シュルレアリストたちの忘れられたミューズ、リーズ・ドゥアルム。
知られざるパリの女たち、その生き方。 2024.04.16
19世紀から20世紀前半、男性優位のパリにあって我が道を歩んだ女性たちがいた。自分の意思を貫き自由に生きたパリの女たちに焦点を当てる連載「知られざるパリの女たち、その生き方」。第4回目に紹介するのは、詩人・小説家でシュルレアリストたちのミューズと呼ばれたリーズ・ドゥアルム(Lise Deharme/1898~1980年)である。子どもの頃から自身の頭の中を占める妖精の国に生き、そのまま非現実の世界に生き続けた黒い瞳の気まぐれクールビューティー。3度の結婚と時代のきら星たち囲まれていたその人生は?
マン・レイの''スペードの女王''。
ある人々には麗しく響き、ある人々には悪夢のように響く名前。それが小説家でありシュルレアリストたちのミューズだったリーズ・ドゥアルムだ。彼女がジャン・コクトーに想起させるのは、アルブレヒト・デューラーの銅版画『メランコリア』(1514年)の黒い太陽だそうだ。彼女には黒が似合い、それは最高の贅沢が表現される黒のことで、つまりダイヤモンド、真珠、アイリス、白鳥、偽りの黒のことだと彼は『キャロルあるいは女の子の気にいること』というリーズの小説のための序文(未発表)に書いた。アンドレ・ブルトンの心を占め、アントナン・アルトーが詩を捧げ続けた女性であるが、いつの間にやら時代の波に飲まれてしまったのか、彼女について語られることがなくなってしまった。残されている写真の中で、30代のものはマン・レイやドラ・マールによる撮影が多い。第二次世界大戦前のパリの芸術界にメセナとして君臨していたリーズ。シュルレアリスト・グループに親しい女性4名を被写体にマン・レイはトランプのプロジェクトのために1935年に撮影を行った。これは完結しなかったが、リーズは「スペードの女王」である。ちなみにヴァランティーヌ・ユゴーが「ダイヤの女王」、詩人エリュアールの妻ニュッシュが「クローバーの女王」、そしてブルトンの2番目の妻ジャクリーヌ・ランバが「ハートのジャック」。つるぎの形をし、騎士の象徴として最強のカードであるスペードにリザを当てはめたのは、彼女が莫大な財産を相続していること、そして他者に対する棘のように突き刺さる発言や態度で知られる危険な女性だったからだろうか。
左: 昨年Jean Claude Lattès社から出版されたNicolas Perge著『Lise Deharme, cygne noir(リーズ・ドゥアルム、黒鳥)』。表紙はマン・レイが撮影したリーズ。右: パリ7区グルネル通り15番地。1924年、ここに開かれたシュルレアリスム研究所にリーズはアンドレ・ブルトンを訪問した。ミューズ誕生の地だ。
ブルトン著『ナジャ』に登場する手袋の貴婦人。
リーズがパリ8区に生まれたのは、いまから126年前に遡る。馬車から車ヘと移動手段が変わる時期が彼女の幼少期にあたり、ブローニュの森、そしてシャンゼリゼ大通りや凱旋門周辺が彼女のプレイグラウンドだった。その後も彼女が暮らすのは16区、フォッシュ大通り、ヴォルテール河岸、グルネル通りといった高級住宅地である。ユダヤ系の父親エドガー・イルツは15区の有名なネッケール病院のチーフ医師だったが、リーズが18歳の時に亡くなってしまった。父方の祖父は麦の売買とその輸送で財を成した人物だ。母からの愛情を得られなった彼女は独立と自由を求めて、1921年1月、第二帝政期にコンセプトストアの先駆けとして生まれたオールドイングランド創業者の息子ピエール・メイエと結婚する。彼女は22歳。夫婦ともに若く、美しく、裕福......という共通点はあっても、子どもの頃からポール・ヴェルレーヌやオスカー・ワイルドを愛読していた彼女に対し、俳優・ダンサーとしてミュージックホールでの活動を極めたい彼にとっては彼女がダダイストたちを集めて自宅で催す文学サロンは退屈するだけ。結婚年に長女ヤサントが生まれてはいるが、母に愛されなかった彼女は子どもの愛し方も知らず。上手くゆかない結婚生活の辛さを紛らわすべくリーズは1922年には詩集を出して文学界にデビューを果たすのだった。
リーズがシュルレアリストたちと関わるようになるのは、そんな時期のことだ。1924年にグルネル通り15番地にできたばかりのシュルレアリスム本部を訪問したことから始まる。これは数日前に劇場で紹介されたアンドレ・ブルトンからの招待に応えてのことだ。その日に起きた事は彼の『ナジャ』にも書いてあるように、リーズがはめていた珍しい青色の長い手袋を名刺がわりに本部に贈って、とそこにいた誰かにお願された彼女はそれに同意したのである。"手袋の貴婦人"。リーズをこう呼ぶようになったシュルレアリストたちと、この日をきっかけに彼女はその後も長く付き合いが続くことになる。
その同じ年、マダム・メイエはあるパーティで知人からポール・ドゥアルム(1898~1934)を紹介されるのだ。既婚者のリーズだが、アートに関心を持ち知的でハンサムなポールに惹かれ、彼の方もブルジョワ育ちのその時代の女性に珍しく自由で大胆な生き方の彼女を気にいる。かくしてポールは別居中の夫ピエール公認の愛人となるのだ。その一方で、生まれながら現実を超越している存在である''手袋の貴婦人''に対するブルトンの思慕は募るばかり。そんな彼を突き放すことはせず、友人として自分につなぎとめておくリーズだった。彼女への思いを断ち切れぬブルドンは、失意を抱えてノルマンディー地方へと。その滞在先で彼は『ナジャ』(1928年)を書き上げた。
離婚が成立し、リーズはポールと1928年に結婚。これを機会に社交界だけでなく、彼女はポールと芸術界にも進出し、メセナ活動を活発に行い、前衛雑誌も出版し、ピカソを始め1930年代の芸術界に大きく寄与することになる。ラジオ放送のパイオニアと讃えられるポールは、妻の周囲の作家たちをラジオ広告のコピーライターに活用するなど画期的なコラボレーションを行って、というように、互いに刺激し合う夫妻の暮らしは活気に溢れていた。ふたりの間には男子トリスタンも生まれている。しかし、36歳の若さで1934年にポールは病死してしまうのだ。
打ちのめされたリーズだが、その翌年の夏、ランド地方モンフォール・アン・シャロスにファミリーが有する田舎の家に彼女は友人シュルアリストたちを集めた。2~3年前から交際を再開したブルトン、そしてポール・エリュアールのふたりがシナリオを書き、マン・レイが撮影する映画に彼女が出資をしたのだ。18名が集まり自身も出演して撮影......というはずだったが、マン・レイのカメラが故障で動かず。映画『Rien dans le puits du Nord』は数点の写真をの残しただけ終わってしまったプロジェクトである。
1935年、イエールのヴィラ・ノアイユにて。左端に家の主でリーズの友人のマリー=ロール・ドゥ・ノアイユ、その隣がアンドレ・ブルトン、そしてリーズ。photo: D.R.
ジャン・コクトーが祝った初の小説出版。
ポールの死後、ポールとともに仕事をしていたジャック・パーソン(1900~1978年)が彼女を慰め続け、そして彼女の3番目の夫となった。自分が愛したのはポールだけと公言し、奴隷のように自分を扱うリーズに彼は穏やかに大人しく従っていたという。彼との結婚期間は彼女にとって浮気の時期であり、また著作の時期。1949年から1976年までの間に彼女は15冊近くを出版した。最初の小説『La porte à coté』(ガリマール社刊)が出版された時、彼女のために記念ディナーを開催したのは彼女の3度目の結婚の証人を務めた長年の友人ジャン・コクトーだった。自身の幼少期にインスパイアーされて書いたこの作品は売れなかったものの、作家マルグリット・ユルスナールをはじめ作家たちから賞賛されその年のサント・ブーヴ文学賞を受賞している。
彼女の作品は時代に先駆けてセクシュアリティをテーマにしたものが多く、売れ行きは芳しいものではなかった。そんな中で話題を呼んだのは70歳を過ぎて発表した『Oh! Violette ou la Politesse des végétaux 』(ああ! ヴィオレットあるいは植物の礼儀正しさ)だろう。これは奔放な若い娘を主人公にしたエロティック小説。アーティストのレオノール・フィニによるピンク色した挿し絵付きの本は、その内容の過激さに販売禁止処分を受けてしまう。奇しくも一部の国で放送禁止曲に指定されることになるセルジュ・ゲンズブールの『Je t'aime mon non plus』がリリースされた1969年のことだ。それでも彼女は亡くなるまでパワフルに小説を書き続けた。比較的長生きだっため、親しかった友人たちが先に亡くなり、愛情をかけなかった子どもたちとの関係は冷たく。かつてはレジスタンス活動に参加し、共産党に傾向し、1968年には学生運動に応援にかけつけて、といった暮らしも遠くなり、最後は退屈な日々の連続となった。人生の後半、文筆活動に力を注いだ彼女を自宅で取り囲んでいたのは植物、鳥、猫、犬......。経済的に余裕がなくなり多くを売り払って暮らしに役立てていたそうだ。その昔、彼女を飾り立てたゴージャスなジュエリー、アパルトマンを訪れた人々を驚かせた奇妙なオブジェ類、なぜか彼女が所有していたヴェルレーヌがランボーを撃ったというピストルなどもそうした中に含まれていたのだろうか。
1969年にEric Losfeld社から出た『Oh! Violette ou La Politesse des Végétaux』。レオノール・フィニがイラストを担当した。photo: Mariko Omura
Lise Deharme (リーズ・ドゥアルム/ 1898~1980)
パリ生まれ。画家ホアン・ミロやレオノール・フィニ、写真家クロード・カーンなどとコラボレーションし、詩集や小説を出版。1930年代、ふたり目の夫ポール・ドゥアルムとともにメセナ活動に励む。フランス芸術界・文壇のきら星たちに囲まれ、シュルレアリストたちのミューズと呼ばれていた。
editing: Mariko Omura