アズディン・アライア、改めてその魅力に迫る。

Fashion 2017.12.12

azzedine-alaia-est-mort.jpg

1980年代を彩った彫刻的なドレスで一世を風靡した、チュニジア系フランス人クチュリエ、アズディン・アライアが77歳で亡くなった。

突飛でもなく、挑発的でもなく、モード産業の独裁を無視し、公式カレンダー外でショーを行い、インタビューに応じず、販売促進や広告に決して関心を示さなかった……。

アズディン・アライアは、その彫刻的なドレスにおいても、仕事の流儀においても、時代を超越することを信条とした。時代が変わっても、女性の身体のラインを賛美することを優先し、シーズンごとのトレンドには決して従わなかった。アライアは、マドレーヌ・ヴィオネからクリストバル・バレンシアガに至るクチュリエの世代や、現代ではコム デ ギャルソンの川久保玲と同様、仕事のクオリティや集中力を何より大事にしていた。

彼のモットーは、独立と希少性。「ドレスやジャケットをつくり始めて、10年後に完成させるような気がすることもある。シーズンやショーの表面的なリズムに反対することで、僕は、採算性のためにクリエイションを軽視するカレンダーと決別した数少ない人間のひとりになった」と2013年5月、ガリエラ宮パリ市立モード美術館での回顧展の数カ月前に語っている。すべてがこの言葉に表現されていた。

ソーシャル・ネットワークのメッセージより

わが友アズディン・アライア、クチュールの「星の王子様」、さようなら。クロード・モンタナ(ファッションデザイナー)

 

Azzedine. Tristesse pleurs cœur Mes premiers émois de mode, ma première rencontre à 15 ans. #inclassable #master

Alexandra Golovanoffさん(@alexandragolovanoff)がシェアした投稿 -

ジャーナリストのアレクサンドラ・ゴロヴァノフのインスタグラムより

イネスが語る「アズディン・アライアはアーティストだった」

≫親交の深かったジュリアンによる想い。

---page---

「アズディン・アライアはまるで時を追いかけるように働く」
ジュリアン・シュナーベル/画家・映画監督

ジュリアン・シュナーベルの寄稿より。
「訃報の2週間前、「マダム・フィガロ」のために、名写真家パオロ・ロベルシと画家で映画監督のジュリアン・シュナーベル、きらめくトップモデルのマリアカルラ・ボスコーノ、そして有名スタイリストのカリーヌ・セール・ド・デュゼルが顔を合わせた。そして、比類なきクチュリエ、アズディン・アライアのノウハウに敬意を表する、特別モード撮影が行なわれた。

「最初の妻のジャクリーンが、世界最大のデザイナーの仕事を見つけたわ、と言ってきたのはいまから35年前のことだった。その後しばらくしてパリを訪れた私たちは、当時7区のベルシャス通りにあったアズディンのブティックを訪問した。妻はミンクの1点を選び、私は服と作品を交換しようと提案した。アズディンはこの時イタリアにいた。私たちは彼に電話をかけ、彼はこの申し出を了解した。私が、自分の作品は高価だと言うと、アズディンは、店で気に入ったものをみんな持っていくように、と答えた

我々の間で、金額が数えられたことはなかった

しばらくして、アズディンがニューヨークにやってきた。私はフランス語を一言も話せないし、彼も英語がわからない。それでも互いに浸透現象で意思が通じ合った。いまもこの方法でやっている。なにしろ彼は英語が話せないと言い張っているから……。ふたりで私のベントレー1955に乗って街を一回りした。私が話し、彼が聞く。

ジョージ・ワシントン橋からハーレムまで行き、次にFDRドライブでマンハッタンのウェストサイドに向かった。私は彼に作品を選んでもらおうと、自分の仕事を見せた。彼が目にとめたのは、プレキシグラスに描いた絵画。とたんに目が輝き「これにするよ!」と。
我々の間では、彼も私も、金額を数えたことはなかった。私が描いた彼のポートレートは3枚。そのうち2枚を彼が所有。いまでも、3枚目を売ってしまったと非難されている。当時、彼がニューヨークに開いた店のコンセプトは私が手がけた。パリの店では、ラックやテーブル、ショーウィンドウを私が手がけている。ある日、パリを歩いていて、タチの店(18区バルベス地区にある大型小売店)と格子柄の日除けストールに行き当たった。私の絵の1枚と引き換えに、タチはブランドイメージであるピンクと白のギンガムチェックを少し分けてくれることになった。そしてアズディンがタチのためにエスパドリーユとバッグをデザインすると約束した。布地を使って彼は素晴らしい服をつくり、ナオミ・キャンベルがそれ着て、ピーター・リンドバーグやブルース・ウェーバーといった有名写真家が写真を撮った。
アズディンは自分の仕事のあらゆる面に独創性を発揮したものだから、私もタチのプロジェクトを彼と一緒に遂行することになった。彼の仕事はアートとモードの間に位置するもの。 マティスやカラヴァッジオの隣に並んでもいいほどのレベルなのだ。

アズディンについては「モード」という言葉を使いたくない。彼がコンセプトするものは非常に精巧で独創性に満ちたオブジェであり、驚きという要素も加わっている。時に、素晴らしい絵画の前で立ち止まり、アーティストはどんな風にこれを作り上げたのだろうと考えてしまうことがある。アズディンの仕事には、まったく同じことがいえる。今日、ほかの誰かが彼のレベルに到達できるとは思えない。彼の独自のアプローチは何十人にもにコピーされている。アズディンは、実にたくさんの新領域を開拓したのだから! たくさんのデザイナーが、彼に多くのものを負っているのだ。彼は自分のアイディアに忠実で、彼にやるべきことを進言する人間など誰もいなかった。みんな、この一徹さを評価していたと思う」

alaia-couturier-supreme-photo-11.jpg

ウールのジャケットとミニスカート、ニットのボディ、革のベルト:Azzedine Alaïa Coutureネフェルティティ帽:Julien D’Ys、メーク:Linda Cantello Photo :Paolo Roversi

アズディン・アライアよ、永遠に。

≫公明正大さと真実性を愛する姿勢

---page---

「アズディンは寛大な人」

「年月を経るに従い、アズディンは私の家族になった。彼の周囲には、その寛容な精神と温かさに感じ入る友人たちの大きなサークルができた。ともに働く人たちはみんな彼が大好き。代わりに、彼はみんなに愛と援助を惜しみなく与える。彼の公明正大さと真実性を愛する人々が、アズディンという中核に、まるで重力にひかれる衛星のように集まってくる。

アズディンは寛大なひと。私の3人の息子の名付け親だ。彼は自分の情熱や好奇心、才能を家族である私たちや、自分の作る服に感動する人たちと分け合うのが好きなのだ。パリに来ると、私は彼の家に滞在する。マレ地区の真ん中にある彼のアトリエで、ずいぶんたくさんの絵を描いた。

alaia-couturier-supreme-photo-12.jpg

ジャカードニットのドレス、革のベルト:Azzedine Alaïa Couture
ネフェルティティ帽:Julien D’Ys、メーク:Linda Cantello
Photo :Paolo Roversi

アズディンはほとんど眠らない。時には、まったく眠らないこともある。彼はまるで時を追いかけるように働く。ドレス、コート、スカート、女性が服として身につけられる根本的な要素になりうるすべてのものの可能な限りのバージョンを生み出そうとして。それをしながら、彼は正確に、愛情をこめて、美を生み出す手段を見つけだす。彼は疲れを知らぬ友愛の人。いつも側にいて、いつでも手を差し伸べてくれる。

時に、 彼は脆く見えるが、同時にとても強い 。寛容で、愛すべき人。誰とでも気が合うけれど、とても厳しくなることもある。乱暴にアプローチしてくる人の言いなりにさせなかった現場を見たことがある。彼の身体は小さいかもしれないが、その心は広大だ。一緒にたくさんの旅行をした。彼はストリートのエネルギーの流れに身を置き、さまざまな文化に調子を合わせる。

私には、なぜ人が誰かに恋してしまうのかわからない。私たちが、自分たちなりの規則に従って生きるという共通項を持っているからだろうか?
私の人生は、彼のおかげで100倍もいいものになり、彼のおかげでさらに美しさを増していく。決してつくり話ではない。彼は献身的で寛容な友人だった。ムッシュー・アライアについてそう感じるのは、私ひとりではないはずだ」

madame.lefigaro.fr(フランス)より転載

texte : La rédaction(madame.lefigaro.fr)

Share:
  • Twitter
  • Facebook
  • Pinterest

いいモノ語り
いいモノ語り
パリシティガイド
Business with Attitude
フィガロワインクラブ
BRAND SPECIAL
Ranking
Find More Stories