アール・デコ展から100年、父ルネの影から姿を顕すシュザンヌ・ラリック。

19世紀から20世紀前半、男性優位のパリにあって我が道を歩んだ女性たちがいた。自分の意思を貫き自由に生きたパリの女たちに焦点を当てる連載「知られざるパリの女たち、その生き方」。第7回目に登場するのは、ルネ・ラリックの長女シュザンヌ・ラリック=アビランド(1892年5月4日~1989年4月16日)である。

スザンヌと表記されることが多いけれど、本記事ではフランス語読みのシュザンヌで進めよう。ルネの子供としては父の跡を1945年に継ぎガラスからクリスタルのメゾンへとラリックを進化させたマルク・ラリック(1900~1977年)が世間の知るところだが、彼には2歳上の姉がいた。それがシュザンヌ。アール・デコ展と後に呼ばれることになる現代装飾美術・産業美術国際博覧会の100周年を祝う今年、アール・デコ・スタイルの豪華客船や列車の装飾を父とともに手がけていたことから、彼女の名前がやっと語られるようになってきた。フランスの装飾芸術を語るとき、様々な分野で活躍した彼女は忘れられてしまうには惜しい存在である。

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Suzanne Lalique-Haviland(シュザンヌ・ラリック=アビランド/1892〜1989年)。1947年、舞台装飾部門のディレクターだったコメディー・フランセーズにて。©René-Jacques/BHVP/Roger-Viollet/amanaimages


ルネ・ラリックとオーギュスティーヌ=アリス・ルドリュとの間に1892年に生まれたシュザンヌ。アリスがルネと正式に結婚する前のことだったので、出生届ではシュザンヌ・ルドリュである。彼女が生まれたのはルネがジュエリーからガラス工芸へと移行の時期で、パリ1区のテレーズ通りの家には窯が備えられていた。アリスの父オーギュスト・ルドリュはロダンとも親交があった彫刻家で、シュザンヌは芸術家の血を両親二人から引き継いだといっていいだろう。

1902年にアリスとルネは入籍する。この年にルネはパリ8区のクール・ラ・レーヌ(クール・アルベール・プルミエ)42番地に個人邸宅を建て、ここが家族4人の住まいとなった。暮らしの場だけではなくラリック社の品の販売も行うショールームも設けられ、この邸宅を舞台に夫妻は舞踏会など多数の社交イベントを催している。それに集まる当時の芸術界の著名人たちと、子どものシュザンヌはごく自然に知己を得ることになるのだ。

アール・デコ期、シュザンヌの感覚を信頼する父とともに仕事を

絵を描くのが好きな子どもで、その才能は父も認めるところだった。幸運なことに一家が暮らす家はラリック社の商品を販売もし、またデザイン・アトリエも擁していたので彼女はそこに気軽に出入りし、デザイナーたちに接することができたのだ。コティの香水ボトルのデザインをルネが手がけていたのは有名だが、カラフルで繊細にパフが描かれたコティのパウダーボックスのモチーフは1910年に、実は17歳だったシュザンヌが描いたものなのだ。これが彼女の仕事として認められている最初の品である。それまでルネ・ラリックを仕事面でも支えていた妻アリスが1909年に他界したことにより、デッサンを彼女に見せて意見を求めるなど、娘のシュザンヌを父は頼るようになっていた。10年後にもコティのボックスの仕事を彼は娘に依頼している。芸術的環境に生まれ育った彼女は、学校で学ぶことなく両親や、またラリック社のデッサン担当者たちと触れることによって美的感覚を研ぎ澄ませていったのだろう。

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シュザンヌのデッサンによるガラスの花瓶Tourbillons。ルネ・ラリックの時代、クリスタルではなく製品は全てガラスである。©Musée Lalique -Studio Y.Langlois

アルザスにあるラリック美術館を訪れてみよう。アール・ヌーヴォーのジュエリーやガラス製品などルネ・ラリックのクリエイションが多数展示されている。作品解説を読むと、1920年代の後半の花器には"シュザンヌ・ラリックのデッサンによる"と明記されているものがいくつかある。ラリックというと動植物など自然界からのモチーフを思い浮かべるが、彼女がもたらしたのはグラフィックだったり抽象的なモチーフだったり。中でもとりわけ大胆なデザインの花器は旋風を意味するTourbillon(トルビヨン)と命名されていて、この1926年生まれの花器はいまもガラスからクリスタルに素材を変えて製作されているように、時代を超越する傑作だ。

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シュザンヌのデッサンによるラリックの花瓶。左:「Penthièvres」 右:オレンジがモチーフの「Oranges」 ©Musée Lalique -Studio Y.Langlois

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左:「Lagamar」 右:「Sophora」©Musée Lalique -Studio Y.Langlois

1910年にはセーヴル陶製所のためのデッサン、1913年にはテキスタイル・デザインを手がけるなど、独学ではあるがシュザンヌは並外れた美的感覚を様々な分野で発揮。自宅のリビングルームのためにも、その才能を屏風やクッションのデザインで発揮する。例えば屏風は、1914年から1927年までの間に10点近く造ったという。自宅用だけでなく、鋭い審美眼の持ち主でアートコレクターとしても有名なクチュリエのジャック・ドゥーセからのオーダーもこの中に含まれている。

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2025年5月1日から11月2日までラリック美術館で開催された『ルネ・ラリック 建築家&装飾家』展で展示された、シュザンヌによる屏風とそのためのデッサン。photography: Mariko Omura

1925年に開催されたアール・デコ展の100周年を祝う今年、20〜30年代にリュクスな旅を約束した豪華客船と寝台列車にもスポットライトが当てられている。シュザンヌは父とともにこれらのプロジェクトに参加。始まりは第一次大戦後の1919年のトランス・アトランティック社の豪華客船Paris号の内装だ。父がガラス装飾なら、彼女が担当したのは椅子やカーテンのファブリック、そして陶器だった。その後は同社のイル・ドゥ・フランス号、ノルマンディー号でも。そして1929年に開通したパリとニースを結ぶコートダジュール・プルマン・エクスプレスのファーストクラスの車両でも、父と娘はデュオで活動した。ガラスペーストを埋め込んだ花のモチーフのパネルは彼女のデザインで、と二人が手に手を取り合ったクリエイションも行なっている。Transatlantic号では彼女はTのロゴもデザインし、それは食器にも描かれていた。ルネ・ラリックが1925年に手がけた裸体の女性をモチーフにしたガラスの小立像は「シュザンヌ」と題されている。この時期に父娘の間に築かれていた深い信頼関係がかいま見えるようだ。

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今年9月の文化遺産の日、オステルリッツ駅でイベント『Orient Express』が開催され、アール・デコ期のプルマン・オリエント・エクスプレス号の修復された車両内が一般公開された。パネルの花籠のモチーフ、ルネ・プルーがデザインした椅子を覆うファブリックのモチーフ、絨毯のモチーフがシュザンヌのデザインだ。photography: Mariko Omurra

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写真家と結婚

私生活に目を向けると、彼女は1917年に前衛写真家ポール・バーティ・アビランド(1880~1950年)と7区のアメリカン・チャーチで結婚している。彼は写真家アルフレッド・スティーグリッツとも親交が深く、スティーグリッツがニューヨークに設けた291ギャラリーにも関わっていた。リモージュの有名な磁器のメゾン、Haviland(アビランド)社のファミリーに生まれた彼は、パリ大学とハーヴァード大学を卒業後、アビランド社のアメリカ代理人として約10年間ニューヨークで生活。父の体調が優れないことからメゾンの後継者として1916年にパリに戻り、その年に写真家として被写体のシュザンヌと出会ったのだ。翌年、二人は結婚し、父ルネの希望もあって夫妻はクール・ラ・レーヌの家で暮らすようになる。1918年にアビランド社を去ったポールはカタログの撮影や会社の経営管理など、舅ルネ・ラリックのために働く。夫妻の間には1918年に長男ジャック、1923年長女ニコルが誕生。出産後シュザンヌは装飾芸術の世界で仕事を続ける。テキスタイルデザイン、絵画......。1930年代、夫ポールの従兄弟がリモージュに設けた磁器製造会社テオドール・アビランド社の食器のために色彩豊かで夢のあるモチーフを描き、才能を発揮した。

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シュザンヌのデザインによるラリック社のブルーのクープFlorabella(1930年・写真右)をカバーにした書籍『Suzanne Lalique Havilland Le Décor réinventé』(Les Ardent Editions刊)に添えられたブックマークの彼女の写真は、夫ポールが1920〜21年ごろにノルマンディー地方の海岸カブールで撮影したもので実に溌剌としている。

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アルザス地方のヴィンゲン・シュル・モデールにあるラリック美術館では驚くほど多数のシュザンヌの仕事を発見できる。左はテオドール・アビランド社のためににシュザンヌが1930年にデザインしたプレート。写真右の手前のネックレスEntrelacs(1914年)、後方の葉模様の花瓶(1926年)のどちらもシュザンヌのデッサンによる。photography: Mariko Omura

コメディ・フランセーズで舞台芸術に生きる

1937年、45歳の時にフランスが誇る国立劇場「コメディ・フランセーズ」の衣装と舞台装飾のチーフディレクター彼女は抜擢された。クール・ラ・レーヌの家に出入りしていて彼女とも親しかった作家が劇場の代表者に就任し、彼女を指名したのである。1971年まで続いたキャリアにおいて、50作品の舞台装飾とコスチュームを手がけたそうだ。2007年には、パリの装飾美術館属ニッシム・ド・カモンド美術館で『シュザンヌ・ラリックとステージ』展が開催された。彼女が舞台芸術に捧げた豊かな才能がここで初めて公開されたのだ。

80歳近くまで働き、彼女が亡くなったのは97歳の時。パリから約300km離れたYzeures-sur-Creuseに埋葬された。夫が父の会社を離れた時に購入した家があり、生前彼女はこことパリを行き来して暮らしていたのだ。思い出溢れる土地で、1950年に先立った夫とともに彼女は安らかに眠っている。

editing: Mariko Omura

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