女性写真家、石内都の自宅兼アトリエを訪ねて。

Culture 2024.09.20

アルル国際写真フェスティバルで「ウーマン・イン・モーション」フォトグラフィー・アワードを受賞した石内都は、2018年から故郷の群馬県桐生市に自宅兼アトリエを構えている。今回、石内の創作の現場を訪ねた。

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石内の写真には、知覚、色調、色のコントラストで遊ぶ彼女のスタイルがよく表れている。

石内は携帯電話を持っていない。部屋の片隅にファックスがあるだけだ。しかしながら、完璧に整頓された室内に自分の人生の記録をすべて保管している。箱に収められているのはヴィンテージプリント、シルバープリント、そして各種サイズの分厚い書類の束。一部の写真はとても大きくて、彼女の背丈ほどもある。石内はこうした写真を保管庫から取り出すと、自分の前に並べてみせた。ほとんど写真に埋もれ、まるで写真を着ているかのよう。石内は写真と共生している。

作品を見せる間、石内はケラケラと笑っていた。ほとんどいつも、あっけらかんと笑っているか、微笑んでいる。上機嫌なまま、もっと小さな箱から写真を取り出した。だが、そこに写っていたのはシリアスな光景だった。これは石内のライフワークのひとつで、少女時代に暮らした横須賀の街の雰囲気や空気感を捉えた作品だ。

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『From Yokosuka』の一枚。石内都が1970年代初頭にデビューした頃、自分が育った横須賀の街を撮ったものだ。港町の横須賀には米軍基地があり、彼女のカメラはいかがわしい場所や薄暗い場所を捉えている。

「幼い頃に横須賀に引っ越し、6歳から住んでいました。父は米軍基地関係の修理の仕事を見つけ、一間しかない住居に家族全員で暮らしていた。成長するにつれ、次第に周囲に目がいくようになり、国境の存在に気付いた。このラインまでが自分の国、そこから向こうはアメリカ。横須賀生まれではない自分もある意味、よそ者だった。それからアメリカという異文化に興味を持つようになったんです」

横須賀で起きていたことは、戦後の日本各地で多少なりとも起きていたことだった。広島と長崎に原爆が投下されて第二次世界大戦が終結し、勝利したアメリカが日本国内各地に軍事基地を設けた。最も有名なのは沖縄かもしれない。沖縄では、1960〜70年代、ベトナム戦争の頃に米軍の存在が大きくなり、それに対する抗議活動も激化したことで多くの写真家やジャーナリストが沖縄に注目した。たとえば写真家の東松照明や石川真生の作品が思い浮ぶ。石川は沖縄のアメリカ兵と若い日本人女性の関係をいかがわしい場所やビーチやバーで捉え、そこに潜む猥雑さと暴力性をあぶりだした。同様に横須賀も米軍基地の存在ゆえ、多くのドキュメンタリー写真の主題となった。日本の有名フォトグラファーのひとり、森山大道も71年に横須賀の夜の深い闇を捉えている。なかでも有名な写真は、若い女性の後ろ姿を捉えた作品だ。写真の奥で女性は、両側の壁と地面を覆うゴミや瓦礫に挟まれ、ほとんど押しつぶされそうになっている。

これと対照的なのが石内の作品だ。友人から印画紙や薬品といった消耗品以外の引伸機などの暗室道具をもらったことがきっかけで写真を撮り始めた。その作品は、同じ横須賀でも異なる地区を撮っている。「写真を撮り始めた時、ほかの写真家が顧みない場所を撮ろうと思ったのです。あの人たちは米軍基地周辺にしか興味がなくて、私はほかの地区を見たかった」

しかし「ほかの地区」に行く石内に対して、家族はおおいに心配した。

「危険な地区がいくつかあって、特定の通りは歩けなかった。若い女の子がよく襲われていたから。誰かから禁止されたわけじゃないけれど、行ってはいけないと本能的に感じていました。カメラでその怖さを捉えたいと思った。初めてその場所に行った時は写真を撮ることすら恐ろしく、カメラを手に持ったら危険だと感じました。自分はどこにでも行けるわけじゃないってわかった。でも、それがなぜなのか、誰も説明してくれなかった。森山大道は写真を撮れるのに、女性の私にはそれが許されていない。私の写真は、撮ってもいいよと自分で自分に許した女性の写真。それゆえに男性の写真家の視点とは違う。自分の中の何かを修復するために、女性としてあの場所であの写真を撮らなくてはならないと感じました。横須賀で暮らしたことは、私に大きな影響を与えたのです」

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1990 年代以降、石内は時間の経過の物理的な痕跡を捉えようとしている。『Mother's 2000-2005 未来の刻印』では亡くなる直前の母親を撮影し、傷跡や衣服、オブジェを撮ることで、亡き母を偲んでいる。

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悟ったこと

社会的に禁じられた場所にあえて行くことによって、彼女はふたつの自分があることを悟った。ひとつは仕事、もうひとつはジェンダーからくる自分だ。

「自分が何に縛られているのかを理解しました。生まれて初めて海を見たのは横須賀で、写真を撮りたかったけれど、それは許されませんでした。というのも、海岸や海はアメリカ人が占領していて、写真撮影は禁止されていたから。暗黙の禁止がある地区を歩くようになり、多くのことを悟りました。この場所が自分にとってことさら危険なのは、女性だから。それをすぐに実感しました。女性であることが自分に何をもたらし、どんな立場に置かれ、他人からどんな視線を向けられるのか。こうして私は女性であることの意味を深く理解したのです。この仕事を通じて自分がどこにいるのか、どこから来てどこに向かうべきかがわかりました。人生を前進させるためにはなんとしてでもこの街を歩き回り、記録して自分のものにしなくてはならなかった。ある意味、この街と決別するために」

創造のパッション

写真を撮り始めた頃、彼女は30歳を前にしていた。

「その頃は時間を持て余していて、ペンタックスの露出計もついていないカメラで撮り始めました。カメラは単純な機械だった。家の空いている部屋を暗室にして、そこで現像するようになったのは、自分で撮って自分で現像することがとても大切だと感じたから。日中は深く考えずに写真を撮り、夜になると現像しながら自分が撮ったものについて考えました。撮ったものを見返して自分の考えに取り入れ、自分が何を求めていたかを振り返って理解することが重要でした。まったくの素人として、現像の過程で現れてくる粒子や化学薬品で浮かび上がってくるイメージに夢中になりました。学んでいた染織と同じだと思った。印画紙は服の素材である布を連想させます。気付いたのは、染色も写真もともに色の固定だということ。そしてどちらの過程でも使われている酸が同じだったんです」

すべての作業をひとりでやり抜くことは、石内のやり方の基本のようだ。石内にとって、暗室に入るというのは別世界にアクセスすること。使用する化学物質や、イメージが浮かび上がってくる時のワクワク感に彼女は酔いしれた。同時に、写真の質感にじっくり取り組む機会でもあった。作業の大半は、撮影された写真のコントラストを調整し、トーンを強調し、印象を変えることに費やされた。絶対に"欲しい黒"を得るために非常に長い時間をかけることも必要だった。この過程はなくてはならないものであり、作品と向き合う孤独な時間が石内を支えている。

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石内の家は彼女の個性が発揮され、バロックな世界が広がる。彼女が愛するものと過去の記憶、ロバート・フランクとのポラロイドなどがあふれている。

作風の方向性

当時、日本のフォトグラファーはコントラストを強調し、暗闇を際立たせて自分の世界を表現しようとしていた。石内は先駆者として川田喜久治の名前と、彼の写真集『地図』を挙げた。それは原爆が炸裂した場所や敗戦した日本の象徴的なものを撮った写真集で、コントラストが強調され、黒が際立つ。石内の作品は、彼女よりも数年先輩で同人誌「プロヴォーク」に参加していた写真家たちの作品も想起させる。彼らのモノクロ写真は「アレ、ブレ、ボケ」、そして暴力性も盛りこみ、日本社会の一面を捉えていた。たとえば、中平卓馬の写真は、石内の作品と呼応している。関係性について尋ねると、石内はひときわ大きな笑顔を見せた。

「彼のことはよく知っているわ。だって私の友人と付き合っていたもの!」

石内が街の雰囲気をじっくり捉えて撮った横須賀の写真はすぐに注目された。70年代末に自費出版した写真集はあっという間に売り切れ、いまでは各地の美術館の収蔵品となっている。これがきっかけで写真家としての道が拓けたものの、ひとりで仕事をするスタイルは変わらず、商業写真もほとんど撮らなかった。ほかの日本人写真家とは異なり、雑誌の仕事もしていない。代表作のひとつに写真集『Motherʼs』がある。言うなれば「母の所有物」ということだ。2000年、彼女は84歳でがんと診断され、ほどなく亡くなった母親の遺品を撮影し始めた。口紅、洋服、靴などを通じて身体やものそのものにおける時間の経過を捉えた作品は、05年のヴェネツィア・ビエンナーレで日本を代表して出品され、いまや世界の主要美術館で展示されている。彼女はさらに、広島の原爆の痕跡にも取り組んだ。

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資料室には資料、書籍、写真を収蔵。中にはシンディ・シャーマンと石内の写真もある。40年以上にわたって活動を続けてきたアーティストの人生を物語っている。

独自の世界観

石内の家の本棚は彼女の愛読書や雑多なお気に入りであふれている。石内が妙に気に入っている小さなワニのコレクション、大好きなデヴィッド・ボウイの写真、彼女の写真集のテーマとなったフリーダ・カーロにまつわるものなどだ。整理されているのにものであふれている石内の世界は、ひとつの人生では足りないほどのアイデアと創造性に満ちている。ただ確かなことは、石内がひとりでやることにこだわり、完全に自由で非常に精緻な作品を創り上げたことだ。自分の身の回りにあるものを撮っていじることで、日常に潜む不穏な異質性を捉え、理解しようとしたのだ。

取材当日、石内は巻き寿司と握り寿司を作ってこちらを歓迎してくれた。丁寧に盛り付けられた寿司が、彼女の写真の中で影が現実にきっちりと緻密に食い込む様を想起させた。

その後、彼女の作品を扱う大阪のギャラリーで最近の彼女の作品を見た。それは美術館に保管されていたが、台風による浸水の被害を受けたオリジナルプリントを彼女が再撮影したものだった。荒々しく不穏なのにもかかわらず、石内の眼差しによって傷んだ写真が甦り、過去と現在、美しい何かを取り戻したかのようだった。その何かは、彼女の中に、そして彼女の眼差しの中にひっそりと存在しているものだ。

『石内都 STEP THROUGH TIME』
石内都の個展が12 月中旬まで開催中。『APARTMENT』(1977-78年)、『Mother's』(2000-2005年)、『ひろしま』(2007年-)など代表的なシリーズから、近作の『From Kiryu』(2018年-)まで、数多くの作品を展示。4層にわたり小さな展示室が連なる美術館の特性を生かし、石内が向き合ってきた「時間」をともに旅するような構成になっている。
会期:開催中~12/15
大川美術館(群馬県) 
0277-46-3300
営)10:00~16:30 最終入場 
休)月、9/24、10/15、11/5
※9/23、10/14、11/4は開館
料)一般¥1,000
http://okawamuseum.jp/
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石内 都
Ishiuchi Miyako

1947年、群馬県桐生市生まれ。6歳から神奈川県横須賀市で育つ。多摩美術大学を中退。79年に『Apartment』で女性写真家として初めて第4回木村伊兵衛写真賞を受賞。2000年に亡くなった母の遺品を撮影した『Mother's2000-2005 未来の刻印』でヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表に。「石内都」という名は、母の結婚前の名前から。被爆者の遺品を被写体とした『ひろしま』で国際的に評価され、2014年ハッセルブラッド国際写真賞を受賞。

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photography: Yasuyuki Takagi (Madame Figaro) text: Joseph Ghosn(Madame Figaro)

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