『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』を愉しむ。#03 バスキアの展覧会に全霊を捧げた、ギャラリストの証言。

Culture 2019.10.01

9月21日から森アーツセンターギャラリーで開催中の、日本とジャン=ミシェル・バスキアの絆に特化した展覧会『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』。開催に際し、生前のバスキアをよく知る人物にインタビューを行った。ふたり目は「トニー・シャフラジ・ギャラリー」のオーナーで、以前はラディカル・アーティストだったトニー・シャフラジ。フランシス・ベーコンやキース・へリングの展覧会を手がけ、アート界で著名な存在だ。バスキアと知り合ってから、彼の多くの展覧会を開催し、作品集も数多く出版した。バスキアと個人的にも親しかったというシャフラジに、当時のアートシーンや不世出のアーティストについて話を聞いた。

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イラン出身、ロンドンでアートを学び、1960年代に渡米したシャフラジ。バスキアの実像に迫るドキュメンタリー『バスキアのすべて』(2010年)にも登場する。

「ジャン=ミシェルは1980年、絵を描き始めるより前に、私の最初のギャラリーにやって来ました」とシャフラジは振り返る。「彼はポストカードを作って路上で売り始めていましたが、自身のスタジオは持っていませんでした。彼の友人であるキース・ヘリングは当時、私と一緒に活動していたので、彼を訪ねるついでに私のスタジオにも遊びに来ていたんです。私のギャラリーはその頃、特別な溜まり場になり、多くのアーティストが遊びに来たり、手伝いをしていました。あのケニー・シャーフもです。バスキアは、ヘリングやシャーフが通っていた美術学校『スクール・オブ・ビジュアル・アーツ(SVA)』の学生ではありませんでしたが、SVAの学生のふりをして校舎に入り、友達の輪を広げていたんです。SVAの生徒の輪は世代を超えた集まりで、真のコミュニティでした」

シャフラジはバスキアがアーティストとしてキャリアを築くのに、重要な役割を果たした人物だ。特に世間がバスキアのことを知るようになる時期に、多大なサポートを行った。それは個展の開催であり、作品集の発行だったり。シャフラジはアートディーラーというよりも、あくまでも彼のキャリア支援に注力したのだ。

「このサポートは、私がマーサー通りでとある場所を見つけてから始まりました。当時はそのアパートは酷く破損していたし、暖房もなく照明もなく、地下室には雨水まで溜まっていました。私には十分な資金がなかったので、ギャラリーとして改装するのに1年間かかりました。そのうち、ヘリングとジャン=ミシェルは仲良くなり、毎晩のようにマッドクラブなどに遊びに出かけました。あのふたりのような互いに尊敬し合う友情関係を、私はそれまで見たことがありませんでした。ふたりの共通点は、ハングリー精神と新しい事を学ぶ興味を持っていたことでしょうか。1981年1月、ディエゴ・コルテスのショー『ニューヨーク・ニューウェーブ』が開かれる直前に、ふたりは同じギャラリーでショーを行わない事を決めました。理由としては、嫉妬心、敵対心、誤解を招かない為です。それを機に、ジャン=ミシェルは私のギャラリーの通りから少し歩いたところにある、アニーナ・ノセイのギャラリーに通い始めました。そして彼女の地下室で絵を描き始めたのです。アニーナのところを去った時も、メアリー・ブーンのところを去った時も、私は彼に『僕のギャラリーに参加しないか』と声をかけたことはありませんでした。それは、へリングとジャン=ミシェルの友情の決意が強かった事を表していると思います」

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シャフラジが手がけ出版された、バスキアの画集『BASQUIAT』。 

 バスキアは天性のラコントゥール(話し上手)で、彼は自身の回想を物語として表現する事に非常に長けていたと、シャフラジは考えている。そして、鮮明に覚えているというバスキア作品との最初の出会いについてこう語る。「私たちの時代のゴッホを見つけたと思いました。彼の絵画から発せられるエネルギーは類を見ないほど力強く、独創的で無比のパワーを感じました。一つひとつの線、描かれている領域すべててに魂が宿っている」。同時に、バスキアの内面的な複雑さについてはこう感じ取った。「ジャン=ミシェルはとても恥ずかしがり屋で、自分の事について語るのを避けていました。子ども、大人、駆け出しのアーティスト、達人という彼のいろいろな側面は、彼自身の中で完結していました」

シャフラジの功績としてよく知られているのが、バスキアとアンディ・ウォーホルがコラボレートした展覧会を手がけたことだ。その一環で生まれたのが、ふたりのアーティストがボクサーの恰好をした展覧会ポスターだ。「私は子どもの頃からボクシングが大好きでした。シュガー・レイ・ロビンソンとモハメド・アリは私のヒーロだったので、作品のアイデアは自然に思い浮かびました。ふたりのどちらのアーティストにも身体にたくさんの傷があったので、私は彼らにTシャツを買いましたが、バスキアは傷をまったく気にかけませんでした。それが、彼が上半身裸でポスターになっている理由です。ウォーホルはバスキアよりも32歳年上でしたが、彼らはすぐに打ち解け、共に作品作りを始めました。この時までは、アーティストが共同で作品制作をするのは歴史的にも希でした。彼らは70点以上の作品を一緒に作り上げましたが、ほとんどの作品は最初にウォーホルによって描かれ、その後にバスキアが描き足していきました。ふたりの調和はとても躍動的でした」

なぜバスキアは若い頃から日本を訪れたか――それは展覧会『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』を通して理解できると、シャフラジは言う。彼がキーパーソンに挙げるのが、ある先見的な東京のアートディーラーだ。「私たち関係者はみな、アキラ・イケダに大きな借りがあります。彼は1983年、ジャン=ミシェルの作品を東京にあるギャラリーで展示し始めました。以降、ジャン=ミシェルは5回にわたりイケダ氏のギャラリーで個展を開催し、作品を通して日本に貢献できてうれしいと語っていました。またバスキアにとって日本文化はとても重要な影響を与えました。イケダ氏は、日本のアート市場におけるアメリカやヨーロッパの著名なアーティストの例を紹介し、日本市場がどのような仕組みであるか解説したのです」


1980年代のアートシーンに、彗星のごとく現れたジャン=ミシェル・バスキア。わずか10年の活動期間に、新たな具象表現的な要素を採り入れた3000点を超すドローイングと1000点以上の絵画作品を残した。『Yen』のように、バブル景気を迎えていた当時の日本の世相を反映したり、ひらがなを作品を取り入れたほか、たびたび来日して6回の個展と10ものグループ展を開催。こうしたバスキアと日本の多方面にわたる絆と、日本の文化や社会が及ぼした影響をひも解いていくのが、今回開催される『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』だ。初公開のプライベートコレクションを含む約130点の作品が、六本木に集結。絵画やドローイングだけでなく、立体作品や映像作品なども展示され、さまざまな方向からバスキアの真髄に迫ることができる。

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ジャン=ミシェル・バスキア『Untitled』(1982年)
oilstick, acrylic, spray paint on canvas|183.2×173cm
Yusaku Maezawa Collection, Chiba Artwork © Estate of Jean-Michel Basquiat. Licensed by Artestar, New York

『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』

会期:9月21日(土)~11月17日(日)
会場:森アーツセンターギャラリー
開館時間:10時~20時(10月21日は17時閉館) ※入場は閉館の30分前
料金:一般¥2,100
問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
www.basquiat.tokyo

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photos:NAOKO MAEDA, réalisation : AZUMI HASEGAWA

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