パリで電子ピアノを手に入れて、のだめカンタービレを読む。
フランス人のホントのところ ~パリの片隅日記~ 2025.10.31
コロナ禍でみんながリモートワークになったとき、電話をかけるたびにピアノを弾いている男性がいた。
他の共通の友人も、その人の同僚も部下も、やっぱりいつ電話をかけても彼はピアノを弾いていると言っていた。リモートワークだからって仕事中に堂々とピアノを弾き続ける胆力もすごいが、それにもましてピアニストでもないのに毎日何時間も練習できる情熱がすごいと思っていた。彼は個人で演奏会を開くくらい、それはもう上手い人なのだけど、なにかに没頭できる人というのが私はうらやましいのだ。
最近、自宅にアップライトとグランドピアノを両方そろえた彼は、処分するつもりだったから、と古い電子ピアノを私にくれた。たぶん私が「昔ピアノを弾くのが好きだったけどいまは全然弾かなくなって」という話をしたからだと思う。あと、彼はすごく若い男の子に恋をしているそうなのだが全然かなう気配がなくて、そのつらい気持ちを思い出すものなのだという。そんなものを、もらった。
こうして電子ピアノが生活に入り込んだ私は、ひとまず指のトレーニング曲のようなものからはじめた。それだけを繰り返し練習しているだけでも楽しかった。それで昔弾いていた曲も少しずつ呼び戻しながら弾きはじめると、不思議なことなのだが、どんどん人が変わったように自分が感傷的な人間になっていくのがわかった。
大人がピアノを弾くと良い脳トレになるんですよ、というような話はよく聞くと思う。もしかすると私のエモーションは年を経るごとに壊死しており、いまこうしてピアノを弾くことでよみがえりつつある、ということなのだろうか? これまで気づかないうちに、私の感受性は死につつあったのだろうか?
本気でそう思うくらい、本を読んでは、映画をみては、夕暮れに散歩をしては、私は強い感傷に引っ張られるようになった。「最近は何をみてもあまり感動がないな」と思っていたところだったので、自分でも驚いてしまった。
このままではスーパーで買った米を抱えて歩きながら涙をぽろぽろ流す情緒不安定な女が誕生してしまう......。
近所で有名になったりちびっ子たちを怖がらせるようなことがあってはならない。そう思って、ふんどしの紐を締め直そうとしているときに、ふと友人が私に「のだめカンタービレ」を全巻貸してくれた。言わずと知れた二ノ宮知子さんの大ヒット漫画である。
これほど有名な作品を、私はいままで1度も読んだことがなかった。ドラマや映画や舞台にも触れたことがなく、「クラシック音楽の話」というくらいのざっくりした認識しかなかったのだけど、ひとたびページを開くなりその面白さにひきずりこまれ夢中になってしまった。さらに前情報が全くなかったため後半で舞台がパリに移ることも知らず、急展開に心がはずんだ。のだめと千秋が、パリにいるなんて!
本編の連載期間は2001年から2009年までということなので、つまり「のだめカンタービレ」に描かれているのは、その時期のパリということになる。
私にとって、これまでパリを舞台にした最高のコンテンツは2004年の映画『ビフォア・サンセット』だった。いまやパリの観光地である書店、シェイクスピア・アンド・カンパニーで再会した主演2人が、ひたすら話しながらパリを歩く。それをただ見ているだけで人生がふっくらしていくような気になる。会話と散歩は、いうまでもなく恋の核だ。そして人生の花だと思う。パリは、ただ歩くのに適している。ここはとにかく歩いてなんぼの街なのだ。
「のだめカンタービレ」では、いちばん最初にパリへ到着して、ちょっと浮かれた千秋がほろよいでセーヌ川沿いを歩くところが好きだ。それから2人が「気分転換に」とオルセー美術館にいって、焼き栗を買って堤防で食べるところもたまらない。作品全体を大量の音楽が流れていくなかで、そんなふうに登場人物が歩く風景がなによりも好きだった。
パリ編は作品後半だから、つまり『ビフォア・サンセット』と「のだめカンタービレ」はだいたい同じ時期のパリを描いていることになる。そして、2025年の現在にはもう同じパリは存在しないのだ。
ノートルダム大聖堂も焼けてしまった。あんなにたくさんの人が好きに通り抜けていたエッフェル塔の足元も、いまはもう自由に入れない。あのとき歩いたパリも、歩いていた自分自身も、もう存在しないのだ。
ただ、そうは言うものの、「かわいい」「とにかくかわいい」と大ヒットした2001年のフランス映画「アメリ」も、たしか監督は夢のような昔のパリを再現するべく、ノイズを排除して撮影したと言っていた。この2001年の時点でも、すでにパリの美しさは昔と同じではないと考える人が多かったということだ。
では今日のパリだって、10年後には懐かしく思い出すに違いない。すべてが過ぎ去って流れていって、私たちはあとからそれを胸を焦がしながら思い出すのだろう。だからこれからもずっと、時間の許す限り感傷に身を任せてパリを散歩していたい。どこもかしこも、古くても新しくても、やっぱりここは面白くて特別な街なのだ。
さて、この連載は今回で終了することになりました。最後はただ「散歩っていいよね」みたいなことを熱弁するようなコラムになってしまいましたが、いままで読んでくださったみなさんに感謝しています。これからまたブログの更新を再開し、機会があれば書けるところで書けるものを書こうと思っています。フランスも日本も世界は面白いものであふれていて、散歩も書くことも飽きることがなくって、人生って最高、いまの気分はそんな感じです。電子ピアノにエモーションを掘り起こされているせいかもしれませんね。ではまた。
text: Shiro

パリの片隅で美容ごとに没頭し、いろんな記事やコラムを書いたり書かなかったりしています。のめりこみやすい性格を生かし、どこに住んでもできる美容方法を探りつつ備忘録として「ミラクル美女とフランスの夜ワンダー」というブログを立ち上げました。
パリと日本を行き来する生活が続いていますが、インドアを極めているため玄関から玄関へ旅する人生です。




