映画の世界を去り、陶芸のアトリエを開いたステファンヌ。

パリ11区のパッサージュにある陶芸教室。名前はAtelier Setsuko (アトリエ・セツコ)といって、日本人による教室といった印象を受けるが、2018年1月にここを開いたのは、10年間映画界で映像の仕事に関わっていたフランス人女性、ステファンヌ・レイモンである。「日本で日本人がアトリエ・フランソワーズとかアトリエ・カトリーヌと名付けるようなものね。レトロ感があって……」と笑った。

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Stéphane Raymond(ステファンヌ・レイモン)。アトリエ内には、リサイクルする土をいれたバケツが並ぶ。土にまみれた手。「これが私の日常よ」と彼女は語る。

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高校時代に映画を発見する

ステファンヌが生まれ育ったのは山が連なるサヴォワ地方で、子ども時代に映画館に行ったことはなかった。映画のビデオを見ることもなかった。大自然の中で遊んでいた時代が終わり、自宅から離れた高校に進んだ彼女は寮生活を送ることになる。そして、毎週水曜午後に許されている外出時間、彼女は映画を見る楽しみを覚えるのだ。写真が好きで、学校で写真、モノクロ写真の現像を学んでいた彼女は、ごく自然に光、照明、フレーミングへの興味を増してゆくことになり、「私、これを仕事にするわ! とリセ時代に映画の世界に将来進むことを決めたんです。当時、生まれた土地を離れて、アーティスティックな世界や画廊などがあるパリに行くことも私は夢見ていました。それでバカロレアを得て、映画のグランゼコールに行くための準備学校に通いました」

彼女が目指したグランゼコールFEMIS(フェミス)は、映画界で仕事をしたい若者たちにとっては狭き登竜門。彼女もすぐには入ることができなかったが、パリに行こう! という決心は固かった。それに映画の仕事をするならこの他に場所はない。パリの写真現像所で1年間研修をし、その後2001年に入学したフェミスにて4年間学ぶことになるのだ。

「学校にはセクションがいろいろとあり、入る前に自分がしたいことを決める必要がありました。映像、動き、ストーリーを語ることに興味があったので、撮影監督になりたかったんです。長編映画の照明とフレーミングの仕事ですね。卒業後、その撮影監督の仕事は短編映画で実現しましたけど、長編作品においてはカメラ助手、つまり責任者として撮影前に使用機材のチェック、そして組み立て、解体というのが毎日の仕事。またカメラはオートフォーカスではないので、フィルムを装填し、焦点決定をするのも大切な役割でした。どこにフォーカスを置くかを決める。ピントが合っているために、俳優が動けばフォーカスも動かさねばなりません。俳優が前進したらカメラも動き、車が来たら……」

全員が撮影する内容に合わせて一斉に動き回る。そうした現場の動きを彼女は“コレオグラフィー”と称する。常にカメラマンの隣にいて、前で起きていることに目を向けて……。彼女が学んだのはフィルムの時代。卒業した2005年はデジタルへの移行という過渡期だった。デジタルの時代になると、前を見るのではなくカメラに繋がった小さな画面へと目を向けることになるのだが。映画界で過ごした10年。その間の仕事の大きな喜びを尋ねると、

「待ち時間の長い仕事です。待って、待って……突然撮影の瞬間が訪れる。俳優も技術者も誰もが感動の瞬間に集中。これは素晴らしい瞬間なんです。そしてカット!  “どうだった?”と参加した全員が興奮します。それから現像を待って、映像を見て……そして編集。人間的で芸術的な冒険ですね」

多くに関わった中で強く思い出に残る作品は何だろう。フェミスの同年卒業生の中に現在映画監督として活躍しているセリーヌ・シアマがいる。第72回カンヌ映画祭で脚本賞をとった『燃ゆる女の肖像』の監督だ。10年間の映画人生でカメラ助手として仕事をした中で、その彼女の最初の作品に卒業したてで参加したことは思い出のひとつとなっている。また、ニコル・ガルシア主演のクレール・シモンが監督した『Gare du Nord』(2013年)では監督自身がカメラを回したので、俳優も含めて密に仕事ができる良い体験をした。ロバン・カンピヨの『Eastern Boys』(2013年)も仕事を楽しんだ作品のひとつだと語る。これはカメラ2台での撮影だったので現場の“コレオグラフィー”も二倍に。

喜びをもって仕事をする一方で、ドキュメンタリーの仕事をしたいという思いが彼女にあった。学校を卒業し、すぐに仕事を見つけるのは簡単な業界ではない。とりわけ人脈もなく、業界に親戚もいず、どちらかというと内気な彼女にとっては。ただ幸いなことにフェミスを出ていることが名刺代わりとなり、仕事には恵まれていた。

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趣味として陶芸を始める

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アトリエにて。インスタグラム@ateliersetsukoより。

「確かに仕事は途切れずにありました。でも、それらが興味深い映画の仕事かというと……難しいことですね。余暇の楽しみとして陶芸を始めました。私が小さい頃、アマチュアですけど母がしていたんです。手でフォルムを作って、村の陶芸家の窯で焼いていました。日常使いのためのきれいな器でしたね。27歳の時にその母を亡くし、それから5年後、私も陶器を作りたいと思ったのがきっかけです」

映画の仕事は続けていた。しかし、自分がしていることは十分にクリエイティブではないと感じていた。長編作品において自分は撮影監督には至れない、かといってカメラ助手の仕事には満足できるほどは心を捉えられていず……。

「映画を作ることにしました。私の母の死後のことで、喪失、葬いをテーマにした30分の16ミリ作品です。1年がかりでシナリオを書き、キャスティングをし、予算調達をし、撮影して。私のパートナーは映画編集者で彼と共同製作しました。難しいテーマだったけれど、フェステイバルでシナリオが賞をとり、また独仏のテレビ局ARTEでも放映されました」

この作品は『La Fonte des Glaces』(2010年)というタイトルで、ピエール・ネニーも出演している。短編映画のフェスティバル向けのコメディではないし、それにフェスィバルそのものも大衆向けではない。

「映画界に自分の居場所を見つけるのは難しい。こう結論しました。また 出産という大きな変化もありました。33~34歳の頃ですね。撮影はパリを離れることも多く、また夜も週末もありません。それで妊娠中から、1年以上働かずにいました。その間、楽しみとして陶器づくりは続けていて……私が通ったのはマレ地区にある日本女性が主宰するアトリエです」

映画の仕事をしている間、パートナーと日本へは何度も旅をしている彼女。日本語も楽しみとして学んだ。彼女にとって日本というのは大きな情熱を傾ける国なのだ。アトリエを開設する前に、3年間彼女はテレビのインタビュー番組の撮影に関わった。アーティストや作家について発見のある仕事で興味深かったけれど、自分がなぜこの仕事をしているのかという疑問もあり、また子どもがいるので自宅から長期間離れることもできない。

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陶芸。情熱を傾けられる対象に出会った。

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ステファンヌの陶器。アトリエで年2回、販売する。

「陶芸は趣味として始めたけれど、徐々に私の頭の中で場所を占めるようになってきました。日本に何度か旅をする中で陶器を見る機会もあり、それも私の気持ちの後押しをし……。また、パリでは習いたいという人が増えているのにアトリエが当時それほどなかったんですね。それで、思ったのです。教室を開くための養成学校に行くのはどうだろうか、と。自分の教室なら、時間帯を自由に決められ、娘の面倒を見ることもできるし……」

趣味で続けている間に陶芸の才能を自分に見出したから、教室を開くことにしたのだろうか。その問いに対し、彼女は“これをしたいという情熱から”と答えた。映画を仕事にしている時と同じ情熱を彼女は陶芸に感じたのだという。

「後になって気付いたことがあります。映画の仕事で私が好きだったのはフィルムだったのです。素材ですね。そしてフィルムが現像される間の時間が好きでした。つまり、撮影し、それを暗室で現像して、焼きつけて、上がりを見る。これが私の映像への情熱のベースだったのですが、画面にすぐに映像が現れるデジタルの登場でそれが失われてしまいました。陶器で私は素材に再会したのです。釉と暗室の薬品、窯で焼くことと現像……できあがった時に驚きも含め、私は映画で失ったものを陶芸に見出した、と言えますね。それに亡くなった母との繋がりもあります」

教室を開くという彼女の決断について、パートナーを含め周囲の誰もが満足したそうだ。本当にしたいことを見つけた彼女に対して、素晴らしい! という声ばかり。5カ月の養成期間が終わるや、すぐに現在アトリエのある場所を見つけ、工事をし、2018年1月にアトリエをオープン。生徒がすぐに集まった。

「陶芸に人々の関心が高まっていることが感じられる時期でした。1950~60年代は陶器がもてはやされた時代だけど、その後、90年代以降、とても古臭い悪趣味なものとみなされるようになっていて……それがいつのまにか再びア・ラ・モードに。マレにブティックのEmpreinteがオープンしたのを見た時、あ、陶器が戻ってきたと感じ、これで何かをしなければ! と思ったのです。これがアトリエを開くきっかけとなったのです。私は日本に対する情熱があり、また日本の陶器が好き。私、セツコという名前が昔から好きで、娘もサロメ・エディット・セツコと名付けたんです。小津の映画で知った女優の原節子。彼女の映画には感動し、日本を旅した時は鎌倉にお墓参りもしています。また『蛍の墓』で主人公の妹もセツコですね。バルテュスは私が好きな画家で、彼の奥さんも節子……それでアトリエ・セツコと命名しました。教室を開いて4年が過ぎ、これまで一度も後悔はありません。開いた時、まるであらゆる惑星が一列に並んだような印象がありました。ついに自分の場所を持ったと……。自由を始め、自分の好きなすべてを見つけ、そして母の心が私のしていることとぴったりと合わさったと感じられました」

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パリ11区のパッサージュに構えたアトリエ。www.ateliersetsuko.com
photos :(左)Maiko Omura (右)Atelier Setsuko

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アトリエ内。この場所を見つけた年のクリスマスに家族から贈られた女優原節子の写真を飾っている。photos :(左)Maiko Omura (右)Atelier Setsuko

通う生徒はフランス人、日本人、韓国人……。開設当時はろくろが3台だったが、5台に増え、パリ空前の陶器ブームといえるいまは7台に。最初は夜も週末も彼女がクラスを受け持っていたので、その間、パートナーが娘のお守りをしてくれて、多いに助けられたという。いまは夜、週末は別の先生がレッスンを担当している。

「彼には奇妙だったかもしれませんね。かつてはふたりして映画のことばかりをしょっちゅう話していたのが、私は陶器について語るようになって……。ロックダウンがあった時期に、ブルゴーニュ地方にある陶芸の街に家を買いました。陶器に使う砂岩の産地です。いま、自由な時間ができると、ここに行って陶器を創るんです。この夏は作品作りに取り組み、来年の夏には生徒を集めて集中教室を開こうと思っています。まだ予定ですけど……。自然の中に粘土を探しに行くことから始め、素材、釉薬のすべて自分で見つけたもので陶器を作るという教室です。私の家の隣が偶然にも宿屋なので、生徒たちが宿泊できて……」

ステファンヌのいまの喜びは、このブルゴーニュの家で行う陶器づくりだという。キッチンの隣にアトリエがあるので、朝、お茶を飲んだら、すぐに作業にとりかかる。8歳の娘の面倒を見て、野菜畑の手入れをして……そして、また仕事に、という暮らしがここにあるのだ。天職を見つけた、自分のいるべき場所にいる、と感じているという彼女。これだけでも羨ましいことだが、さらにこう付け加えた。「庭仕事に対する情熱もあるんです。もしまた別の人生があるなら、植物学や景観デザインの勉強をするでしょうね」

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日本の陶器のファンだと語るステファンヌ。ブルゴーニュで自分で見つけた土を使い、釉をかけた時に流れてレリーフが生まれるおもしろさから、土に岩石を混ぜることを好むそうだ。

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