地位を確立しながらも、彼女は自身の名声やイメージをしっかりとコントロールし続けていた。
「彼女を不意に撮影するようなことはありませんでした」と、息子のショーンは語る。「インスタグラムが存在する前から、彼女は"インスタグラムの女王"でした。あの時代、写真を1枚世に出すには、フィルムの現像、コンタクトシートの作成、郵送、承認、赤ペンでのチェック、レタッチ、プリント、プレス用資料の作成、そして世界各地への送付といった工程が必要でした。そう考えると、たった1枚の写真のコストは、今でいう中価格帯のスマートフォン1台分に匹敵するでしょう。」さらに彼は、それこそが彼女の"本物らしさ"につながり、亡くなってから33年が経った今もなお、その人気が衰えない理由だと語る。「AIが主流となった現代において、彼女は純粋なアナログの象徴です。そこにはデジタル的なものも、作り込まれたものも、計算されたものも一切ありませんでした」と述べている。
オードリー・ヘプバーンの恋愛
オードリー・ヘプバーンがアイコンであり、女性の象徴ともいえる存在となった理由のひとつは、そのひと目で分かるスタイルにもある。彼女は多くの場合、ユベール・ド・ジバンシィによるデザインを身にまとっており、この著名デザイナーとの親密な関係は広く知られていた。「『もし彼がゲイでなかったら、結婚していたかもしれない』と彼女はよく言っていました」と、ショーンは語っている。そんなオードリーは、ほかの男性たちとも恋に落ちた。1954年にはメル・ファーラーと結婚し、1960年にショーンを出産している。「彼女の恋愛の中で、父との関係は最も大切でありながら、同時に最も困難なものでもありました」と、息子は著書の中で記していると、英紙『ガーディアン』が報じている。
1968年にメルと離婚した後、オードリー・ヘプバーンはイタリア人精神科医のアンドレア・ドッティと再婚し、1970年に次男ルカをもうけた。ショーンによれば、ドッティは「一緒にいて一番心地よい相手だったものの、まったく信用できない人物でもありました」という。実際、オードリー・ヘプバーンは2人目の夫による度重なる浮気に苦しめられていた。ショーンは、ある日、女優がベッドの上で意識を失い、そばには空になった睡眠薬の瓶が置かれていた光景を目にしたこともあったと振り返る。彼は「ひとつだけ言っておきたいことがあります。オードリー・ヘプバーンが浮気されるのなら、それは誰にでも起こり得ることでしょう」と、母親がこの苦難からどのように立ち直ったかを目の当たりにした息子は断言する。
「緊張し、疲れ切っているようだった」
愛情深い母だった彼女は、息子ショーンの誕生を機にキャリアのペースを落とす決断をする。「母にはごく当たり前の優先順位があった」と、彼女の遺産を守る存在でもあるショーンは語る。「人生は短くて、何が起こるかわからない。だからこそ、家庭を築くと決めたなら、その時間を何より大切にしたいと考えていたのです。」母としての役割に加え、彼女は1980年代から1990年代にかけて、ユニセフを通じた人道支援にも深く関わっていた。「母は、誰もが受け入れられる社会という理想に人生を捧げたのです」とショーンは振り返る。書籍『Intimate Audrey』は、彼女が亡くなるわずか4か月前、ソマリアでの最後の任務から始まる。1993年、63歳でこの世を去った彼女は、虫垂がんを患っていた。「母は緊張し、疲れ切っているように見えました。後になって、医師からは病気が時間をかけて進行していたと聞かされました。」と、ショーンは英紙の取材で回想している。
永遠のアイコン、オードリー・ヘプバーンの美しき名スタイル
しなやかで印象的なまなざしを際立たせる伝説的なアイライン、遊び心のある前髪、そして彼女の代名詞ともいえるショートヘア。そのすべてが、今なお美容の世界にインスピレーションを与え続けている。まもなく彼女を題材にした2本の作品が公開予定の今、オードリー・ヘプバーンの最も心を惹きつけるスタイルをあらためて振り返る。
印象的な眉毛
オードリーの死後、息子のショーンは、その遺産を守る役割を一手に担ってきた。オードリー・ヘプバーン子ども基金を通じて寄付を行いながら、母のイメージが安易に利用されることのないよう、厳しく目を配っている。「オードリー・ヘプバーンという存在は、たとえるならフェラーリのようなもの。実際に任せてもらう前に、週末のドライビング講習を受ける必要があるような存在なのです」と彼は語る。
「そうでなければ、彼女を理解しないまま扱えば台無しにしてしまうでしょう」と彼は続けます。けれど今、彼が伝えたいのは"映画スター"としてだけではない、本当のオードリーの姿だ。「彼女の創造的な功績やエレガンス、人道的な活動は、決して色あせることはありませんし、これからも受け継がれていくものです。でも大切なのは、その記憶に"奥行き"を持たせることだと思います。なぜなら、大きな成功の裏にある『ひとりの人間としての誠実さ』が伝わってくるからです。彼女は本当に、飾らない自然体の人でした。この本を書いたのも、まさにその一面を伝えたかったからです」と彼は語る。彼女の"ありのままの姿"が、彼女を愛する人々の心に静かに響いていくことを願いながら。
From madameFIGARO.fr
text: Leonie Dutrievoz (madame.lefigaro.fr) translation: Hanae Yamaguchi






