没後40年、モナコ・グレース公妃が紡いだ美しき物語。

Culture 2022.09.14

9月14日で没後40年を迎えたモナコグレース公妃。著書『忘れ難きグレース・オブ・モナコ』が8月24日に再版された歴史家ジャン・デ ・カールに、フランスのマダム・フィガロがインタビュー。

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婚約発表後のレニエ公とグレース・ケリー。(1956年1月5日)Getty Images

「永遠に生き続ける人たちがいる」と彼女はよく口にした。モナコのグレース公妃はそのひとりだ。9月14日、没後40年を迎えるにあたり、王室伝記作家ジャン・デ・カール(『グリマルディ家のサーガ』)の著書『忘れ難きグレース・オブ・モナコ』(1)が8月24日に再版された。ノスタルジーに彩られた著書のなかで、何度も公妃に会ったことのある歴史家が当時の様子を語っている。グレース・ケリーという名の若きハリウッド女優、アルフレッド・ヒッチコックのミューズ、モナコ国民と大公の愛する公妃、そして母親(1957年にカロリーヌ、1958年にアルベール2世、1965年にステファニーが誕生)——様々な顔を見せたアメリカ人女性は、公国に新しい息吹をもたらし、歴史にその名を刻んだ。

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永遠の風格

——あなたはレーニエ大公とグレース公妃に何度も会っていらっしゃいます。ふたりはどのようなカップルでしたか?

ジャン・デ ・カール グレース公妃と大公は「魅力と有能さの結婚」と呼びたくなるようなカップルでした。私はレーニエ大公が大好きでした。グリマルディ家の知られざる歴史を語りたいという私に、大公は一族の古文書にアクセスする権利を与えてくださいました。知的で、教養のある方でした。

グレース公妃は素敵な女性でした。お目にかかると、公妃はすぐに子どもたちの近況を尋ねました。おもしろくて、茶目っ気があり、その上、堂々たる風格を備えた女性。公妃としても女優としても、完璧にその役割をこなす彼女の能力に、私は感服しました。他者への思いやりがあり、育ちのいい女性でした。その上、毅然とした態度を取ることもできました。ムーランルージュで催されたガラパーティを覚えています。会場に殺到した50人ものカメラマンに公妃がカメラをしまうよう命じると、彼らは文句も言わずに従いました。公妃はとても尊敬されていて、決して目立ちたがり屋ではありませんでした。

——著書のなかで、同席されたディナーのエピソードを語っています。そのとき公妃はフランソワ ・トリュフォーに会ったと…

同席者の中でいまも残っているのは私の妻と私のふたりだけになってしまいましたが、1977年にパリで催されたあのディナーはフランソワ・トリュフォーのたっての希望で実現しました。彼はどうしても公妃に会いたかった。彼も公妃と同じようにヒッチコックに魅了されていたからです。

20時30分ちょうどに到着したグレース公妃は見事なドレスをお召しでした。公妃は「ムッシュー・トリュフォー、時間がなくて私はあなたの新作『恋愛日記』(1977年)をまだ観ておりません」とおっしゃいました。トリュフォーは公妃にプライベート上映会を提案しましたが、公妃は断られました。「ご存知のように、私はいまもハリウッドをとても身近に感じています。映画は映画館で観るのが好きなのです」と。それは事実でした。公妃はケーリー・グラントやフランク・シナトラといったアメリカの友人たちとずっと交流を保っており、モナコのサーカスフェスティバルにも招待していました。

彼女はハリウッドに背を向けたことは一度もありません。食事の途中で、彼女はまた、なぜモンペリエで撮影をしたのかとトリュフォーに尋ねました。「フランスで女性が一番美しい街だからです」と答えた彼に、公妃はチャーミングな笑顔を浮かべて、こう返された。「レーニエ大公がどうしてモンペリエに留学したかいまよく分かりました」

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「類ない」出会い

——彼女の人生には、グレース・ケリー時代とモナコのグレース公妃時代、ふたつの時期があります。女優時代のグレースにはどのようなイメージがありますか?

『ダイヤルMを廻せ!』(1954年)や『裏窓』(1954年)といった映画のヒロインを演じた、魅力的な女優のイメージです。ヒッチコックは彼女に惚れ込んでいた。お気に入りの女優でした。そして逆もまた然り。そういえば、彼女がたった一度だけ約束に遅れてきたのは、監督が亡くなった日でした。彼女は涙を浮かべて私にこう言いました。「申し訳ありません。ヒッチが亡くなったんです」。彼女にとって大きな苦しみでした。ヒッチコックは彼女を作り上げた人でしたから。

さらに驚くべきことに、公妃となる前、彼女は別の監督(注:チャールズ ・ヴィダー)の『白鳥』(1956年)という映画に出演しましたが、それはある皇太子との結婚を控えた若い貴族の女性の物語でした。現実とフィクションの混交は常に彼女の人生の驚くべき要素でした。

——レーニエ大公はグレース・ケリーのどこに惹かれたのでしょうか?

ふたりの出会いの物語はほかに類のないものです。女優オヴィリア・デ・ハヴィランド(『風と共に去りぬ』)の夫で、雑誌「パリ・マッチ」のジャーナリストだったピエール・ガラントのある提案がきっかけでした。彼は1950年代半ばに「レーニエ大公とグレース・ケリーのツーショット写真を撮ってみよう」と発案したのです。雑誌はふたりの対面を企画しました。グレースは気品溢れるレディでした。モナコのことはあまりよく知らなかったものの、スター女優であり、素晴らしい素質を持った人物である点に大公は惹かれたのです。

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新たな役柄

——グレース・ケリーの女優引退はどのような反響を呼びましたか?

ハリウッドは鼻高々でしたが、同時に彼女が去ってがっかりしていました。彼女が例外を設けてまた映画に出演してくれるだろうと期待していました。確かに、彼女がすでに公妃となっていた1957年に映画『王子と踊り子』が公開されましたが、これは結婚前に撮影されたものです。モナコ国民は彼女がまた映画の道に戻ってしまうと考えてパニックになりました。もし彼女自身が再び映画界に戻ることを望んだとしても、おそらくレーニエ大公が反対したでしょう。しかしその必要はありませんでした。彼女は過去の自分を何ひとつ捨ててはいません。ただ役柄が変わっただけなのです。あるジャーナリストが彼女にキャリアを断念したのかと尋ねたとき、彼女は「新しいキャリアが始まるのだと思っています」と答えました。

——グレース・ケリーはどのようにモナコ国民の心を掴んだのでしょうか?

1956年4月18日、ハリウッドの大物たちが総出でレーニエ大公と彼女の挙式に馳せ参じました。この結婚が当時の人たちをどれだけ興奮させたか、私たちにはなかなか想像ができません。グレースのおかげでモナコ公国の世界的な知名度は向上しました。当時はまだ、アメリカも含め世界の人々の多くが、モンテカルロがどこにあるかさえ知らなかったのです。グレースのおかげでモナコはまったく予期しなかった復活を果たしたわけです。

公国には長い間公妃が不在でした。モナコの再興には彼女のような女性が必要だったのです。真面目で、プロ意識を持った女性が。彼女は完璧主義者で、アマチュアは好きではありませんでした。彼女とレーニエ大公はふたりでモナコを再建したのです。「私たちはいいチームでした」と大公は私におっしゃったことがあります。

——モナコでのグレース公妃の闘い、活動とはどのようなものでしたか?

1958年に彼女はモナコ赤十字社の代表に任命されました。モナコ公国をよく知るために、彼女は市場を訪れ、市民と言葉を交わしました。彼女は怖かったし、やるからにはきちんとやりたいと思っていた。公妃の事務局は精力的に活動し、彼女はたくさんの人を援助しました。レーニエ大公は驚いていました。公妃は、公国の国力増強に関する事柄をはじめ、自分が関与する案件を熟知していました。赤十字社のガラパーティーといった慈善事業にも力を注いでいました。

彼女には好感の持てる威信がありました。自分が間違えたときは、自分の誤りを改めるためにできるだけのことをしました。彼女はモナコを利用したことは一度もありません。モナコに奉仕したのです。後年、彼女が自然の素材を用いたタブローを発表したときも、名前は出さず、グレース・パトリシア・ケリーのイニシャルである「GPK」とだけサインされています。

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奇妙な虫の知らせ

——ジョゼフィン・ベーカーは最近パンテオンに祀られましたが、著書では、公妃が晩年のジョゼフィン・ベーカーにどのように援助を行ったかにも触れていますね。

父と一緒にパリのオランピア劇場に彼女の公演を観に行ったことがあります。当時、ジョゼフィン・ベーカーは金銭的な問題を抱えていて、大手ビールメーカーのブランド名を10分に1回挙げなければならないような状況でした。グレース公妃が掛け合ったおかげで、ベーカーはボビノ劇場で再びショーを行うことができました。また公妃は彼女を手厚くもてなしました。ジョゼフィン・ベーカーは1975年に亡くなり、モナコの墓地に埋葬されました。2021年11月にパンテオン入りしましたが、彼女の遺族は遺体をモナコに残してほしいと望みました。

昨年、信じがたい偶然から、私はジョゼフィンが養子に迎えた子どもたちのうち最年長の息子に出会ったのですが、彼は、モナコ公妃の親切さと威信に家族みんなが心を打たれた、家族にとって母親の遺体がモナコを離れることは問題外だと語っていました。

——グレース公妃の晩年はどのようなものでしたか?

みんなと同じように、彼女も年齢と闘っていました。彼女は母親が脳梗塞で亡くなったことに大きな衝撃を受けていたと思います。1982年にコート・ダジュールの崖上の道路で起きた自動車事故については、多くのことが語られてきました。公妃は運転が苦手でしたが、その日、彼女は娘のステファニーを空港に送りに行くつもりでした。ところが車の後部座席には宮殿に運ぶつもりだったオートクチュールドレスが積まれていて、余裕がありませんでした。そこで彼女は自分で運転することにしたのです。専属運転手は公妃を止めなかった自分を恨んでいました。

——公妃の死について、いま、どんなことがわかっていますか?

彼女が事故に遭ったのは、この道は危険だからいつか誰かがここで死ぬ、と数年前に彼女自身が私に話したまさにその場所でした。彼女はおそらく脳梗塞を発症したのではないでしょうか。車はオートマティックでしたし、急ブレーキを踏んだ形跡は見られませんでした。彼女は車の制御を失い、車は私の友人の家の庭に落ちました。そこがフランス領であったために、事態はややこしくなった。モナコの警察に通報する前に、フランス側の警察に知らせる必要があったからです。

ステファニー公女は無事でした。その後、世界中が喪に服しました。クメール・ルージュ統治時代のかつてのカンボジア、民主カンプチアのような国まで3日間の国喪を布告しました。葬儀の間、私はグレース公妃がある日私に言った言葉を改めて思い起こしました。「私は自分の人生をおとぎ話とは思っていません」。彼女の人生はおとぎ話ではありませんでした。多くの章からなるとても美しい物語でした。

(1)Jean des Cars著『Inoubliable Grace de Monaco』2022年8月24日、Le Rocher出版刊

text : Chloé Fiedmann (madame.lefigaro.fr)

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