1作目になるはずだった『007/サンダーボール作戦』と、ドン ペリニヨン。
『007』を観たおかげで酒、時計、ファッションアイテムに携わる編集者になったと言っても過言ではない編集YKが、今回再上映が決定した10作品を徹底レビュー! 今回は映画第4作となった『007 / サンダーボール作戦』と、007初期シリーズでボンドの愛飲していたドン ペリニヨンについて語ります。
『007/サンダーボール作戦』(イギリス公開1965年12月29日/日本公開65年12月9日)
原子爆弾2発を搭載したNATO空軍の爆撃機が訓練中に消息を断ち、その後犯罪組織スペクターから国連に、原爆と引き換えに1億ポンド相当のダイヤモンドを要求する脅迫メッセージが届く。英国秘密情報部=MI6は9人の00機関の諜報員全員を招集し、タイムリミットまでに原爆の発見を指示する「サンダーボール作戦」を発令する。
NATO空軍基地近くの保養所に出かけていた007=ジェームズ・ボンドは、爆撃機に搭乗予定だったNATO空軍少佐がそこで死亡していること、爆撃機に乗っていたのは整形手術を受けた彼の偽物であったことを察知し、手がかりとなる少佐の妹ドミノの滞在するバハマのナッソーへ飛ぶ。
美しいカリブ海で、ボンドはドミノ、そしてその後見人を名乗る眼帯の男、エミリオ・ラルゴと出会う。カリブ海の孤島を根城に、高速艇「ディスコ・ヴォランテ(=「空飛ぶ円盤」)」を乗り回すラルゴこそ、爆撃機奪取を指示したスペクターの幹部、No.2だった。
サメが泳ぐプール、カーニバルに紛れ込んだスペクターの刺客、どこまでも青く広いカリブ海の水底......刻々と迫る原爆発射までのタイムリミットの中、007は原爆発射を阻止できるのか?
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後続作品に多大な影響を与えた"偉大なるマンネリズム"の元祖
本作は複雑な権利関係の下で映像化された作品であり、経緯は拙稿『007 / ドクター・ノオ』に記載した。当初から映画化を意識された広大な世界観は、ややもすると突発的なシーンが散見されるものの、電気椅子で裏切り者を処刑するスペクターの秘密会議や、00の諜報員9人が一堂に会するミーティングシーンなど、その後のハリウッド映画の表現に影響を与えることになるシチュエーションを多く生み出した。
この映画が後続する007シリーズに与えた影響もかなり大きく、以降もシリーズでは大規模な水中撮影シーンが頻発する。『消されたライセンス』冒頭のアクション&結婚式はバハマが舞台、映画版『カジノ・ロワイヤル』ではダニエル・クレイグ扮するボンドが同地のワン&オンリーホテルへ調査に赴く。また『スペクター』では冒頭のシーンで巨大なカーニバルを登場させ、本作でも象徴的なボンドと敵の追跡劇をオマージュさせた。さらに映像化権をもつ共同脚本家ケヴィン・マクローリーは本作のリメイクを熱望し、1983年にはショーン・コネリーが主演で『ネバーセイ・ネバーアゲイン』が公開。ショーン・コネリーは晩年をバハマで過ごし、2020年に同地で90歳の生涯を終えた。
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007とドン ペリニヨン
本作で007はカジノで勝利すると、ドミノを伴ってレストランで「ベルーガのキャビアとドン ペリニヨン55年」を注文する。『007 / ドクター・ノオ』から『007 / 私を愛したスパイ』までほぼ全てのシリーズで登場するのがシャンパーニュのドン ペリニヨンだ。(唯一の例外が『ロシアより愛を込めて』)。
ドクター・ノオとの会話で「53年ものの方が上さ」と言ったり、映画『ゴールドフィガー』では「53年ものは摂氏3.5度以上で飲んではいけない」、ロジャー・ムーアが演じた『私を愛したスパイ』では「ドン ペリニヨンを好む者に悪い奴はいない」と語るなど、ドン ペリニヨンにまつわるセリフにはボンドのこだわりが込められたものが多い。原作小説では『ムーンレイカー』で、Mとともにロンドンのサロンに出かけた際にウェイターから「フランスではドルでしか売っていませんので、ロンドンではあまり見かけません。ニューヨークのリージェンシークラブからの贈り物かと思います」の言葉とともに、ドン ペリニヨンの1946年が登場。ボンドはこれをベンゼドリン(=軍用の覚醒剤)とともに飲んで「素晴らしい」と感じ入っている。
高度経済成長期とはいえ、現在ほど流通が豊かではなかった1960年代。原作の007シリーズに登場するテタンジェ、クリュッグ、ヴーヴ・クリコ、ボランジェ、ポメリーは世界の観客に知名度を得てはいなかったし、どこでも買える代物ではなかった。しかし「シャンパーニュの王」たるドン ペリニヨンはすでに映画の本場、アメリカで名を馳せていた。初期の007作品でドン ペリニヨンが毎度登場するのは、万人が認める高品質で最高級のシャンパーニュとしての存在感が理由だろう。
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1668年、シャンパーニュ地方の修道士だったドン・ピエール・ペリニヨンは、オーヴィレーヌ大修道院の醸造責任者に就任。彼の自筆のメモで「世界最高のシャンパーニュを造る」という決意表明が、いまも同社に残っている。瓶内での二次発酵に伴う急激な気圧の上昇に耐える厚いガラス瓶の導入、黒ブドウを使ってシャンパーニュを作る方法の確立、複数の畑から高品質な葡萄のみを集めて品質を安定させる製法など、現在も世界中で踏襲される革新的な技術革新を生み出した先駆者だ。
その思想は現在にまで引き継がれ、ドン ペリニヨンはブドウの作柄が良かった年のみにしか作られず、またスタンダードなラインでも最低8年の熟成を経てから出荷されるという品質の維持が徹底されている。「ワインギャラリー」オーナーの成田忠明氏によれば、「ドン ペリニヨンのマーケティング力は凄まじく、彼らがその年にリリースする味わいは、間違いなく少し未来の味の指標である」そうで、同社の目指す味わいがワインラバーの求める味わいを示している、と言っても過言ではなさそうだ。
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