少年に芽生えた殺意と愛の希求。『その手に触れるまで』

Culture 2020.06.30

俳優の身体に帯びる奇跡は、現場での敬意から生まれる。

『その手に触れるまで』

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ある扇動が思春期の潔癖症と合体し、温厚な少年を極端な教えに走らせる。殺意と愛の希求が競り合う至純のサスペンス。カンヌ国際映画祭監督賞受賞。

本作について、欧米で先立ってなされた監督インタビューに目を通すと、質問がほとんど「白人男性がムスリム少年のテロリストを描くことの是非」に終始していて、憤りに近い感情を覚える。批判であれ賛美であれ、ダルデンヌ兄弟の映画を「社会性」という観点からのみ論評することは断固として拒絶したい。私自身は彼らの近作における俳優の身体のありように驚かされ続けている。

若き主人公アメッド(イディル・ベン・アディ)の肉体は劇中で幾度となく「下降」の運動を描く。祈りの礼拝も、歯ブラシの柄を少年院の床に擦りつけて凶器を仕上げる動作も、等しく少年の「殺意」を磨き上げる行為だ。下降運動は、最後には彼自身を損なうものとして起こる。彼はそこで初めて空を見上げる。生を求め、手を伸ばす。

私が一監督として瞠目するのは、ともすれば図式的な振付にしかならないこうした一連の運動が、俳優の自発的な身振りとしか見えない点だ。本作はあくまでフィクションなのだから、私はそれを奇跡とさえ呼びたい。うつむきも小さな声も、一貫してアメッド=イディルの内向性を示す。なのに、彼の身体には余計なこわばりがない。リラックスしつつ、集中している。彼はただそこにいる。

断言しよう。こうした身体の状態は他者への敬意を基盤とした現場からのみ生まれる。ここには語られている事柄と、語る方法の一致がある。ダルデンヌ兄弟の映画が感動的であるとしたら、俳優の身体自体が「敬意」の証としてあるからだ。物語の陰りにもかかわらず、若き俳優の身体を満たしているのはそこにいることの喜びだろう。彼らの偉大さはまだまったく、語り尽くされてはいない。

文/濱口竜介 映画監督

2008年、東京藝大の修了制作『PASSION』が国内外で評判に。15年の『ハッピーアワー』は、主演4人がロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞に輝く。最新作は『寝ても覚めても』(18年)。
『その手に触れるまで』
監督・脚本/ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
出演/イディル・ベン・アディ、オリヴィエ・ボノーほか
2019年、ベルギー・フランス映画 84分
配給/ビターズ・エンド
ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国にて公開中
http://bitters.co.jp/sonoteni

*「フィガロジャポン」2020年7月号より抜粋

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