少女マンガは、ジェンダー表現の先駆者だった。

『立ちどまらない少女たち/〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』の著者、大串尚代さんへのインタビューの続編を掲載する。今回は少女マンガの「何でもあり」な発想から生まれた自由なジェンダー像、またアメリカの文化やその文学との相性の良さについて伺い、いかに少女マンガの世界がジェンダーの在り方の先駆者的な存在だったのかを聞いた。

>>音楽を感じる! 懐かしの少女マンガのすすめ。

211020_tachidomaranai_cover.jpg『立ちどまらない少女たち/〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』大串尚代著 松柏社刊 ¥2,750 著者は、慶應義塾大学文学部教授。少女文化と外国文化の交差点に立ち、少女マンガや家庭小説、ジェンダー論など多角的に取り上げ、一気に読ませるおもしろさ。

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日本の少女マンガにおけるジェンダー解放は進んでいた? 

――レッド・ツェッペリンなどビジュアル面や個性の強いミュージシャンの登場から、70年代に入って音楽好きの女性マンガ家がさらにロック・ミュージシャンを描くようになったことで、音楽専門誌の投稿コーナーでも一般の方がプロ顔負け、また、青池保子さんのマンガなどを参考にしたような、コミカルなイラストを投稿するようになりました。少女マンガ家の方がこれだけジェンダーを意識させないマンガを描いていたというのもすごい時代だと思いますし、チャレンジしながら、読者を縛られている性から解き放とうとしているのかなと思いました。そういった点でも華やかなミュージシャンはアイコンにしやすかったのでしょうね。

大串:特に男性像でしょうか。中性的な外国人の男性を描くことによって、男女の差を曖昧にしたという側面もあったと思います。たとえばファッション・アイコンとしては女性的だった、厚底のヒールや化粧といったものを取り入れたグラムロックや、デヴィッド・ボウイ、クイーンなどの男性ミュージシャンが出てきた時に、そこにセクシーなカッコ良さを見つけてしまった少女マンガ家さんたちが、自分たちの作品に取り込んでいった。その興奮が、作品を読んだ女性読者へと伝わっていったんじゃないかと。私も「ロッキー・ホラー・ショー」(舞台1973年〜、映画1975年)を知ったのは大和和紀さんの『はいからさんが通る』(1975〜79年)からでした。少女マンガには、ある種カルチャーの情報伝達のひとつの発信源になっていた可能性があるんです。

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『FMレコパル』(小学館刊)では「レコパルライブコミック」という長きにわたる連載で、さいとうたかを、石ノ森章太郎、松本零士、花村えい子等がミュージシャンの半生をマンガ化していた。『ONGAKUSENKA(音楽専科)』(音楽専科社刊)ではクイーンのメンバーが1975年に4カ月連続で表紙になり、話題を集めた。筆者私物。

――ハリウッド映画では21世紀に入ってから、人種はもちろん、LGBTQを意識した多様な人々が登場する映画がとても増えました。そういう点から見ても、日本の少女マンガの世界は進んでいる、人種や性差の平等を早くから描いていたように思えます。

大串:コミックマーケットの初期から知っている作家の方にお話を伺ったことがあるんですけど、その頃から女性作家さんたちが、アニパロといった、アニメの中の主人公同士が同性愛関係を持っているというようなパロディ作品を描いていたそうです。社会的には女性は性欲を持たない清楚な存在であることを求められていましたが、同人誌の中では女性が持つ欲望を描くことができたのではないかと思います。それは70年代前半くらいから萩尾望都さんや竹宮惠子さんといった方々が、商業誌で『トーマの心臓』(1974年)や『風と木の詩』(1976〜84年)を描き始めた頃とリンクしています。

――そういえば、その頃は第2波フェミニズム運動があった時期ですよね。

大串:もちろん背後にはフェミニズムムーブメントの存在もあったでしょうね。 “女性の役割はこれ、女性はこうあるべき”とは違う世界への希求というのでしょうか。こうした作品は男の子しかいない「女の子がいない世界」でもあるんですが、男女の差を描かないことで、性差による違いがない世界になる。そこで、性的少数派と言われる存在であるとか、男らしさの基準から離れたところにいる存在であるとか、そういうものを描くことができたのではないかと。

――『はいからさんが通る』の蘭丸くんが人気だったのを覚えています。

大串:私がすごく好きだったあさぎり夕さんは、元々アニパロを描いていらしたらしいんですけど、沢田研二さんのことがすごく好きだということは、雑誌『なかよし』でもコメントされていて、中性的でやわらかな物腰(だけれどケンカはめっぽう強いという)男性を必ずマンガで描いていらっしゃいました。そうした作品を小さい頃から読んでいると、こういう男の人がいるのも別に不思議ではないというか、受け入れてしまうという。もう少し大きくなると、魔夜峰央さんの『パタリロ』(1978年〜)でのバンコランとマライヒの同性愛的なシーンがあっても、「そういうものか」って特に抵抗なく受け入れてしまうような。少女マンガには、そういう多様性が許される素地がありますね。

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アメリカ文化は日本の少女マンガと相性がいい!?

――『立ちどまらない少女たち/〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』では、80年代の少女マンガにアメリカを舞台にした作品が増え、実際にその頃にアメリカへ旅行する学生が増えた話なども書かれています。ただ、アメリカを舞台にした少女マンガがある一方で、『BANANA FISH』ではヘミングウェイの小説を引用して孤独感を描いていて。アメリカの夢と闇といったことは、少女マンガに落とし込みやすい題材でもあったのかな、と思いました。

大串:どの国でもそうかもしれないんですけど、アメリカが特に顕著なのは、建前的にはすごく明るかったり、自由だったり、民主主義といった立派な看板があるんですけど、内部では人種差別があったり、階級差別があったり、経済的な格差があったり、というところを隠そうともしない。矛盾を矛盾のまま、抱えている。そもそも独立宣言からして、「すべての人間は平等である」と、いいことを言っているのに、その時でさえ奴隷制を保持していた。「光と影」という矛盾が解決されないままいまにいたっていますが、同時に批判も許容するんですよね。

211020_BANANA-FISH.jpg『BANANA FISH』吉田秋生著 小学館刊。86年に刊行された当時のカバー。現在は文庫版(¥618)や復刻版BOX等で入手可能。全20巻。

――アメリカという国に大串さんが惹かれた理由というのは?

大串:他の国であれば、隠そうとするかもしれない光と影の部分を、アメリカは抱えたまま国として成立していて、私はそこになぜだか惹かれてしまったんです。私が『ウエスト・サイド物語』(舞台1957年〜、映画1961年、2021年)が好き、というのとも関係すると思うんですけど、素晴らしく見える世界の裏に、どうしようもない矛盾を抱えているところですね。でも希望がないわけじゃない。光と影を描くには、アメリカを舞台にすると表現しやすいかもしれません。

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少女マンガの妄想から生まれる共感性。

――吉田秋生さんが『BANANA FISH』を男性マンガ誌で描いていたら、果たして女性はここまでのめり込んでいたかしらと考えたりしました。それこそアニメ化された時に、仲のいい男性ロックバンドがオープニング・テーマを歌うことになって、すごく喜んでいた気持ちが理解できたので。

大串:もし、青年マンガ誌の「イブニング」とか「アフタヌーン」とかで連載されていたら、主人公のアッシュと、(アッシュの少年刑務所時代からの親友の)ショーターとの繋がりの方がフィーチャーされていても違和感ないかもしれませんね。(カメラマンの助手として日本からニューヨークへ来た)英二は、いらなかったかも(笑)。英二って、もちろん大きな役割をあの作品の中では担っていますけど、戦闘力としてはゼロですもんね。ただ、英二は他人への共感力がすごくて、アッシュの気持ちを汲み取って一緒に苦しみ理解するっていう、その能力でアッシュから信頼を勝ち取っていくと思うんですけれども。

――本書の副題“〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ”にあるように、この本では吉田秋生さんや名木田恵子さんが語っていた「なんでもあり」の根底にある想像力が少女マンガの魅力であると紹介され、キーワードになっています。その、女性ゆえのなんでもありの想像力の魅力をどのように捉えていますか?

大串:マンガって基本的に娯楽ですし、荒唐無稽な物語を許すジャンルだと思うんですけど、少女マンガの場合、個人の妄想でありながら、共感によって人を繋いでいくものがあるんじゃないかと思います。仮に最終的な問題の解決がなかったとしても、そこまでにいたる人と人との関係性とか、繋がりみたいなもので、満足を得られるような感覚があります。たとえば、『BANANA FISH』では、多分みんな英二とアッシュがどういう関係なのかとか、(アッシュを寵愛しつつ、男娼のように扱ったマフィアのボスである)ディノ・ゴルチエが最後にアッシュを守って死んでいく場面であるとか、その人と人との関係性があるという物語に、惹かれてしまうんじゃないかなと。

――そういえば、今回発表された新スーパーマンが恋に落ちる相手の名前がJay Nakamuraと知って、その日系的な苗字から、ちょっとアッシュと英二のことを思い出してしまいました。

大串:記事を読みました。『BANANA FISH』ファンとしては、アッシュと英二を思い出しちゃいますね。

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ジェンダー解放やフェミニズム視点でおすすめのマンガや小説。

――では、女性の小説家が、そこまで男性の立場に立って、男性だけの世界を描いたという作品は古くからあったのでしょうか。昨今の推理小説はあると思うんですね。昔の小説で、男尊女卑を逆手にとるような、男性の立場に立って男の世界を描いたものはあるのかなと思いまして。

大串:これはおもしろい質問ですね。アメリカ文学だとパッと思い浮かぶのは、シャーロット・パーキンス・ギルマンの『フェミニジア』(1915年)でしょうか。この作品は、男性の語り手が、女だけの国に行って、その暮らしの合理性を驚きながら報告するという体裁を取った小説です。これは、いまご質問にあったような、男尊女卑を逆手に取って、女性だけの国の方がどれほど合理的かをあらわしたユートピア小説なんです。それとは異なる文脈では、ウィラ・キャザーの、少年が主人公の短篇「ポールの場合(Paul’s Case)」(1905年)、大人になる途中の青年の悩みを描いたメアリー・マッカーシーの『アメリカの鳥』(1971年)などが思い浮かびます。

――ほかにはどうでしょう?

大串:現代文学だと、日本では佐藤亜紀さんがいらっしゃいますね。ただ、男性が女性を描くことと、女性が男性を描くことには、どこか非対称性があるように思います。おもしろい点ですよね。

――ジェンダー解放やフェミニズム視点でおすすめのマンガや小説はありますか?

大串:今年完結したよしながふみさんの『大奥』(2004〜21年)はやっぱりすごいですよね。あと、アニメにもなった竹内佐千子さんの『赤ちゃん本部長』(2017〜19年)は、「人はこうあるべき」という固定観念をやんわりとゆさぶってくれます。芦原妃名子さんの『セクシー田中さん』(2018年〜)は、いわゆる「オバサン」が、ベリーダンスで輝くという物語です。でもやっぱり、池田理代子さんの『ベルサイユのばら』(1972〜73年)はいま読んでもすごいな〜と思いますね。小説ですと田中兆子さんの『懲産制』(2018 年)は、『大奥』とは逆に若い女性の人口が減ってしまったために、男性が性転換を義務づけられ、出産を求められるというディストピア小説ですが、おすすめです。

211020_sexy_ms.tanaka.jpgプチコミックフラワーコミックスα『セクシー田中さん』1巻 芦原妃名子著 小学館刊 ¥472

――こうしてみると、『立ちどまらない少女たち』で取り上げられている少女マンガや小説、映画などもそうですが、ここで紹介していただいた最近の作品もすぐにでも読みたくなります。作品の想像力の豊かさはもちろんのこと、着眼点も鋭いこれらの作品を通して、多様化していくこの社会をどう生きていくのがよいのか、考える良い機会になりそうです。ありがとうございました。
 

*To Be Continued.

※記事中のマンガの発行年については、各作品が雑誌に掲載されていた時期に基づいています。

 

音楽&映画ジャーナリスト/編集者
これまで『フィガロジャポン』やモード誌などで取材、対談、原稿執筆、書籍の編集を担当。CD解説原稿や、選曲・番組構成、イベントや音楽プロデュースなども。また、デヴィッド・ボウイ、マドンナ、ビョーク、レディオヘッドはじめ、国内外のアーティストに多数取材。日本ポピュラー音楽学会会員。
ブログ:MUSIC DIARY 24/7
連載:Music Sketch
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