美しき誘惑者、小説家・詩人ルイーズ・ドゥ・ヴィルモランの人生とは。

男性優位の時代に我が道を歩んだ女性たちがパリにいた。個性が強かったのか、感受性が強かったのか、あるいは自意識が強かったのか。一度会ってみたかった魅力的な彼女たち。職業も暮らしぶりも知名度もさまざまだけど、その生き方は憧れを抱かせる。自由奔放に生きたようにも見えるパリの女たちはどんな人生を歩んできたのだろうか? 第一回目は、小説家・詩人のルイーズ・ドゥ・ヴィルモラン(1920〜1969年)。戦後のパリ社交界に君臨した美しき誘惑者である。生前彼女は「私は伝説的存在となるべく天命を得ていた」と語っている。それは彼女お得意のおどけだったのか、それとも真実だったか......。複数の愛人と過ごした華やぎに満ちた67年間の人生をちょっとのぞいてみよう。

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ヴェリエールの自宅にて。いたずらっ子のような目つきは、ルイーズのトレードマークのひとつ。photo: ©️Boris Lipnitzki/Roger-Viollet/amanaimages

時に「私は"種屋''の娘」と自分を語ったルイーズ。彼女はパリのセーヌ沿いのメジスリー河岸に園芸植物店を構えるVilmorin(ヴィルモラン)商会経営者の家に生まれた。その創業者はルイ15世時代の植物学者に先祖を辿れるという有名店である。1970年代にファミリーの手を離れることになるが業界の老舗で、クリスチャン・ディオールがグランヴィル時代の愛読書としてあげたのがここのカタログだったほど。そんなわけで2020年にシャルル・ドゥ・ヴィルモランが23歳の若さでブランドデビューをした時も、園芸愛好家たちの誰もが"ああ、あのヴィルモラン家の!'' とうなづいたのだ。ルイーズはシャルルの大叔母にあたるそうだ。

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1932年に撮影された美しきルイーズ。この時30歳で、すでに三女のママだった。パールのジュエリーを好んだ彼女の嗜好が見て取れる写真である。photo: D.R.

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エレガントな誘惑者

詩人で作家のルイーズの処女作は32歳で出版した小説『サント・ユヌフォア』(1934年)だ。ジャン・コクトーはその読後に出会った彼女を"聖女(サント)''と崇めた。知性と貴族特有の優美さを併せ持つ彼女であり、また言葉遊びに長け、軽妙洒脱を好む事も含めコクトー自身と多くの共通点を持つこともあり、彼はその後長らく彼女と親交を交わすことになる。彼女の文才をいち早く発見したのは実家に出入りしていた神父さまで、出版の実現へと導いたのは、『人間の条件』(1927年)の作者で後の文化大臣アンドレ・マルローだった。初めて会った日に尽きぬ想像力を彼女に見出した彼が執筆を奨励したのだ。その後も小説を何作も出した彼女だが、作家として認められるには時間を要したといえる。男性から男性へと蝶のように飛び回る彼女に対して文壇の目は冷ややかで、お嬢様マダムの手慰み的にしか評価していなかったのだろう。作品全般を対象に、文学界の権威ある「プリンス・ピエール・ドゥ・モナコ賞」を彼女が女性として初受賞者するのは1955年だ。彼女が書くのは哲学的でも政治的でもなく、主題の多くは男女の心の物語。それを簡潔で上品な文体でリズミカルに軽やかに仕上げていた。映画化もされていて『マダム・ドゥ』(1951年)は邦題『たそがれの女心』で、『ジュリエッタ』(1951年)はジャン・マレーとジャンヌ・モロー主演で邦題『巴里の気まぐれ娘』で日本でも公開されている。

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ルイーズの人生は時代を超えて伝記作家を刺激する。上記2冊に加え、4年前にGeneviève Haroche-Bouzinac 著『Louise de Vilmorin , une vie de bohème』も出版されている。photo: Mariko Omura

コクトーの聖女で言葉を天才的に操るルイーズなのだが、彼女の辞書に貞淑ということばは見当たらない。彼女は4人の弟の中で最も仲良しだったアンドレと50年近く書簡のやりとりし、既婚者時代から素直にすべてを彼に報告していた。そこに登場する彼女の''関係者''リストは書ききれないほど長い。1925年、ルイーズは23歳の時に裕福なアメリカ人実業家 ヘンリー・レイ=ハントと結婚する。3女をもうけるが1937年に離婚。同年、ハンガリーの大領主で貴族のポール・パルフィー伯爵と再婚するがこれは6年で終わることに。その後も交流を続けるこのふたりの元夫も含め、彼女は常に大勢の男性に囲まれていた。4人の弟は生涯の仲間、同性愛者の男性は親友、既婚男性は恋愛や戯れの相手......驚くべきは彼女が虜にしたのは分野はさまざまだがいずれも才能溢れる男性たちであることだ。その筆頭は10代の終わりにつかの間の婚約をした、『星の王子様』でおなじみの作家アントワーヌ・ドゥ・サン=テグジュペリ。彼女にとって遠縁で弟たちと仲良しの彼とは他愛ない婚約ごっこだが、真剣だった彼はその後も彼女への思いを抱いていたとか。監督・俳優のオーソン・ウェルズもルイーズに"はまった''男性のひとりだ。知的な女性を好む彼はそのとき38歳、彼女は51歳だった。アンドレ・マルローとは最初に燃え上がった火花はその後友情に代わり、密かに交際を続けていたが彼女がなくなる6年前に共に暮らし始め、彼に最期を看取られることに。

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ヴェリエールの貴婦人。

ルイーズの美貌はオーストリア皇女エリザベスに例えられ、その機智・叡智はポンパドゥール夫人に例えられる。彼女の魔力。それは軽快な話術である。彼女の人生に暗い影をさがすなら、10代で患った結核性関節炎の後遺症で片足を少しひきずることだろうか......。いや、それすらも彼女のアリュールのひとつとみなされていたようだ。第二次大戦中からパリ南西部に位置するヴェリエール=ル=ビュイッソンの生家で彼女は多くの歳月を過ごすようになり、25年間そこで日曜晩餐会を開催する。話し上手で美しいホステスの磁力にひきつけられて集まる顔ぶれは多彩で、人々は自分がここに招かれていることを世間が知ることを望む、という場所だった。50年代に彼女の小説が映画化されると映画関係者が大勢押し寄せた。1964年に当時文化大臣だったアンドレ・マルローが彼女とともに暮らし始めると今度は政界の人々が。ルイーズが30年代から仲良くしている音楽家や芸術家たちと新しい顔ぶれがヴェリエールで混じり合ったのだ。サロンといっても堅苦しさはなく、シャンパンがグラスを満たしつづけ、ロンドンのカフェ・ソサエティ雰囲気だったという。親しい人たちはヴェリエールに長滞在もした。広い邸宅内、ジャン・コクトーが滞在するのは"アルコーブの間''。1946年に彼はここにこもって「ぼく自身あるいは困難な存在」を書きあげた。オーソン・ウェルズは船の模型が飾られた部屋に滞在し、1954年に自身が監督・主演を務めることになる映画『アーカディン/秘密調査報告』(日本未公開)を準備している。

貴婦人たるべくサロン開催のために家のリビングルームに"文化的サロン"のための雰囲気を彼女が作り上げるのは1950年代に入ってから。写真に残され、この家でもっとも有名なのは"青のサロン"だ。室内装飾にモダニティーの風が吹く時代、彼女はあえて時代遅れで古臭さが感じられる内装にまとめた。青地に白い唐草模様風のファブリックがカーテンと家具に用いられ、ルイ16世様式の肘掛け椅子などが配置され、壁には家族の肖像とルイ14世の肖像画......そのシャトー(城)がファミリー代々のものであることをゲストに感じさせたかったのかもしれない。

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2022年にアライア財団(18, rue de la Verrerie, 75004)で開催された『アライア 以前のアライア』展で、友人顧客のひとりとしてルイーズもアライアの言葉とともに紹介された。彼女がアライアに送った、彼女の有名な4つ葉のクローバーのメッセージも。photo: Mariko Omura

彼女の装いをみてみよう。170cmという長身でほっそりした彼女は、何を着ても絵になった。日常はどちらかというとクラシックな装いで、それにジュエリーをたっぷりめに、というのが彼女のスタイル。好んだものはパールだった。ジュエリーについてはその昔、ルイ・カルティエが宝飾デザインを彼女に依頼したこともあったというセンスの持ち主である。もともと絵心があり、個展も開催している腕前だ。ソワレなどにまとうのはクチュールドレスでバレンシアガも着たが、とりわけランバンだった。というのもジャンヌ亡き後メゾンを継いだ娘のポリニヤック伯爵夫人と親しい間柄だったこともあり、50年代にアントワンヌ・カスティーヨ時代になってもルイーズはメゾンに忠実だったのだ。アズディン・アライアはチュニジアからパリにやってきた2か月後にルイーズと出会い、彼女のために服を創り、旅も共にする仲で彼は彼女から知的なことを多く学んだと語っている。

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同志的存在のジャン・コクトーとレストランMaxim'sにて、1957年。photo: ©️LAPI/Roger-Viollet/amanaimages

精神的にも身体的にも解放されていたルイーズ。もっとも彼女は「フランスで女性にとって最悪なのは自由であること」と。あれするな、これするなと男性から指図されると"あら、素敵。彼はまだ私を愛してるんだわ''と心がくすぐられ、自分が存在してることが感じられる、と晩年TVでのインタビューに答えている。また何かの折には作家であるより囲われ女が夢だったとも。心臓発作で彼女が突然亡くなるのは1969年12月26日。オートクチュールにかわってプレタポルテが台頭し、ウーマンリブが叫ばれ......時代が大きく変わろうとしているときだった。19世紀からの貴族文化を体現した最後の女性といわれる彼女は、伝説的存在として良いタイミングで幕を引いたといえるのかもしれない。ヴェリエールの庭園に埋葬されたルイーズ。その墓碑銘は彼女がモットーとした「助けて!」だ。

Louise de Vilmorin(ルイーズ・ドゥ・ヴィルモラン/1902〜1969)
作家・詩人。作品中、1951年の『マダム・ド』と『愛しのジュリエッタ』は映画化されたこともあり有名だ。またルイ・マル監督『恋人たち』で彼女は台本を手がけている。晩年はフランスのモード雑誌に多く寄稿。料理本が知られるジャーナリストのマピー・ドゥ・トゥールーズ・ロートレックは彼女の1歳上の姉である。

editor: Mariko Omura

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