ケネディ家の暗い伝説......運命に翻弄された一族の11人とは?
Celebrity 2025.12.30

ケネディ家の呪い?
数十年にわたり、ケネディ家には災いが降りかかってきた。突然の死、事故、病気......この有名な一族は、成功の代償として死と契約を交わしているかのようだ。

左から、テッド、ジーン、ロバート、パトリシア、ユーニス、キャスリーン、ローズマリー、ジョン・F・ケネディ、母ローズ、そして家長ジョセフ。ロンドン、1937年。
photography: Keystone / Getty Images

キャスリーン・ケネディ、ロンドン、1939年2月14日。
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バージニア、1963年11月25日。
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ジョン・F・ケネディを囲んだ家族のポートレート。1960年11月9日、マサチューセッツ州ハイアニス・ポート。
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ローズ・ケネディと娘ローズマリー、1938年。
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ジョン・F・ケネディ・ジュニアと妹キャロライン、ニューヨーク、1998年10月5日。
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ジョン・F・ケネディ・ジュニアとキャロリン・ベセット・ケネディ、ボストン、1999年5月。
photography: Justin Ide/Boston Herald / Getty Images

キャロライン・ケネディとタチアナ・シュロスバーグ、2010年5月17日。
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タチアナ・シュロスバーグとキャロライン・ケネディ、ニューヨーク、2009年5月。
photography: Splash News/ABACA









末期の白血病と診断された35歳のジョン・F・ケネディの孫娘、タチアナ・シュロスバーグは、11月22日に余命が1年しかないことを公表した。この悲劇は、ケネディ家にまつわる呪いのうわさを再び呼び起こすものとなった。
「死が目前に迫ると、少なくとも私のささやかな経験から言えば、これまでのあらゆる記憶が押し寄せてくる。」タチアナが「ザ・ニューヨーカー」誌に寄稿した「私の血との戦い」という論説で述べたこの言葉は、読んだ人々の心に深く響いた。35歳の若い母親でもある彼女は、2024年5月に第2子を出産後、急性骨髄性白血病(AML)と診断され、最終的には治療が不可能な状態であることを明かした。キャロライン・ケネディの娘であり、ジョン・F・ケネディの孫娘でもある彼女は、いま、残された時間を限りなく意識しながら過ごしている。余命はわずか1年だ。
環境ジャーナリストである彼女は、海についての希望に満ちた本を出版しようとしていた。そして数か月前までは「プールで1.5キロ泳いでいた」という。そんな彼女も、いまではその崩壊をただ見つめるしかない。「もしかすると、私の脳が自分の人生を繰り返し再生しているのは、末期の診断を受けて、これらの思い出がすべて消えてしまうからかもしれない。あるいは、もう新しい思い出を作る時間がほとんど残されておらず、心の奥の一部が過ぎ去った時間の中で何かを探しているのかもしれない」と、彼女は幼いふたりの子どもたちと夫ジョージについても触れている。「診断を受けたときに最初に思ったのは、こんなことが私や家族に起こるはずがないということだった」とも語る。しかし実際には、運命は長い間、彼女の先祖たちを苦しめてきた。いまや彼女は、その「呪われた一族」、いわゆる「ケネディ家の呪い」の継承者なのである。
JFKの暗殺、死への行列
62年前、祖父ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(JFK)の暗殺は、歴史上最も大きく報道された悲劇のひとつとなった。1963年11月22日、当時第35代アメリカ合衆国大統領だったJFKは、テキサス州ダラスを公式訪問していた。正午頃、彼はディーリー・プラザで大統領パレードを行うことを決め、人々がその周りに群がった。オープンカーのリムジンに乗った民主党員の彼は、黒いスーツに身を包み、笑顔で支持者に手を振った。政権を握ってからすでに2年、前任者ドワイト・D・アイゼンハワーの共和党政治を葬る決意を固めていた。妻ジャクリーンと共に、彼は穏やかに車の揺れに身を任せていた。車が動き出すと、数発の銃声が鳴り響いた。最初の弾丸は彼の首に命中した。彼は妻の方に身を乗り出したが、その時、頭に2発目の銃弾を受けた。血まみれのピンクのスーツに身を包み、パニックに陥ったジャッキーの姿は、永遠に私たちの心に刻まれた。11月22日、リー・ハーヴェイ・オズワルドという男がビルの屋上に立ち、JFKを殺害したのである。
大統領選挙運動の途中で亡くなったボビー
ジャクリーン(ジャッキー、本名ジャクリーン・リー・ブーヴィエ)は、1994年に64歳でがんにより亡くなるまで、夫の暗殺から立ち直ることはなかった。大統領の弟ロバート・フランシス・ケネディ(通称ボビー)も同様である。ここに、ケネディ家の呪いという噂の根が生まれることになる。なぜなら、わずか5年後の1968年6月6日、ボビーもロサンゼルスで暗殺されるからだ。かつてホワイトハウスの顧問として兄に助言をしていた彼は、その時上院議員であり、次の大統領選挙に出馬することを望んでいた。その日、ボビーは公の演説のためアンバサダー・ホテルを訪れ、パントリー(食料保管室)から出たところを、アメリカ在住のヨルダン人24歳、サーハン・サーハンに待ち伏せされる。サーハンはボビーに8発の銃弾を浴びせ、イスラエル・パレスチナ紛争におけるパレスチナ側の大義の名のもとにこの殺害を行った。この事件は今日に至るまで語られる悲劇である。ジャッキーにとってまたひとつの悲劇となり、クレメンス・デビッド ハイマンの著書『Bobby and Jackie: A Love Story』によれば、夫の死後、ジャッキーは義理の弟の存在に支えられていたという。
ジョセフ・パトリック・ケネディ・ジュニア、「アフロディーテ作戦」
JFKとボビーだけが悲劇的な最期を遂げた家族ではなかった。ケネディ家の暗い伝説はダラスやロサンゼルスで始まったのではなく、そのルーツは遥か昔に遡る。すべては20世紀初頭、アイルランド移民の娘ローズ・フィッツジェラルドの夫ジョセフ・パトリック・ケネディが、ボストンの裕福な郊外ブルックラインに定住したことから始まった。夫妻には9人の子どもがいた。ジョセフ・ジュニア、ジョン(後のJFK)、ローズマリー、キャスリーン、ユーニス、パトリシア、ロバート(ボビー)、ジーン、そしてテッドとして知られるエドワードだ。厳しい教育と成功への強い執念によって、強く、骨太に鍛えられた一族だった。最初の悲劇は長男ジョセフ・ジュニアの死で訪れる。1944年8月12日、29歳で海軍のパイロットとして最も危険な作戦に参加していた彼に、死神は襲いかかる。その日、ジョセフ・ジュニアはイギリスでの秘密爆撃任務「アフロディーテ作戦」において、搭乗中の飛行機の事故により命を落としたのである。
キャスリーン・ケネディ・キャヴェンディッシュ、自立したジャーナリスト

1944年1月、自転車に乗るキャスリーン・アグネス・ケネディ。photography: Horace Abrahams / Getty Images
4年後、ケネディ家の4番目の子ども、キャスリーン・アグネス・ケネディが飛行機事故で命を落とす番となる。父親のお気に入りだったとも言われる彼女は、聡明で活発、スポーツも得意な若い女性で、ジャーナリストとしても活躍していた。家族と同じく民主党支持者であり、第二次世界大戦中はロンドンで赤十字に従事していた。1948年5月13日、長兄ジョセフ・ジュニアの死から2年、そして夫であるハーティントン侯ウィリアム・キャヴェンディッシュの死からも2年が経った時、若き未亡人キャスリーンは恋人ピーター・フィッツウィリアムと共にプライベート機に搭乗する。しかしその飛行機は南フランスのアルデッシュ県サン=ボジル近くで墜落し、彼女は28歳の若さで命を落とした。
ローズマリー・ケネディ、ロボトミー手術の失敗
JFKの妹、ローズマリー・ケネディは2005年に86歳で亡くなったが、その生涯は悲惨な運命に彩られていた。1918年に知的障害を抱えて生まれたローズマリーは、成長するにつれて「生き生きとした輝く喜びに満ちた少女」となったと、ケイト・クリフォード・ラーソンは著書『l'enfant que l'on cachait』(Les Arènes刊、2015年)で記している。困難を抱えながらも、彼女はモンテッソーリ学校を卒業する。しかし母ローズの回想録『A Moment in Time』によれば、ローズマリーは不安による発作や暴力衝動、家出のエピソードに悩まされていたという。またこの頃、同年代の男性とも付き合いを始めていた。1941年11月、両親ジョセフとローズは、ローズマリーにロボトミー手術を受けさせる決断を下す。23歳で手術を受けた彼女。2023年にArteで放送されたドキュメンタリー番組「Les Kennedy, une fratrie américaine(アメリカの一族、ケネディ家)」でジャーナリストのロナルド・ケスラーはこう語る。「ワッツ医師は手術の手順を説明しました。バターナイフのようなメスでローズマリーの頭蓋を開き、中を探りながらアメリカ国歌を歌わせました。そして、歌えなくなったところで手術を終えたのです。」この手術によって、ローズマリーの知能は非常に幼い子どもと同程度となり、その後はウィスコンシン州の専門施設で生涯を過ごすことになった。
パトリック・ブーヴィエ・ケネディ、生から死へ
JFKとジャッキーの子どもたち、いわゆる第二世代も悲劇から免れなかった。1963年、ジョン・F・ケネディが暗殺された時、彼は自分の子どもを亡くしてからわずか3か月しか経っていなかった。同年8月7日、ジャッキー・ケネディはマサチューセッツ州オーティス空軍基地病院に緊急搬送され、パトリック・ブーヴィエ・ケネディを早産で出産することとなる。キャロライン、ジョン・F・ケネディ・ジュニア、そして1956年に生まれた最初の娘アラベラ(死産)に続く4人目の子どもであるパトリックは、新生児呼吸窮迫症候群を患っていた。生後わずか39時間で息を引き取り、あまりの悲しみのため、ファーストレディであったジャッキーは葬儀に参列できなかった。
ジョン・F・ケネディ・ジュニアと妻キャロリン、操縦ミスによる悲劇
一方で、ケネディ家の他の兄弟姉妹、キャロラインとジョン・ジュニアは、しばらくの間、騒動から距離を置いて生活していた。1990年代初頭、ジョン・ジュニアことジョン・F・ケネディ・ジュニアは、妻キャロリン・ベセットとともに、アメリカで最も注目されるカップルの一組となっていた。ふたりにはすべてがあった。富、若さ、そして美貌である。カナダのオンライン新聞『La Presse』の記事によると、『Carolyn et John』の著書ステファニー・デ・オールは、JFKの息子を「アメリカに愛された小さな王子様」と表現している。

1995年、ジョン・F・ケネディ・ジュニアとキャロリン。photography: Ron Galella / Ron Galella Collection via Getty
しかし、1999年7月16日、再び悲劇が襲う。その日、ジョン・F・ケネディ・ジュニアとキャロリンは、マサチューセッツ州マーサズ・ヴィニヤード島に向かい、いとこのローリー・ケネディ(故ボビー・ケネディとエセルの娘)の結婚式に出席する予定だった。当時、ジョン・ジュニアは飛行訓練を受けていたが、自分の新しい飛行機パイパー・サラトガを単独で操縦したことはまだなかった。「その夜は霧が出て視界が悪く、空港では離陸しないよう、あるいは離陸する場合は海岸線沿いを飛ぶように助言された」と、ステファニー・デ・オールは『La Presse』で語っている。しかし飛行機は予定の軌道を外れ、大西洋に墜落した。ジョン・F・ケネディ・ジュニアは38歳、キャロリン・ベセットは33歳だった。
マイケル・ルモイン・ケネディ、アスペンでのフットボール

1978年、20歳のマイケル・ルモイン。photography: WWD / Penske Media via Getty Images
ケネディ家の呪いは、ボビー・ケネディの子どもたちにも容赦なく襲いかかった。ジョン・ジュニアの死の2年前にあたる1997年、ボビーとエセル・ケネディの11人の子どものうち6番目のマイケル・ルモインが命を落とす。1997年12月31日、クリスマスの喧騒が続く中、彼はコロラド州アスペンへ向かう。スキー休暇中によくやっていたように、彼はヘルメットもかぶらずに、スキーをしながらフットボールをしていた。猛スピードで滑走していた彼は木に激突し、即死した。マイケル・ルモイン・ケネディは39歳だった。
シアーシャ・ケネディ・ヒル、薬物の過剰摂取による死

シアーシャ・ケネディ・ヒル、2009年。photography: Rick Friedman / Corbis via Getty Images
15年以上も比較的平穏な日々が続いた後、2019年8月1日、再び死が訪れた。1997年生まれのシアーシャ・ケネディ・ヒルの訃報だ。彼女の叔父マイケル・ルモイン・ケネディが亡くなったのと同じ年である。彼女はボビーの5番目の兄弟姉妹であるコートニー・ケネディの娘だ。10代の頃、性的暴行の被害に遭い、そのトラウマから深い鬱病と薬物乱用に陥り、何度も自殺未遂を起こしたと報じられている。2019年の夏、ブロンドの髪に青い目をしたこの若い女性は、マサチューセッツ州ハイアニス・ポートにあるケネディ家のケープコッド邸宅に住んでいた。そこで遺体で発見され、捜査の結果、薬物の過剰摂取による死と結論付けられた。
メイヴ・ケネディ・マッキーン、ケネディ家の失踪者

2018年6月、メイヴ・ケネディ・マッキーン。photography: Tom Williams / CQ-Roll Call, Inc via Getty Imag
それから1年も経たない2020年4月2日、ボビーの孫娘であり、JFKの姪にあたるメイヴ・ケネディ・マッキーン(40歳)が、ワシントンD.C.近郊のチェサピーク湾でカヌー旅行中に行方不明になった。8歳の息子ギデオンも同行していた。メリーランド州当局によると、彼女は水中に落ちたキックボールを回収するために小型ボートを出航したが、日が暮れても戻ってこなかったという。4日間にわたる徹底的な捜索の後、ダイバーと救助隊のチームが湾内で彼女と息子の遺体を発見した。いずれも死亡が確認された。捜査の結果、事故と結論付けられた。
ケネディ家では、死がまるでいつもそばにいる不吉な友のようになってしまったかのようだ。時には突然襲いかかり、時には静かに忍び寄る。その象徴が、タチアナ・シュロスバーグの白血病とやがて訪れであろう彼女の死の知らせである。
From madameFIGARO.fr
text: Léa Mabilon (madame.lefigaro.fr) translation: Hanae Yamaguchi





