心も身体も自由に。裸体でキャンバスに向かった画家ジャクリーヌ・マルヴァル。

19世紀後半から20世紀の初頭のパリにも我が道を歩んだ女性たちがいた。男性優位の時代でも、自分の意思を貫き自由に生きたパリの女たちに焦点を当てる連載「知られざるパリの女たち、その生き方」。第二回はべル・エポックの妖精と呼ばれていた女性の画家、Jacqueline Marval(ジャクリーヌ・マルヴァル/1866~1932年)をご紹介。

ジャクリーヌ・マルヴァルって誰?という反応は日本人はもちろんフランス人でもほとんどで、彼女には"忘れられていた"と形容詞をつけるのがふさわしい。子どももいず、また30年近く暮らしをともにした画家のジュール・フランドランとも亡くなる直前に別れていた彼女なので、没後に開催されたドゥルオー競売場でのオークションで作品を含め彼女の所持品は散逸してしまった。また女性の才能を芸術界の歴史が隠したがる傾向から、ベル・エポック期にモダン絵画を描く女性として活躍した彼女なのに、第二次世界大戦以降、画家としての功績が語られることがなくなってしまったのだ。生前、近代絵画の女性のパイオニアとみなされ、これほどのキャリアの持ち主だったのに!?と驚かされる。

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1921年に描いたキキ・ド・モンパルナスの肖像(右:「 Kiki de Montparnasse」1921年 Collection particulière)を背景にした、ジャクリーヌ・マルヴァル。photo :Archives particulières, courtesy Comité Jacqueline Marval, Paris.

彼女の作品を目にすると、人はマリー・ローランサンの仕事に似ている思うようだけれど、それはマリー・ローランサンがジャクリーヌ・マルヴァルの作品を崇拝していたからであって、その逆ではない。当時世間はローランサンが水なら、マルヴァルは火、と比較していたそうだ。なお日本では大原美術館がマルヴァルの『小さきクレオパトラ』を所蔵しているので、倉敷の人には少しなじみのある名前なのかもしれない。

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独立精神旺盛に、名前も変えて自らをルネサンス。

グルノーブルの近くの小さな町に生まれ育った彼女の本名はマリー=ジョゼフィーヌ・ヴァレ。ジャクリーヌ・マルヴァルと名乗るのは、1895年、29歳でパリに引っ越してからだ。両親同様に小学校教員になるべく絵画や音楽の教育を受けた彼女は、教職につき、また絵を描き始めるのだが、20歳で結婚し、男子を出産する。しかしその子を6カ月で失った彼女は、しばらくすると夫の元を去りグルノーブルに引っ越すのだ。チョッキの仕立てと刺繍で自活を始めたものの、8~9年続けたところでうんざり。すべての持ち物を売り払って、強い意思を持ってパリへと向かった。

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1897年のリトグラフィーは、パリに来て間もない頃の自画像。photo: ©️Lucien Roux Courtesy of Comité Jacqueline Marval

グルノーブルで知り合った画家のジュール・フランドランとパリで再会。洋裁の仕事を続けつつ、彼女は彼やその仲間たちと一緒に絵を描き始める。当時ボ・ザールは女性の生徒を受けいれず、また、それ以前に彼女には学費を払えるあてもない。絵を描くにしてもシーツをさいて枠に張って画布の代わりにして......というありさまだった。フランドランとは30年近く生活をともにするが、入籍はせずユニオンリーブルとしてお互い自由に暮らしていたようだ。具体的な名前は残されていないけれど、フランドランによるとマルヴァルの男性たちとの関係はなかなか盛んだったらしい。

彼女がパリで最初に暮らしたのはモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り9番地だった。ここにはアーティストたちのアトリエが集まっていて、そこで得た知己はその後彼女のキャリア形成に役立つことになる。彼女は1910年代、画家としての知名度をあげてゆき、"次なるベルト・モリゾ(1841~1895年)"とまで評されるように。画家のアンリ・マティスやアルベール・マルケと彼女は親しく付き合うことになるが、それはもともとフランドランが彼らと知り合いだったことからだ。

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1912年にモンパルナスに拠点を置いたキース・ヴァン・ドンゲンとも彼女は親しくなった。1914年、パーティ好きのキース・ヴァン・ドンゲンが主催したパーティにマルケやマティスと一緒にマルヴァルも参加。photo: Archives particulières, courtesy Comité Jacqueline Marval, Paris. 

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1910年頃の作品『Les trois roses』。photo: ©️Nicolas Roux dit Buisson

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女性の裸体自画像の先駆者!?

離婚がようやく成立した1901年、アンデパンダン展に彼女は初参加する。35歳で彼女は初めて自分の作品を一般に公開! 1903年のアンデパンダン展で10点を出品したところ、セザンヌやルノワールを世に出した"やり手"の画商アンブロワーズ・ヴォラールの目にとまった。そして彼が作品を購入。そんなこともあり、彼女の作品はパートナーのフランドランの作品より高く売れるようになってゆく。

出品作品10点の中の1点は、1900年に描いた知恵・工芸・戦争の女神を主題にした『ミネルヴァ』。鏡に映る自分の姿を他者として作品に描いた自画像である。また同年の『オダリスクとチータ』も、チータを撫でながら裸体で横たわる女奴隷はジャクリーヌ自身である。100cm×200cmとサイズも大胆な作品で、女性によるヌードの自画像としてみると、美術史上で最古の作品のひとつに数えられる。

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ジャクリーヌ・マルヴァルの傑作とされる『L'Odalisque au guépard(オダリスクとチータ)』(1900年) 。画商アンブロワーズ・ヴォラールが購入し、現在はグルノーブル美術館が所蔵している。photo: Collection-part.-courtesy-Comité-Jacqueline-Marval_©Nicolas Roux dit Buisson.jpg

1902~03年に描いた『Les odalisques (オダリスクたち)』は193cm×230cmとさらに大きなサイズの作品で、これには5名の女奴隷が描かれている。ジャクリーヌの顔は少し尖った顎が印象的だが、ここに描かれている5名にその特徴がみてとれるように5名とも彼女自身がモデルである。この作品はお気に入りだったようで手放すことはなかった。1905年のサロン・ドートンヌをきっかけに強い色彩と激しい筆づかいの"フォーヴィスム"が絵画の主流となったパリで、しかも彼女はマチスやマルケ、ヴァン・ドンゲンなど周囲をフォーヴィスムの画家たちに囲まれていたけれど、独自のスタイルを貫いていた。彼女を取り上げた最近の記事は、そんな彼女を''前衛画家たちの中のフォーヴ(猛獣)''と形容していた。なお彼女が好んだ画家はゴッホとロートレックだったとか。

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マルヴァルが女奴隷5名を描いた『Les Odalisques(オダリスクたち)』(1902〜03年)。ピカソと彼女は同じ画廊で展示されたこともある知り合いで、ピカソが5名の売春婦を描いた『Les Demoiselles d'Avignon(アヴィニョンの娘たち)』(1907年)に、ジャクリーヌ・マルヴァル研究者は構図などこの作品との類似点に目をむけさせる。photo: © Ville de Grenoble _Musée de Grenoble -J.L. Lacroix

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ジャクリーヌ・マルヴァル。サン・ミッシェル河岸の自宅にて。後方の壁に『Les Odalisques(オダリスクたち)』がかけられている。photo: ©️Albert Harlingue/Roger-Viollet

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シャンゼリゼ劇場の装飾に、女性画家として唯一参加したジャクリーヌ。

オーギュスト・ペレが建築し、ファサードに施されたブールデルの浅浮彫で有名なシャンゼリゼ劇場。1913年の完成前、その劇場の装飾プロジェクトに彼女はただひとりの女性画家としてモーリス・ドゥニ、エドゥアール・ヴュイヤールとともに参加している。彼女がバレエ・リュスのファンでだったことを思うと、この仕事に傾けた情熱が想像できるだろう。劇場のフォワエ・ドゥ・ラ・ダンスのために、8点からなる『ダフニスとクロエの1日』を制作。1980年代にこれらはフォワイエ・ドゥ・ラ・ダンスから劇場の階段上のバルコニーに移動され、劇場を訪れる誰もが作品を鑑賞できるようになった。この仕事がきっかけとなり、マンハッタンでロンドンで......彼女の作品が展示され知名度は国際的に飛躍した。当時フランス、そしてヨーロッパにおけるモダンアートを語る時に、彼女の作品は欠かせなかったのである。

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プティ・パレで2023年11月14日から2024年4月14日開催の『モダーニティのパリ 1905-1925』展には、シャンゼリゼ劇場をテーマにした1室が設けられている。そこでマルヴァルがダフニスとクロエの1日を描いた8点中、この『La Danse bleue(ブルー・ダンス)』が展示されている。photo: Mariko Omura

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バレエ・リュスのダンサー、ニジンスキー(左)とパートナーのタマーラ・カルサヴィナ。こちらもプティ・パレにて展示。『Nijinski et Karsavina(ニジンスキーとカルサヴィナ)』(1910年頃)photo: collection particulière , paris ©️Nicolas Ruix dit Buisson

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心も身体も自由に。

1914年から18年までの第一次大戦中、彼女はパリとトゥーレーヌを行ったり来たりという生活を送った。その間1916年に彼女とフランドランは、モンパルナスを離れ、サン・ミッシェル河岸19番地に引っ越しをする。そこは1896年からアンリ・マティスが住んでいる建物で、1908年からは6階でアルベール・マルケも暮らしていた。彼らのようにマルヴァルも、窓から眺められるセーヌ河にかかる橋やノートルダム寺院を描き、またこの頃好んで制作していた花の絵画にもそれらを背景に描きこんでいた。彼女が好んで描いた主題は花、そしてバレエ、子どもである。

終戦後、1920年代はフランス南西部の海浜の街ビアリッツで過ごすことが多くなる。親しくしていたクチュリエ、ポール・ポワレの別荘に宿泊し、海岸の光景、水浴する女性たちの作品を残した。400cm×200cmというキャリアにおける最大の作品もビアリッツで制作している。ファッションに関心を持つ彼女のワードローブの中には、ポール・ポワレのドレスも。女性の身体をコルセットから解放したことで知られるクチュリエである。自由を愛する彼女がその服を気にいるのはわかりやすいことだ。

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海岸に女性たちが水着姿で過ごすようになった時代。デパートのラ・サマリテーヌ などの仕事で知られる有名な建築家アンリ・ソヴァージュが、この作品を所有していた時期がある。photo: 『Baigneuse au maillot de bain』collection particulière Courtesy of Comité Jacqueline Marval ©️Nicola Roux dit Buisson

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バスク地方の海岸を描いた『Plage rose de la côte des basques(バスク海岸のピンク色のビーチ)』(1923年)。彼女が使う色彩はピンクとブルーが多かった。photo: collection particulière Courtesy of Comité Jacqueline Marval ©️Nicolat Roux dit Buisson

1927年、サロン・ドートンヌに出展した画家たちが"どのように絵を制作しているか"というインタビューに答えた記事が残されている。その中で彼女は、「仕事をするときに上っ張りを着ることは考えたこともありません。身体を自由に動かす必要があります。暑い時は、裸で絵を描きます。なぜなら私はそのようにこの世に生まれでたのですから」と答えている。

何事にも自由を好み、当時の女性としてはエキセントリックな面があったマルヴァル。1909年春にニジンスキーとカルサヴィナが『アルミードの館』を踊った劇場でのエピソードが、彼女の親友だったマルケの妻によって没後明かされている。この晩、ピンのようなもので留めただけのほぼ透明な布を身体に巻きつけ、閃光を放つ髪に胸まで下がるクジャクの羽をつけてマルヴァルは得意げにやってきた。幕間、舞台に興奮した様子で廊下を満たす大勢の観客の中の彼女の姿に、マチスとマルケはもしも彼女の服を留めるピンがはずれてしまったらどうしようか......とはらはらさせられたそうだ。また彼女はある時期から、髪を真っ赤に染めるようになっていたという。

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画家として参加していたサロン・ドートンヌから、1923年、ポスターを依頼された。photo:courtesy-Comité-Jacqueline-Marval_©NicolasRoux dit Buisson

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常にゆったりとした装いだったジャクリーヌ・マルヴァル。1920年ごろ。左はアトリエにて、右は画家仲間のアルベール・マルケと1917年。photo 左:Archives particulières, courtesy Comité Jacqueline Marval, Paris. 右:Archives Wildenstein -Plattner Institute

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66歳の生涯をパリで閉じる。

1920年代後半はシンデレラをテーマにした作品を手がけていたジャクリーヌ。いつの間にか病におかされていたが、持ち前の独立心ゆえか治療も受けず自宅でひとり暮らしを続けた。その衰弱ぶりに友人の采配で入院をするものの、間もなく亡くなってしまう。パリ10区のビシャ病院で、1896年に亡くなった詩人ポール・ヴェルレーヌと奇しくも同じ病室だったそうだ。ジャクリーヌ・マルヴァルと名前を変え、やりなおした約30年間の人生が幕を閉じた。

彼女の仕事に再びスポットをあて、大勢の目に作品が触れるようにと、2020年にラファエル・ルー・ディ・ビュイソンによってComité Jacqueline Marval(コミテ・ジャクリーヌ・マルヴァル)がパリに設立された。彼女の仕事を知るほどに、"忘れられた画家"であることが信じられず、彼は40年前に作品の収集を始めたのだそうだ。コミテで彼女の作品がデジタル化され、アーカイブも整理され、世界各地の展覧会への貸し出しも活発に行われるようになっている。月に1度だが予約制で一般公開も。2023年11月14日から2024年4月14日にプティ・パレで開催の『モダニティのパリ 1905-1925』展で、ジャクリーヌ・マルヴァルはひとりの画家としては異例なことに4作品も展示されている。1910年代、生き方も絵画の主題も時代に先駆けていた彼女は、独立した女性画家の典型としてメディアに取り上げられていた。プティ・パレでの展覧会をきっかけに再び脚光を浴びることになっても不思議ではないだろう。

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プティ・パレで展示されている4点のうちの1点。第一次世界大戦中、子どもたちに対して愛情を持つ彼女は戦争孤児の面倒をみていた。モデルを務めた子どもには靴をプレゼントするなどの援助も。1918年頃の『Jeune fille assise(座っている若い女性)』。 photo: Collection particulière, Courtesy Comité Jacqueline Marval, ©Nicolas Roux dit Buisson

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16区に所在するComité Jacqueline Marval。月に1度の一般公開日については公式サイト、もしくは公式インスタグラムにて。photo: Lucien Roux

Jacqueline Marval(ジャクリーヌ・マルヴァル/ 1866~1932年)
画家。独学で絵を描き始め、アンデパンダン展、サロン・ドートンヌなどに作品を出品していた。シャンゼリゼ劇場の装飾に参加し、劇場が完成した1913年にはアメリカの複数都市を巡回したアーモリーショーと通称される「国際現代美術展」で、セザンヌやモネといった画家の作品とともに、彼女の代表作『Les odalisques(オダリスクたち)』が紹介された。

editing: Mariko Omura

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