持ち帰ったガムが崇高な存在となっていく物語『ニーナ・シモンのガム』

『ニーナ・シモンのガム』は不思議な本だ。読み進めるほどに、このガムと一緒に旅をしている気分になる。発売直後に読み、いままた読み直したが、読むほどにおもしろさに深みが出て、ガムのような味わい甲斐もある。このナラティヴは、筆者であるミュージシャンのウォーレン・エリスが1997年7月、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールに彼が神と崇めるニーナ・シモンのコンサートを観に行ったところから始まる。シモンが演奏前にそれまで噛んでいたガムの欠片をピアノに貼り付けたと目撃した彼が、圧倒的な音楽体験をした終演後に、それを彼女のタオルに包んで持ち帰るのだ。

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ウォーレン・エリス著、佐藤澄子訳『ニーナ・シモンのガム』2ndLap、¥4,950。

偉大なシンガーであるニーナ・シモンは、1950年代後半に人気者になったものの、公民権運動に傾倒したことでプロテストソング「ミシシッピ・ゴッダム」(1964年)などが放送禁止となり、アメリカ国外へ移住した。この日は当時66歳のシモンにとってロンドン最後の公演で、エリスはそのパーフォーマンスについて「記念碑的な、奇跡のようなものを目撃したのだ」「スピリチュアルな出来事だった」などと記している。そして取り憑かれたようにステージに上がり、反抗の象徴のように見えたガムを持ち帰った。

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ノースカロライナ州出身の伝説的シンガー、公民権活動家のニーナ・シモン(1933-2003)。彼女から影響を受けたミュージシャンは数知れず。

エリスにとってガムは崇高な体験と彼女のDNAを圧縮したものであり、やがて創造性を象徴するメタファーとなり、小さなアイデアがより大きく意味のあるものへと変化していく。彼はその過程に、「アイデアに命が吹き込まれ、つくった者の手を離れて意味を持って生き始めるという、音楽制作と同じものを感じ取った」と語る。というのも、盟友のニック・ケイヴがデンマーク王立図書館で開催される彼の『ストレンジャー・ザン・カインドネス』展(2020)にニーナ・シモンのガムを飾りたいと言ってきたことから、ガムの存在が公になっていくからだ。

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エリスは紛失が怖いからと、ロンドンのジュエリーデザイナー、ハンナ・アップリチャードに頼んでレプリカを制作し、親しい友人に贈呈する。次にベルギーのファッションデザイナー、アン・ドゥムルメステールがエリスの許可を得て、ガムの形を精巧に彫ったシルバーの指輪を制作する。さらに展覧会に飾られた後、この本の出版記念としてピカデリーにある書店に、握り拳ほどの大きさのガムの彫刻が飾られたという。エリスは当時のインタビューで「僕が目にしたのは、ガムに触れた人々の愛と敬意を引き出すガムの力、そしてその愛と敬意は、想像し得る最もささやかなものを神聖な遺物へと高めたのだ」と話しているが、当のシモンは自分の噛んだガムが、アクセサリーや展示物、ましてや彫刻になるとは思ってもみなかっただろう。

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ガムのレプリカの制作過程の写真も多く、同時にエミリー・ディキンソンの『植物標本集』を思い起こしたからと、一緒に紹介しているのもうれしい。

筆者のウォーレン・エリスは、オーストラリア出身のヴァイオリン奏者で作曲家。ピアノやフルートなどマルチな演奏家としても活動し、1993年からニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズの一員として活躍している。編集者から勧められて初めて執筆することになった彼は、ガムのナラティヴと同時に自らの人生もたどる。なかでも興味深いのは、ニーナ・シモンに関する記述はもちろんのこと、20年振りに以前ツアー用に持ち歩いていたスーツケースを開けた時に、中から出てきたものを撮影し、全部を書き出しながら懐かしんでいるところだ。彼の物に対する愛の強さを感じられ、同様に物持ちの良い私はいたく共感した。

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著者で音楽家であるウォーレン・エリスの人生への深い洞察も垣間見られる

ガムについて綴るうちに、彼は大切な人々とのつながりを取り戻す方法も見つけ、未解決のままになっていたいくつかの物語も結論へと到達している。たとえば若かりし頃の旅の間にカセットテープで愛聴していたミュージシャン、アルレタとの逸話や、長年疎遠になっていた兄と再び交流を深めることができたという話。主にガムが変身していく写真で構成されているが、友情、家族、繋がり、喪失、精神性、迷信など、彼にとって身近なテーマについての考察も随所に織り込まれている。

つまり、ガムを使ってアーティストやクリエイターの創造的な過程を比喩的に表現しているストーリーがある一方で、ガムへの執着を通して語られる彼の内面への深い洞察を垣間見ることもできるのだ。「ガムが神聖でスピリチュアルなものになっているが、結局はただのチューインガムだ。このことは頭の中で最も馬鹿げたことをきっかけに、思い切った行動に出られることを示している」と、エリスはインタビューで話しているが、逆説性を好む彼の真意だろう。もちろんそこには、"あのニーナ・シモンのガム"という威力を含む。「ほとんどの人は、他の誰にとっても何の意味もなさない、けれど自分にとってとても大切なものを隠し持っているが、それこそが人間の本質的な性質なのだ」というのも、的を射ている。

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温度や湿度をはじめ、ガムがデンマーク王立図書館での『ストレンジャー・ザン・カインドネス』展に展示されるまでの詳細な過程もおもしろい。

購入する際にしっかりした紙質が気になったが、それは写真を活かすためだろう。しかもどの写真にも味があり、楽しく素敵で、すぐにこの書籍をエリスのスーツケースの中身のように丁重に扱いたくなり、装丁に納得した。さらに翻訳者の佐藤澄子氏が、翻訳業を続け、出版もしたいからと、60歳を機に"人生2周目"という意味の出版社2ndLapを立ち上げたことを知り、『ニーナ・シモンのガム』が日本で出版されるにふさわしいナラティヴをそこにも感じながら、本を閉じたのである。

*To Be Continued

音楽&映画ジャーナリスト/編集者
これまで『フィガロジャポン』やモード誌などで取材、対談、原稿執筆、書籍の編集を担当。CD解説原稿や、選曲・番組構成、イベントや音楽プロデュースなども。また、デヴィッド・ボウイ、マドンナ、ビョーク、レディオヘッドはじめ、国内外のアーティストに多数取材。日本ポピュラー音楽学会会員。
ブログ:MUSIC DIARY 24/7
連載:Music Sketch
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