写真・文/甲斐美也子(在香港ジャーナリスト、編集者、コーディネーター)
香港で最も有名な標識と言えば「小心地滑」。通行人に足下が滑りますよと注意を促すのが、その役割だ。
日本語でも意味が伝わる字面と、ピクトグラムで描かれた人物の豪快な滑りっぷりがおもしろくて愛着が湧いてしまうためか、旅行者だけでなく在住者でも、見かけると必ず写真を撮るファンが多数いる。
地下鉄駅構内にある標識。
ビクトリアハーバーからビクトリアピークの山頂までの高低差が最大500mという香港島には、世界最長の屋外エスカレーターである全長800m、高低差135mのミッドレベルエスカレーターがあり、急勾配の土地でも上下の行き来があまり苦にならないように工夫されている。そんな地形のせいか、街中に段差がとにかく多いので、「小心地滑」の出番も自然に多くなるようだ。
映画『ダーク・ナイト』や『恋する惑星』などのロケ地にも使われたミッドレベル・エスカレーターは、いたるところに「小心地滑」のサインが貼られている。
エスカレーターの途中に、旧警察署や監獄跡をショップ、レストラン、博物館などの複合施設として再生させた「大館」があるのだが、その入り口付近もやはり急な石畳の坂道。ここには周囲の景観に溶け込む透明なアクリルボードを使った「小心地滑」がさりげなく置かれていた。
大館正面入り口から登ったところにある「小心地滑」はスタイリッシュ系。香港島では坂の途中にある建物が非常に多い。
それではこの「小心地滑」は、どんな基準で設置されているのだろうか。
2010年から香港の大手デザイン会社、Hirsch Bedner Associates Hong Kongのデザインディレクターとして、ロイヤルガーデンホテルのJ’s Bistroをはじめとする多数のホテルやレストランを手がけてきた藤居純也さんに尋ねた。
「法律で強制されているわけではなく、事故や賠償問題などのリスク回避のために、プロパティオーナーや経営側が自主的に設置することが慣習になっているようです。そのため、デザインには自由度があります。ショッピングモールやホテルなどの大型プロジェクトでは、標識専門のコンサルタントがいて、小心地滑を含んだすべての標識の計画とデザインを担当します。そして標識デザイナーが図柄、色、フォント、テキストサイズ、素材などをブランディングやインテリアデザインとの調和を見ながら進めるんです」
不特定多数の幅広い年齢層が集まる場所なら明るくクリーンなデザインで視認性重視、格式を求められる場所ではモノトーンで高級感を出すなど、場所と目的にあった「小心地滑」を考えるのも、標識デザイナーの腕の見せどころなのだとか。
事故防止を意識して、坂道やなどの段差以外にも、滑りやすい素材の床や、掃除直後や雨で濡れた床の近くにも「小心地滑」は登場する。
大理石の立派な床が広がるビルでは、ほぼ5mおきに「小心地滑」が置かれていた。よほど滑りやすいのだろうか。
1888年創業のスターフェリーも、いたるところに「小心地滑」が。こちらは文字だけの表示に何とも言えないレトロな魅力がある。
所変われば「小心地滑」も変わる。1928年創業のペニンシュラ香港では、木を使ったクラシックなデザインに。
モダン広東料理店「HEXA」で見かけた、バナナの姿をした「小心地滑」。
中にはピクトグラムではなくて、バナナの皮を模った形状のものやプロジェクションで床に照らし出す最先端の「小心地滑」もある。香港らしいユーモアで、今日も足を滑らせそうな誰かを救っている、頼もしい存在だ。
photos et texte:MIYAKO KAI