フィガロが選ぶ、今月の5冊

韓国の80年代生まれの著者による話題のデビュー短編集。

特集

繊細な、時に痛いほどの気づきと、優しさ。

『走れ、オヤジ殿』

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キム・エラン著 古川綾子訳 晶文社刊 ¥1,944

キム・エランの短編集を読むと、世界が少しだけ違って見えてくる。そしていまより優しくなれる。たとえば、こうだ。子ども時代を思い出して、主人公はこう語る。「その頃は今より背が低かったから、僕と夜空の距離も今より遠かった」(「ホッピング」)。とたんに僕らは、ずっと昔に見た高くて広い空を思い出す。

これはどうだろう。主人公がいたコンビニの前で、女子高生が車にはねられる。万引きをして、店主から逃れようと道に出て事故に遭ったのだ。混乱に乗じて、店内で男が宝くじを盗むのを主人公は見てしまう。だがその後、目を開けたまま倒れている女子高生に彼は近づき、胸の上までめくれ上がったスカートを屈んで下ろす(「コンビニへ行く」)。意外な人の発揮する、些細な思いやりが眩しい。

繊細な、時に痛いほどの気づきがキム・エランの魅力だ。1980年生まれの彼女はデビュー以来、李箱文学賞をはじめ、韓国の有名な文学賞を次々に獲得した。作品の背景には、1997年に起こった通貨危機以降の苦しみがある。だからコンビニの経営者である夫婦の笑顔に、主人公は穏やかに生きてこられた人が知らぬ間に持ってしまう残酷さを見る。

あるいはアパートに住む貧しい5人の女性たちは、互いに一度も顔を見ないまま、小さな物音や落ちている髪の毛を通して監視し合う(「ノックしない家」)。

表題作「走れ、オヤジ殿」も悲しい。自分が生まれる前日に失踪した父親は、世界を走り回っているんだろう、と主人公は空想する。やがてアメリカから手紙が来る。父親の子どもからで、彼が交通事故で死んだという内容だ。英語で書かれたその手紙を、主人公は母親に訳して聞かせる。いままで申し訳なかった、一緒だった頃のお前は本当に綺麗だった、と父親は言っていた、と。もちろんすべて嘘だ。だがこの物語があるからこそ、ふたりは生きていける。

文/都甲幸治 翻訳家、アメリカ文学者

早稲田大学文学学術院教授。訳書にジュノ・ディアス著『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(共訳、新潮社刊)、著書に『今を生きる人のための世界文学案内』(立東舎刊)など。

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*「フィガロジャポン」2018年4月号より抜粋

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