
シェーンブルン宮殿☆
パリ暮らしをきっかけにヨーロッパ史に触れる機会は俄然増えたものの、フランスの視点で見聞きすることが多く、ヨーロッパ史についての知識は断片的で浅いな〜と常日頃感じておりました。(日本史専攻なんで…言い訳)
今回ウィーンに来て、いかにハプスブルク家がすごかったのか、近隣ヨーロッパに与えた影響が絶大だったのかをようやく思い知った感じです。
「まずはお庭からご案内しますよ〜」
と、引き続きツアーガイドのマダムOさんとやってきたのが、市内からちょっと離れたウィーン南西部に建つ「シェーンブルン宮殿」(Schloss Schönbrunn)。
残念!
まずここは薔薇庭園なのですが今年は例年より夏が来るのが早く、咲き終わってしまったそうです。
名残り的に点々とわずかに残っていましたが、こちらの薔薇がユニークなのがこうしてブーケのように3、4輪がひとつにまとまって咲くこと。
これが垣根いっぱいに咲いた時期の美しさはどれほどだったことか…。
藤のトンネルも終わっていましたが、この中に入るとちょっと涼しく、さっぱりして気持ちよかった♬
そんな庭園を抜けたらドドーンな眺めのこれまた遠くまで広がる大庭園が出現。
高台に建っているのは「グロリエッテ」という1775年に軍事的記念碑として建てられたもの。
現在は屋上が展望テラスで中央部分はカフェ。
ここから歩くと20分もかかるらしい…。
ふと、横を見るとたくさんの彫刻。
主にギリシャ神話モチーフの彫刻で、これを見ながら幼いマリー・アントワネットはギリシャ神話を学んだそう。
勉強そっちのけで、お庭でかくれんぼでもして遊ぶマリー・アントワネットがにわかに想像できてしまい、タイムスリップしたみたい?!
そして反対側を振り仰ぐと、それがウィーンが誇る世界遺産「シェーンブルン宮殿」(Schloss Schönbrunn)。
黄色い外観が印象的ですが、これはテレジアン・イエローと呼ばれる黄色。
そう、この宮殿は16人の子供を産んだ女帝「マリア・テレジア」によって、今日のような美しい姿になった宮殿☆
元々は17世紀初めに皇帝マティアスが狩猟用の館の近くで美味しい水が湧き出る「美しい泉」=「シェーナー・ブルンネン」を発見したことに由来する名前だそう。
では、宮殿内部の見学へ。
途中本館に入る前の床材、この木のタイルも職人技で作られる貴重なものだそう。
確かにフランスじゃ見たことないかも。
O「はい、撮影はここまでです。館内はいっさい写真撮影禁止ですよ」
K「えっ!」
これはちょっと意外でした。
なので写真撮影代わりにミュージアムショップでガイドブックを購入。
と言う訳で、以下の館内画像はガイドブックから借用しています。
まず、この宮殿の部屋数はなんと1441室!
そのうち皇帝たちの豪華な部屋がある2階部分が公開されています。
そしてここに来るなら、事前にざっくり目を通しておきたいのがハプスブルク家の家系図。
私はギリギリのウィーンに向かう機内でガイドブックで確認。。
まず見て思うのは、いったい何年続いたんだ?な素朴な疑問。
それは13世紀から20世紀初頭まで約650年。
江戸・徳川幕府250年、ロシア・ロマノフ王朝300年なことを思うと、それだけでもハプスブルク王朝のスケールが感じられ、その王朝支配圏は現オーストリア、ドイツ、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダ、チェコ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、ポルトガル、ブラジル、メキシコ、カリフォルニア、インドネシアまで及んでいたことを知ると、ただただ凄い!に尽きる。
ハプスブルク家の発祥はスイス北東部の片田舎の弱小豪族に過ぎなかったものの、1273年にルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたのがきっかけで興隆。
神聖ローマ帝国の皇帝とは、ローマ教皇から皇帝位を受け、複数の民族・国家をまとめる王の中の王。
さぞやルドルフ1世がキレ者でローマ教皇に気に入られたからだろうと思ったら、その選出理由はそもそも成り上がり者で大した領土もなく、財産もなく、高齢、戦争能力もないから他の諸侯の脅威にもならず、ローマ教皇サイドから見てうってつけ人物だったからと。
が、しかし、歴史が面白く動き出すのは、このルドルフさんが実は相当の野心家で策士だったこと。
一介の田舎伯爵が神聖ローマ皇帝ルドルフ1世と変身したことからハプスブルク王朝の一歩がスタートしたのでありました。
「大ギャラリー」
約650年、紆余曲折はありながらも神聖ローマ帝国の皇帝位をほぼ独占して中央ヨーロッパを支配した輝かしいその歴史の一端がこのシェーンブルン宮殿見学ツアーで知ることができました。
華やか且つ血みどろ?なその歴史の中で、今回のガイドツアーの中でも色々とエピソードを聞いたのは、女傑マリア・テレジア、美貌のエリーザベト、悲運のマリーアントワネット、さらにはナポレオンと結婚したマリー・ルイーズなど。
やはり私の中で一番印象に残ったのは、フランツ・ヨーゼフ一世の妃・エリーザベト。
(ドイツ語表記ではエリーザベトが正しいそうですが、日本では長らく慣例でエリザベートと呼ばれてます)
23歳と言う若さで皇帝となったフランツ・ヨーゼフ一世。
「フランツ・ヨーゼフ一世の肖像画」
彼の花嫁候補はバイエルン公国のプリンセス・へレーネ。
フランツ・ヨーゼフが会った瞬間恋に落ちた♡
でもそれは姉へレーネのお見合いに遊び半分でついてきた、当時まだ15歳の妹シシィ(エリーザベト)だった〜。
真面目で几帳面、お堅く融通のきかないフランツ・ヨーゼフにとっては、子供っぽく、伸び伸びと自由に振る舞うシシィがどこまでも愛らしく惹かれたと。
時の皇帝に見初められるなんてリアルなお伽話だと思うけれど、現実は今も昔も結婚はしてからの方が色々あるもんです、大変なんです…。
「エリーザベトの肖像画」
そもそも狩りやサーカスが大好きで勉強嫌いなシシィは、お妃教育が始まって早々にヒステリーを起こしたそう。
結婚後は宮廷での規則づくめの毎日、全く気の進まない公式行事がイヤになってしまい、おしゃれや遊びを優先。
ワーカホリックな夫は、「母(ゾフィ)に従ってね」と言うだけで、嫁姑戦争も勃発。。
フランツ・ヨーゼフとの間に次々に子供も生まれるも、ゾフィからエリーザベトは母親失格とされ、子育てはゾフィの手で行われ、ますますエリーザベトは美容に熱中、ウィーンを離れ旅から旅を繰り返し一年の大半を海外で暮らしたそう。
「エリーザベトのサロン」
出産後も172センチ、体重50キロ、ウエスト50センチのモデルスタイルを維持。
スタイルキープのために朝晩の体重測定、乗馬、フェンシング、吊り輪、鉄アレイなどの運動量もハンパななく、やり過ぎて気絶したこともあるとか。
夜寝る時は姿勢の崩れと首のシワを気にして枕はせず、美肌のために顔には牛の生肉や苺パック、ミルク風呂、オリーヴオイル浴。
塩入り卵白ジュース、搾りたて牛乳、オレンジなどの過激なダイエット。
チャームポイントの長い黒髪のお手入れは卵入りコニャックで洗う3時間コース、その髪は5キロの重さ。
「鏡の間」
そんなものすごい努力を続けるも年を重ねるごとにコルセットの締めすぎで踝が腫れ、過激なダイエットで栄養失調、顔にはシワが増えてゆきました。
美貌を失う中でエリーザベトは極端に人前に顔を晒すことを嫌がるようになったそう。
そして最期の日はあまりに突然にやってきた。
61歳のエリーザベトが放浪先のスイスで湖畔を歩いている時に突然、イタリア人アナーキストに細い錐状のヤスリで心臓を一突きされて亡くなってしまう。
犯人はすぐに逮捕され、最初は他の王族を狙っていたものの、それが果たせず、王族だったら誰でもいいや!と思っていたところにたまたまエリーザベトが通りかかったからと言うもの。
運が悪かったとしか言えないような…。
個人的にはなかなかワガママにご公務をサボりまくってるのに、どうしてこんなに人々に人気があるのか?とちょっと疑問にも感じたのですが、シシィから見たら夫の理解もなく、姑はあたりがキツく、最愛の息子にも先立たれると言う波乱の人生で、やはり何よりスタイルも顔も綺麗な完璧な美女だったことが今も人気の理由なのかな〜と。
さて、シェーンブルン宮殿内には肖像画もたくさんあったのですが、多くの作品が騙し絵っぽくなっていて、どの角度から見ても目が合うようになっているのが面白かった!
左から肖像画の目を見ながら右へ移動していくと肖像画の視線も右から左へ動くように見えるのです。
この家族に囲まれたマリア・テレジアの一枚は、向かって右手から見ると、いかにもマリア・テレジアが女帝風で体も太めの貫禄で、左端の夫のフランツ1世は存在感が薄く、細めに見えるのですが、これがまた右から左へ移動するとフランツ1世が徐々に太くななり最後には威厳を醸した姿になり、一方左から見るマリア・テレジアはちょっと細く、夫を立てるような佇まいに見えると言う不思議な絵でした。
最期にこれで寝たらどんな夢が見れるのか?!なガラスで覆われた絢爛豪華なベッドを見て見学終了。
他にもここでは書ききれませんが、漆の間、金箔の百万の間、世界中から集められた素晴らしい工芸品の数々が展示された圧巻のシェーンブルン宮殿、来てよかった!と大満喫しました。
最後にハプスブルク家の家訓を。
「戦いは他のものにさせるがよい。汝、幸あるオーストリアよ、結婚せよ」
王家を発展させるには戦争ではなく婚姻政策だったことは、改めてその家系図と統治範囲を思うと納得でした。
夫「歴史は寝室で作られる」
K「え、それ誰の言葉?」
夫「俺」
K「・・・。」
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