インタビュー回想記#01 ベッドの上で取材も......マライア・キャリーはお姫さま。

コロナ禍になり、海外アーティストとの対面インタビューの機会がすっかり減り、最近は当時を懐かしく振り返ることが増えた。

インタビューしてきたなかでも逸話の多いひとりがマライア・キャリーだ。1990年5月、20歳の時に「ヴィジョン・オブ・ラヴ」でデビュー。「7オクターブの音域を持つ歌姫」というキャッチフレーズがついたほどの歌声とそのチャーミングなルックスから、すぐにトップスターへと上り詰め、「ヒーロー」(93年)の大ヒットに続き、日本でも「恋人たちのクリスマス(All I Want for Christmas)」(94年)がトレンディ・ドラマ『29歳のクリスマス』の主題歌に起用されたこともあり、人気を決定づけた。

親日家で何度も来日した彼女のことでいちばんに思い出すのは、ホテル生活が寂しいからと滞在中に子犬を2匹購入したこと。公演中のステージにあげたほど溺愛していた。しかし、連れて帰れないからと、結局、日本のレコード会社のスタッフがその後引き取っている。

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取材は常に待たされ、マライアはベッドの上でリラックス。

日本でこんな具合だから、母国アメリカではもっとマイペースだ。インタビューが定時にスタートすることはなく、5、6時間待たされることもあった。エンタメ業界とあって、取材部屋としてホテルの最高級のスイートルームが用意されることは珍しくないものの、当時のマライアはネグリジェというかシルクの透けるような室内着でクイーンサイズのベッドの上に横になり、リラックスした姿勢で取材を受けることが常だった。

つまりは、広めの部屋とはいえ、インタビュアーが順番にマライアが待つベッドルームへ入って行くという不思議な雰囲気。こちらはそのベッドの端に腰掛けて話を聞くというスタイルなのだが、私はガールズトークの気分で接しやすかったとはいえ、男性は目のやり場に困っていた。もしかしたら、ベッドの横に椅子を持ってきていたかもしれない。

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マライアはデビュー時から人気もセールスもうなぎ上りで、その最中の93年6月の23歳の時に、所属レコード会社の22歳年上のイタリア系アメリカ人であるCEOと結婚。まさに超お姫様状態が続く。

いまも露出の多い姿をSNSや雑誌などで公開することが多いので、もともとそういうファッションを好むのだろう。以前、大好物のマクドナルドを片手に取材場所に現れた時に、「体型など気にしないの?」「肌を見せることに抵抗はないの?」と聞いたことがある。その時は、「見られる服を着た方が肌にも刺激を与えられるし、そういう服を着ることで自然に気にするようになるからいいのよ」と話していた。しかし離婚後、その夫から「肌を出すな」「クラブへ夜遊びに行くな」「ファストフードを食べるな」などと言われていたと、束縛が多かったことを明かしていたので、その反動もあったのかもしれない。

ちなみに、ビヨンセはふだんからチョコレートを食べたりするが、撮影やツアーがスタートしたら自制すると話していたから、時期によって律していたようだ。食や体型に関して自分を律することにとにかく厳しかったのは、マドンナとジェニファー・ロペスだ。いまもそうだろう。

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束縛の強い夫から逃れ、同じ人種の血が流れているジーターに親近感を。

マライアが6枚目のアルバム『バタフライ』(97年)をリリースする際には、夫との不仲やMLBヤンキースの超人気選手デレク・ジーター(2014年引退)との関係が噂されていた。アルバムタイトルから察するように、彼女が蛹から蝶へと羽ばたこうと、自立を目指していた27歳の時だ。マライアは、私が日本から来たインタビュアーだし、いまと違ってSNSがないため英語圏で知られる心配がないと思ったのか、聞きもしないのに、ジーターのことを「とてもいい人なの……」と、話してくれた。本当に彼のことを好きだったのだと思う。女性アーティストは基本、自分から恋バナをする人が多い。うれしい話は誰かに聞いてもらいたいのだ。

彼女は少し前、自伝『The Meaning of Mariah Carey』(2020年)や発売時のあるTVインタビューで、ジーターについて語っていた。自分が黒人と白人の間のバイレイシャルに生まれ、3歳の時に両親が離婚したことにコンプレックスを強く感じて生きてきたため、ジーターが自分と同じ人種構成(父親はアフリカ系アメリカ人、母親はアイルランド系アメリカ人)ながら、両親と幸せな家族関係を築いていることに驚いたという。しかも、ジーターも自分と同じ夢を与える仕事をしているという点からも、バイレイシャルであることに対する考え方が変わったと明かしていた。

マライアは肌の色が明るいがゆえに、子どもの頃から黒人社会にも白人社会にも自分の居場所を見つけられず、歌の世界に没頭している時がいちばん幸せだったと、以前から話していた。彼女がこれまで付き合ってきた人たちの人種構成が多様なのも、その反動があるのかもしれない。

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一時期、私は頻繁にインタビューする機会があり顔を覚えてもらえたようで、90年代後半にニューヨーク滞在中、マンハッタンのレストランのテラス席で食事をしていたらマライアが私に気づき、目立つと思ったのか(173cm+ヒール!)わざわざしゃがんで目線を合わせて話しかけてくれたことがある。超スーパースターなのに、気さくで優しい人だと思ったのはその頃からだ。恵まれない子どもたちのために95年に立ち上げたキャンプ・マライアに同行したこともあるが、いまや慈善事業に熱心なセレブは多いとはいえ、マライアは若い頃から熱心だった。

いじめられることも多かった貧しい暮らしから、シンデレラストーリーと呼ばれたスーパースターの座へ。そして、そこからまだまだ続く波乱万丈の日々。もうすぐ52歳を迎えるマライアだが、2児の母親という一面を持ちながらも、いつまでも歌い続けてほしいと思う。

*To Be Continued

text: Natsumi Ito

音楽&映画ジャーナリスト/編集者
これまで『フィガロジャポン』やモード誌などで取材、対談、原稿執筆、書籍の編集を担当。CD解説原稿や、選曲・番組構成、イベントや音楽プロデュースなども。また、デヴィッド・ボウイ、マドンナ、ビョーク、レディオヘッドはじめ、国内外のアーティストに多数取材。日本ポピュラー音楽学会会員。
ブログ:MUSIC DIARY 24/7
連載:Music Sketch
Twitter:@natsumiitoh

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