我が愛しの、ジェーン・バーキン 人に社会に貢献し続けた、ジェーン・バーキンの人生とは?
Society & Business 2024.07.02
幼い頃からごく自然に、困っている人に手を差し伸べ、名声を得た後も社会貢献をし続けた。世代も性別も、人種や国境も超えて、人々にあり余るほどの愛を捧げた活動を振り返る。
文/村上香住子
フランスの芸能界で、ジェーン・バーキンほど人道的支援やアンガージュマン(社会参加)の活動に熱心だった人は、ほかにいないかもしれない。それも有名になってからではなく、すでに12歳の頃から、英国海軍士官だった父親に連れられてアムネスティ・インターナショナルの死刑反対のデモに参加していた。「暗闇で呪うより、一本の蝋燭に火を灯せ」というアムネスティ創始者の思想は、そのままジェーンの考えになったのだろう。
1972年、人工妊娠中絶に関するボビニー裁判のデモに参加。©️ Getty Images
「どんなに活動しても問題は解決しない、と思っている人も多いけど、インターネットでアムネスティのサイトに行き、活動を支持してくれるだけでもいいのよ」
人間らしく生きる権利を侵された人たちに手を差し伸べるのは、彼女にとってごく自然な行為となり、その後、ユニセフや国境なき医師団にも携わることになる。ジェーンはいつも人の善意を信じる人だった。
ジェーンの最後の恋人、作家のオリヴィエ・ロランとは、1995年、ボスニアの首都サラエボで、民族間に勃発した戦禍の前線で出会っている。パリの文化人として、悲惨な戦争をメディアに伝えるためだった。
2006年、アンナ・ポリトコフスカヤに敬意を示し、ノートルダム大聖堂で行われた集会で。 ©️ Martine Franck/Magnum Photos/Aflo
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2006年には、チェチェン紛争を取材していたロシア人の女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤが殺害された事件に心を痛め、ノートルダム大聖堂前でデモが行われたことがあった。私はちょうど現場に居合わせたが、取材に来た大勢のジャーナリストに取り囲まれて意見を述べていたのはジェーンだった。知名度があれば、それだけ抗議する主張を多くの人に伝えることができるからだ。
08年のアルバム『冬の子供たち』は、ミャンマーの民主化を進め、その後自宅軟禁されるアウン・サン・スーチーへの曲や、すべての子どもたちへのメッセージも含まれていて、暗く、優しい思いが込められている。
2009年、女優のマリオン・コティヤールや、カトリーヌ・ドヌーヴらとアウン・サン・スーチーを支持する平和的抗議活動にて。 ©️ LORENVU/SIPA/amanaimages
不法入国者の問題にも心を動かされていた。「私も皆さんと同じ移民なのです」とイギリス生まれのジェーンは言っていたが、迫害を受け、故郷を追われてフランスに逃げ込んできた難民たちの前では、彼女はあまりにも恵まれていた。それでも10年の入国管理事務所前のかなり激しいデモにも加わっている。
2010年、歌手のレジーヌ・シュクルーンとともに、移民を支持するデモに参加。 ©️ Abaca/amanaimages
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こうした社会的活動はもちろんのこと、彼女は普段から心の赴くままに行動していて、極寒の中で路上生活者を見ると駆け寄り、言葉をかけていたものだ。
そして11年。東日本大震災の数日後、パリにいるジェーンから「私の好きな日本の人たちが、被災地でとても酷い状況でいるのを見るのは辛い。いてもたってもいられない。私に何かできない?」と連絡があった。実はその頃ジェーンの長女ケイトが来日することになっていたので、私は彼女を待っていたのだが、やって来たのは母親ひとりだった。 当時日本に住むフランス人たちはチャーター機で帰国していたのに、 ジェーンは被災地のためのチャリティコンサートを開くために来日したのだ。
2011年の東日本大震災後直後に単身来日し、義援金を募る街頭ライブを実施。渋谷のパルコ前で、アカペラで歌った。 ©️ KCS/Afl
翌年、南三陸仮設住宅にいる被災者救援のために私が設立したアマプロジェクトをいち早く支援してくれて、私たちが手作りしたブレスレットを自分のコンサート会場で売ってくれた。 13年に東北まで来てくれたジェーンはアマプロジェクトのみんなを強く抱きしめて、勇気づけてくれた。この日のことは忘れられない。ジェーンの白血病が悪化した時、仮設住宅の人たちが千羽鶴を折ってくれたので、私がそれをパリに持って行ったこともある。
被災地南三陸の復興支援のため村上香住子が設立したアマプロジェクトのメンバー。
女性たちが手編みで仕上げたブレスレットを谷尻誠デザインの封筒に入れて、美術館のギフトショップ等で販売。ジェーンはコンサート会場で販売し、たくさん購入して周りの人たちに配ってもいた。
私がジェーンと最後に会ったのは、17年1月にパリ5区の彼女の自宅で開かれたガーデンパーティに招かれた時だった。その夜は、長年の親友ミシェル・フルニエとポールの結婚式で、おめかしをした元文化省の演劇専門家と建築家のカップルはなかなか素敵だった。愛と自由に生きたジェーンは、身近な人にも優しい心配りをいつも忘れていなかった。
1992年、エイズ撲滅キャンペーンに娘ふたりと参加。 ©️ APESTEGUY-BENAINOUS/Gamma/Aflo
24年1月1日、能登半島で発生した地震のことを報道で知ったシャルロットは、いち早く石川県の県庁宛に義援金を送っている。すぐに被災地に手を差し伸べていたジェーンの精神は、娘にも確実に受け継がれているようだ。
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オリヴィエ・ロラン「抜け目がなくしっかり者、そんな彼女がいまも愛しい。」
フランス文学翻訳の後、1985年に渡仏。20年間、本誌をはじめとする女性誌の特派員として取材、執筆。フランスで『Et puis après』(Actes Sud刊)が、日本では『パリ・スタイル 大人のパリガイド』(リトルモア刊)が好評発売中。食べ歩きがなによりも好き!
Instagram: @kasumiko.murakami、Twitter: @kasumiko_muraka
▶︎ジェーン・バーキン、永遠のファッションアイコンの魅力を紐解く。
*「フィガロジャポン」2024年3月号より抜粋
text: Kasumiko Murakami