Culture 連載

イイ本、アリマス。

吉本隆明さんのこと。
『十五歳の寺子屋 ひとり』に寄せて。

イイ本、アリマス。

 まさかこんなに突然お別れがやってくるとは思わなかった。3月16日、吉本隆明さんが肺炎で亡くなった。87歳だった。
 初めてご自宅にうかがったのはおととしの春。
 15歳の男の子ふたり、女の子ふたりを連れて、1か月に1度、吉本さんにお話をうかがいに通った。『15歳の寺子屋 ひとり』はその時の記録である。
 年齢差70歳。初対面の時、ぎこちなく自己紹介した彼らに吉本さんは言った。

「さあ、どうぞ。もっとお楽に。お行儀悪くなさってください。
 どうぞ。なんでも聞いてください。悪いことでも何でも。
 正直にお答えします。それが僕の唯一の取り柄です。
 どんなことを聞かれてもいいし、どんなかたちの質問でもけっこうですよ」

 この言葉通り、吉本さんは相手が子どもだからといって、ちっとも見くびったりはしなかった。進路のこと、恋愛のこと、才能のことや生きていくことについて、彼らの率直な質問に真っ向勝負で答えてくれた。いっぽう、15歳の彼らにとって「戦後思想界の巨人」という重々しい肩書や経歴はいまひとつ、ピンときていなかったに違いない。それよりも自分たちが今まさに思い悩んでいることにこれほどまでに言葉を尽くして真正面から向かってくる大人がいること、それ自体が新鮮な驚きだった。
 だって「生き方を決めるのは消極性だと思います」なんて言われて、すぐに納得できるわけがない。「積極的にしろ」とか「前に出ろ」ということなら散々言われてきたけれど。
 吉本さんはそんなふうに世間で言われていることとはまるで反対のことをよく言った。といって、それははったりでもなんでもない、生きてきた実感に裏打ちされた言葉なのだ。ひとたび吉本さんが語り出すと、私たちは毎回たっぷりと水をたたえた大河に放り出されたような心持ちがして途方にくれる。けれど、しばらくじーっと耳を傾けていると、やがてひとつの流れのようなものが見えてくる。おそらく吉本さん自身、語り出した時にはどこにたどりつくのか決めていなかったのではないか。考えて、考えて、考え続ける。その思考の流れを目の当たりにすることが出来たことが何よりの得難い体験だった。
 だいたい3時半頃にうかがうのが常だったが、気がつくといつも6時半をまわっていた。全部で何回とも決めなかった。「じゃあ、今度はその話のつづきをしましょうか」と次の約束をして別れた。そうして1年も通ったのだから、振りかえると、なんて贅沢な時間だったのかとあらためて思う。後日、吉本さんは言った。

「聞かれたことに何でも正直に答えようっていう心掛けだけはありましたけどね。
僕なんか、それ一点張りだから。講演と違って、前もって原稿を用意するわけでなし。
その場その場でやっていきましたから、仕事のやり方としては一番疲れるかたちだったかもしれません。聞かれるに任せて自分なりに回想したり、ときどきはこっちからもへんなことを聞いてやろうと思ったりしながら、つないでいった。取材としても今までで一番長かったかも知れませんね。お互い言いたい放題とまではいかなかったけれど、
対話のひとつの試みとしてはたいへんうまくいったほうだなと思います」

 東京の下町、新佃島に生まれた吉本さんは小学校4年から工業高校の4年になるまである私塾に通っていた。寺子屋のようなこの私塾の先生、今氏乙治さんのことはいくつかの著書でも繰り返し書いている。今氏さんこそ吉本さんに初めて文学の手ほどきをしてくれた人だった。15歳の彼らと向き合いながら、吉本さんの胸中にはこの忘れがたい恩師のことがあったという。当時の吉本さんは、やんちゃなガキ大将だったけれど、しゃべることが苦手な子どもだった。

「だからみなさんもよくごぞんじの小説で、夏目漱石の『坊っちゃん』。あれを読むと
主人公の坊っちゃんの気持ちが、わかりすぎるくらいよくわかって泣けてくるんですよ」

 親譲りの無鉄砲で子どもの頃から損ばかりしている坊っちゃんに、吉本さんは少年時代の自分を重ねた。

「『坊っちゃん』は痛快な青春小説だといわれているけれど、僕はそういう坊っちゃんのことがわかりすぎて、かわいそうで、今でも読んでいると泣きべそをかきたくなるくらいこたえます。あの小説を書いた夏目漱石も「人にわかってもらえない」って経験をたくさんしてきた人なんじゃないか。『坊っちゃん』には漱石が抱えていたもろもろの悲劇みたいなものが全部出ている気がするんです」

「人にわかってもらえない」という思いがあったからこそ詩を書き始めた。15歳は、吉本さんにとってものを書くことを始めた年齢でもあったのだ。

「樹で言ったら、地面の上に見えている枝はじゃなくって、根っこの部分が言葉にもある んですよ。地面の下の見えない部分がね」

 いまどきの15歳も、KYという言葉があるくらいだから「人にわかってもらえない」という気持ちを等しく抱えているに違いない。だからこそ吉本さんは彼らに言った。へんにものわかりよくしないで、誰にも言わなくっても、わかってもらえなくってもいいから、自分が本当はどう感じているか、繰り返し自分自身の実感を探ることを諦めてはいけない。

「人は誰でも、誰にも言わない言葉を持ってる。沈黙も言葉なんです。
沈黙に対する想像力が身についたら、本当の意味で立派な大人になるきっかけをちゃんと持っていると言っていい。僕は、うまく伝えられなかった言葉を紙に書いた。
届かなかった言葉が、僕にいろんなことを教えてくれた。
自分や誰かの言葉の根っこに思いをめぐらせて、それをよく知ろうとすることは、
人がひとりの孤独をしのぐ時の力に、きっとなると思いますよ」

 最後にお目にかかったのは、去年の暮れだった。
 その時にうかがったのは編集者と私で、大人しかいなかったのに、帰り際「お菓子はちゃんと食べましたか?」と聞かれて「はい。お話をうかがいながら、こっそり食べました」とみんなで笑った。晩年の吉本さんは目がよく見えなかったので、いつもそう聞いてくれたのだ。テーブルの上にお菓子が残っていたりすると「さあさあ。みんな、ポッケに入れて帰りな」と言って、必ず玄関まで見送りにきてくださった。

「この頃、よく思うのは今の人たちは何か中間にあることを省いているんじゃないか。
本当は中間に何かあるのに、原因と結果をすぐ結びつけることで
それを解決だって思おうとしてるけれど、それは違うんじゃないか。
今の考え方は何でも結論を急いでつけようとしている気がしてならないんです」

 吉本隆明という人の考え方には、いつもたっぷりとした「中間」があった。
 最新刊は『吉本隆明が語る親鸞』である。
 この本にはCDがついているので、語る吉本隆明、その肉声にぜひ触れてみてほしい。
 かつて宮澤賢治に憧れた少年が、親鸞にひかれる大人になる、その「中間」に戦争があった。「宮澤賢治のような聖人君子に憧れたけど、自分にはとうていなれないと知って、悪人でも救われると説く親鸞にひかれたのかも知れない」と吉本さんは言った。「平和がよくて、戦争が悪いなんて単純な考え方は僕にはとてもできません。かつてこの戦争は正しいことだと信じていた時代があったし、僕もいっぱしの軍国少年でした。戦争が悪なら、俺だって悪人だ」と。その「中間」にどう橋をかけるのか。吉本さんは生涯考えて、考えて、考え続けたのだと思う。
 人は思い描いた理想通りには生きられない。誰もが受け入れがたい現実を、それでもどうにか受け入れながら、その先を懸命に生きている。
『十五歳の寺子屋 ひとり』の最後の授業で、吉本さんは言った。

「人はみんな、かわいそうなもんだ。宮澤賢治もかわいそうだし、夏目漱石もかわいそうだし、そういうお前はどうなんだっていわれたら、そりゃあかわいそうだ、ひでえもんだなと。人間っていうのはかわいそうなもんですよ。生きるっていうのはかわいそうなもんだ、それはもう、いたしかたのないもんだと思います。
 それでもなんで生きていくのかっていったら、それは先があるからでしょう。
 先があるっていうのは、そこからいつでもどうやって生き延びていくかみたいな糸口みたいなもんだ。だからとても大切な宝物みたいなもんなんだよ。どんなふうにでも、先があるんだ。このことを忘れてはいけない。生き延びていくことをばかげているととらえる考え方は、本当には存在しえないと僕は思っています。どっかでちゃんと道を見つけて、そこをたどっていくことを、誰もが本当は待ち構えていて、それは越えがたくとも越えられるし、また越えていかなくてはならない」

 訃報はあまりに突然で、すっかり元気になるものと決めてかかっていた私はお見舞いの品とお手紙を送ったというのに、それが届く前日に吉本さんは逝ってしまった。ふとお手紙を書こうと思ったあの時が吉本さんの「さよなら」だったのかという気もするけれど、記憶は暮れにご自宅の玄関で次に会うお約束をした時のままで、亡くなったことがまだ信じられない。いつものようにあの角を曲がると、玄関先に猫がいて、吉本さんがニコニコと迎えてくださるような気がしてならない。

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