アニエスが語る、 服とアート、そしてパリ。
Fashion 2023.12.20
50年近く前に小さな店を開いて以来、パリジェンヌスタイルを牽引してきたクリエイター。彼女が語る、アートのこと、服のこと。
左:自宅の1階、音楽を聴くサロンの暖炉の前で、いろいろな話を聞かせてくれたアニエス。今日のスタイルは、ハーモニー・コリンのデッサンが描かれた黒いセーターに、カンヌ国際映画祭用に作ったお気に入りのスカート。photography: Ayumi Shino 右:「モード......私は嫌い!」
アニエス・トゥルブレ/デザイナー・フォトグラファー・映画監督
ヴェルサイユ生まれ。エディターを務めたのち、1975年にアニエスベーを立ち上げ、83年には日本上陸。84年、ギャラリーデュジュールをオープン。2014年に長編映画『わたしの名前は...』を監督。
パリジェンヌと聞いて、アニエスベーを思い浮かべる人は多いだろう、カーディガンプレッションから、サロペットやジャンプスーツ、ワークウエアのインスピレーション、写真をプリントしたスカートやワンピース。1975年、パリのジュール通りに誕生して以来、アニエスベーは世界に向けてパリジェンヌスタイルを発信してきた。
街路樹が秋色に染まり始めた11月7日、彼女はヴェルサイユに近い自宅で私たちを迎えてくれた。時折薪がぱちぱちと音を立てる暖炉の前で語った、ファッションのこと、アートのこと、社会貢献への想い。何気ない逸話の数々を、パズルのピースのように組み合わせていくと、アニエス・トゥルブレというパリジェンヌの生き方が浮かび上がってくる。
左:アニエスベーの最初の店は、1975年、レアールのジュール通り3番地に登場した。食品卸売市場の跡地だったエリアだけに、以前は精肉店だった場所を大改装。周囲にブティックは一軒もなかった。 右:オフィス、アトリエも兼ねた店は、服だけでなく、ポスターも貼られて。音楽も聴けるユニークなブティックに、アーティスティックな若者が集まった。
---fadeinpager---
服が好き。
「モードは嫌い。ずっとそう言ってきた」
モードという言葉を耳にした途端に返ってきたアニエスの答えは、実に明快だ。
「モードはデモデ(流行遅れ)になるから。私が好きなのは服。きちんと構築され、美しい素材で、何年も着られて決して流行遅れにならない服。それが私のワードローブ」
左:黒と白もファッションに取り入れたアニエス。1980年代初めには、黒いベビー服を作って周囲を驚かせた。 右:カーディガンプレッションは、お気に入りのスウェットを前あきに、のアイデアから誕生したメゾンの顔。96年にはポンピドゥーセンターで写真展が開催されるまでに。
彼女が服の世界に飛び込んだのは、63年。カウボーイブーツにおばあちゃん譲りの白いジュポン(ペチコート)とミリタリージャケットを合わせ、いち早く蚤の市スタイルを着こなしていたアニエスに、エル誌が声をかけた。服作りを始め、75年、卸売市場が解体されて地面に大きな穴が空いたレアール地区で、元食肉店を改装した店をオープン。エリアでただ一軒のブティックだった。
「3歳だった娘のために、肉屋の名残の金属製フックにブランコを吊るしていた。パピルスの鉢植えがあって、紅雀が店内を飛び交い、天井に巣を作っていました。当時のレアールはニューヨークのダウンタウンのような雰囲気だったの」
半世紀近く経ったいまも、服のデザインを手がけるのはすべて、アニエス本人。
「自分のデザインでなければ自分の名前はつけません。チームはあるけれど、クリエイターは私だけ。デザインする時は、服を着る女性たち、男性たちの暮らしを想像します。男性のスーツなら、飛行機で移動してもシワにならないものを。プリーツスカートは折り目にステッチをかけて。私の服を買う人には、長く愛用して、喜んでほしい。がっかりさせたくないの。みんなに喜んでもらうことが私の幸せ」
上右:1966年、映画『ポリー・マグー お前は誰だ』の衣装デザインを手がけた。この時の白と黒のボーダーTシャツを、77年にシリーズ化、長く愛される定番アイテムに。上左:飛行機の窓から撮影した翼と空をプリントした最初のドレス。 上:作業着のインスピレーションはアニエスのお得意。エプロンやサロペットがパリ風に生まれ変わって。
服にプリントされた写真も、すべてアニエス本人が撮影したものばかりだ。30年間、外出時は必ず愛用のニコンを持っていた。
「写真は瞬間的なもの。4分の1秒の間にすべてが決まってしまう、一瞬の出来事。それが美しい」
シルクスクリーンで最初に写真をプリントした服は、飛行機の窓から撮影した翼と青空のドレス。
「写真を撮る時、すでに出来上がった服が見えています。グリーンの木々の中央に青空が広がるドレスはそのいい例」
ニコンはスマートフォンに変わったけれど、いまももちろん、写真を撮り続ける。
「ずっと、服で物語を語ろうとしています。そのために写真を服にプリントし、アーティストの作品を服にする」
---fadeinpager---
アートのこと。
母と叔母はとてもエレガントな女性たち。弁護士だった父は、オペラ座のコーラスの一員としてテノ ールを歌う音楽好き。写真を撮るのも好きだった。
「私は文化的な教養のある家庭に育ったと思います。友人にはアーティストも多かった。ルーヴルに行くのが大好きで、ティツィアーノの『手袋を持つ男』に恋した私は、彼に会うためにルーヴルに通ったわ」
12歳の時に作文に「アートギャラリーを開きたい」と書いた少女の夢が実現したのは84年。ジュール通りに、ギャラリーデュジュールをオープンした。
「ギャラリーを開いたのは、"見る"ことを提案するため。デュ・ジュール(その日の)というのはいい名前でしょう? いつも新鮮なお魚みたいで」とアニエスは笑う。以来、40年間、彼女はたくさんのアーティストを紹介し、支援してきた。特に写真の分野では、いまや一大イベントとなったパリ写真月間に当初から出資・参加している。「最初はたった7軒のギャラリーで始めた」と語るアニエスだが、それこそ、時代を見る目を持っていることの証なのだ。
上左奥:ジュール通りのブティックの向かいに、1984年、テーブルに本が並ぶ書店兼ギャラリーをスタート。上右奥:パリで初めてストリートアートに光を当てたのはギャラリーデュジュール。40 年に及ぶグラフィティ展示の歴史が1冊の本に。上左:アーティストたちとの歴代コラボレーションTシャツはこんなにある。上右:映画を愛するアニエス。「映画を観るようになったのは最初の夫クリスチャン・ブルゴワのおかげ。一晩で2本の映画を観た。ゴダールは大好き。『勝手にしやがれ』は革命的だった」
シネマ万歳! 読書万歳! 写真万歳! 人々の間の愛よ、万歳......と思わない?
2020年には、13区のジャン= ミシェル・バスキア広場にラファブ・(アニエスベー財団・基金)をオープンした。それは、写真、絵画、彫刻、インスタレーションやビデオも含む、アニエスの5000点に上る個人コレクションを展示する場所。
「アートを倉庫にしまっておく代わりに、作品を鑑賞する楽しみをみんなと分かち合いたいと思ったの。ストリートアートを愛する13区の区長の協力を得て、自分の手で立ち上げたスペースです」
2階には、アート作品を紹介、販売するギャラリーデュジュールが同居する。
左:ラ ファブ. の2階にあるギャラリーデュジュール。こちらはアーティストを紹介し、作品を売るスペース。右:ラ ファブ. の入口。アニエスの個人コレクションを展示し分かち合う空間のほか、ミュージアムショップもある。© La Fab., 2020
place Jean-Michel Basquiat 75013 Paris
tel:01-87-44-35-73
M)BIBLIOTHÈQUE FRANÇOIS-MITTERRAND
開)11:00~19:00(水~土) 14:00~19:00(日)
入場は閉館30分前まで
休)月、火 料)一般7ユーロ
https://la-fab.com
---fadeinpager---
ラファブ.のオープン直後、コロナ禍が世界を襲った。ロックダウンで自宅にこもったこの時期、アニエスにとって、アートは、別のかたちで生活の一部になった。クレール・タブレの2点のポートレートから出発した写真集はその成果のひとつ。
「2カ月半の間、自分の服を出してきてポートレートに合わせ、梯子に登り、服を整え、また登って、を繰り返しながら写真を撮った。とてもおもしろかったわ。私は仕事をいつも楽しんでいるの」
その写真をまとめたのが、『レ・ドローレス』。自宅の庭で、床で、プールで、ともすれば画角に入りたがる犬とともに、ポートレートが着こなす服を撮影した写真集だ。もうひとつは、庭の片隅の小さなアトリエで始めたコラージュ。長方形の石板に、チョークの書き文字、古い写真、貝殻、石ころ、木の枝や紙きれがあしらわれている。
「ガレージにたくさん石板があったのでね。私は小さい頃からいつも下を見て歩いていたの。道で見つけたいろいろな宝物を手元に残してきた。壁に貼ってあるポスターを剥がしたかけらとかね」
庭のアトリエのテーブルには、彼女のコラージュが並ぶ。「これまでは時間がなかった」というアニエス。自ら発信するこれらのアートは、どう進化していくのだろう。
アニエスが子どもの頃から拾い、集めてきた小さなオブジェは、コンスタンス・モールの手で、一点もののビジューに。Les Objets Trouvés dʼAgnès(アニエスが見つけたオブジェ)という名でショップに並ぶ。©Thomas Dezelus for agnès b. 2023
上左奥:ガレージにたくさん残っていた石板を使って、オブジェのコラージュやイラストを加えた作品。「レオンのためのお馬」と書かれたイラストには綺麗な小石があしらわれて。上右奥:庭の一角にあるこのアトリエで、ロックダウン以来、アニエスは石板のコラージュを始めた。 上左:肖像画に自分のワードローブを着せた写真を集めた『レ・ドローレス』より。上右:音楽用のサロンのサイドテーブルに置かれていた、アニエスによるシュヴァリエ・ドゥ・サン=ジョルジュへのオマージュ。photography: Ayumi Shino
アートは栄養を与え、考えさせる。才能はさまざまな形で世にあふれている......人間の生業と同じくらい歴史のあるグラフィティから始まって、私たちを幸せにしてくれるさまざまなアート表現がある。
---fadeinpager---
分かち合うことの大切さ。
難民援助や、環境保護など、社会貢献は、小さい頃からさまざまなかたちで行ってきた。インタビューの最後に、「Vive le PARTAGE!!(分かち合い万歳!!)」とメッセージを書いてくれたアニエス。photography: Ayumi Shino
サロンに置かれた石板のコラージュのひとつに、シュヴァリエ・ドゥ・サン=ジョルジュの肖像画がある。小枝の指揮棒を持ち、ウィッグを加えた肖像は、お気に入りの17世紀の音楽家だ。
「私はモーツァルトの音楽で育ったけれど、サン=ジョルジュもマリー= アントワネットと同時代人。でも、ただの音楽家ではありません。奴隷の息子で、美男子なうえに馬術も剣もバイオリン演奏も宮廷で右に出るものがないほどだったが、19世紀には忘れ去られ、1960年代に再発見された。このコラージュは彼へのオマージュです」
そこから、話は映画へと流れてゆく。
「ヴァカンス中に、大好きなタランティーノなのに見逃していた『ジャンゴ繋がれざる者』を観て、とても心揺さぶられたわ。しばらくほかのことが考えられなかった。アメリカが、どんなふうに奴隷とともに出来上がったかが語られている、素晴らしい映画。フランスも奴隷輸出大国だったことをもっと語らなければと思ったわ。映画も読書も、物事を教え、見せてくれるから大好きなの」
彼女の言葉には分かち合うという表現が頻繁に現れる。「私はコミュニスト」とうそぶく彼女は、戦争を憂い、持たざる者を支援し、環境保護を訴える、根っからの人道主義者だ。前述のラファブ・も、アートを展示するだけの場所ではない。ブランドとアニエス自身が行ってきた社会貢献を統括する財団・基金でもある。いまやアニエスベーのアイコンになった、"サラエボハート"は、1993年に起きた紛争時に市民への援助のためにデザインしたものだった。低所得者やホームレスに食事を配布するレスト・デュ・クール、地中海での移民・難民の救済に取り組むSOSメディテラネなど、ラ ファブ・が支援する団体は数知れない。
---fadeinpager---
「私のエコロジーへの貢献」と彼女が力を注ぐタラ オセアン財団も、ラ ファブ・の社会貢献活動のひとつ。息子とともに購入したスクーナー船タラ号は、世界中の研究機関のために、海洋環境を観測・調査して環境保護的なミッションを行っている。20周年を迎えた昨年も、ヨーロッパの沿岸生態系を研究する新プロジェクトがスタートしたばかりだ。
左:2009年に設立したアニエスベー財団・基金は、人道的・連帯的イニシアティブ、芸術・文化への支援、環境保護を柱とする活動を行う。 右:環境保護の分野で活躍するスクーナー船タラ号。
教会で募金活動を行うなど、小さい頃から、自分なりのやり方で社会貢献をしてきた。12歳の頃、ホームレスの救済に生涯を捧げたアベ・ピエール神父の存在を知り、その活動に心酔した彼女は、さっそく近所の友だちと協力して空き瓶を洗浄・収集する活動を始めた。神父が生前に活動を引き継ぐことを望んだ12人のひとりであり、アベ・ピエール財団のゴッドマザーとして、支援活動を続けている。
ホームレス救済のために生涯を捧げたアベ・ピエール。アニエスは、彼が生前に事業を受け継いでほしいと選んだ12人のパーソナリティのひとり。
ヴェルサイユのブルジョワ家庭に生まれ、アートのキュレーターになる夢を抱きながら、17歳で結婚し、双子を抱えて離婚。シングルマザーの苦しい時代を経て、女性誌に見いだされてエディターとなり、30代で起業したアニエス。このブランドがパリっ子の絶大な支持を得るのは、デザイナーであるアニエス自身が、左派のエスプリを持つ、自由で自立したパリジェンヌの象徴であるからにほかならない。
「パリの学生たちは、男の子も女の子も、お金をそんなにたくさん持っていないはずなのに、クラス感のある着こなしをしています。18、19歳の頃からエレガンスを知っているのよ。それは、家族から受け継いだ趣味の良さがベースにあるから。いつも同じような服を着ていても、毎日いい気分でいるための着方を知っています」
パリは祝祭なの?
ええ......多分、というより、ほとんどいつも!
朝、デュー通りに向かって
セーヌ河畔を歩くのは
特別な気分。
街では、一目でわかる
観光客とは違うパリジャンと
パリジェンヌが
そのさまざまな「ルック」の
のおかげで見分けられる。
その違いは大きい、
と私は思う......
なんと言われても!
エッフェル塔が夕焼けに浮かび上がるパリの日没。光が生む瞬間のマジックを、アニエスは撮り続ける。
photography: ©︎agnès b. text: Masae Takata(Paris Office)