現実の鏡でもある映画からの学び、そしてコロナ後の映画。

Culture 2020.04.18

多くの産業や芸術表現と同じく、映画界もまたコンテンツ作りの機会や表現の場を失っている。現実世界を鋭く反映する鏡でもある映画に学べること、そして映画界はこの未曾有の危機をどう描くのか――。映画評論家の森直人さんによる考察。


パニックはウイルスより深刻だ。暴動の引き金になってしまう。

――映画『コンテイジョン』、医学博士エリス・チーヴァーの台詞より。

私だってこれだけおカネがあったら優しくなれる。

――映画『パラサイト 半地下の家族』、キム一家の母親チュンスクの台詞より

あっという間に世界の様相が一変してしまった。2020年3月11日、新型コロナウイルスについて、WHO(世界保健機関)の事務局長がパンデミックとの見解を示してから、ハリウッドをはじめ世界中のスタジオで撮影がストップ。新作の公開延期や製作中止が相次ぎ、映画館は多くが封鎖。映画産業はほとんど一時的な仮死状態だ。去る2月9日、第92回アカデミー賞でポン・ジュノ監督による韓国映画『パラサイト 半地下の家族』(2019年)が主要4部門(作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞)を獲得したビッグニュースが、どこか遠い昔にも思える。

そんなコロナ禍の中で注目を集めているのが、9年も前に発表された『コンテイジョン』(2011年、監督:スティーブン・ソダーバーグ)だ。感染症の拡大を極めてリアルに描いた予見的傑作として、数々のストリーミングサービスで視聴数の最上位を記録。確かに本作をあらためて観ると、まるで我々がいま体験中の災禍を具体的な精度で先取ったシミュレーション・ドキュメンタリーのようで、戦慄させられる。

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『コンテイジョン』より。突然、原因不明の感染症で妻と継子を亡くした一般市民のミッチ(マット・デイモン)。自身に免疫があることが判り、パンデミックから娘の身を守ろうと日々努力を重ねる。photo : © Warner Bros/Everett Collection/amanaimages

だがちょっと意外だったのは、筆者は本作を再見することで、同時にどこか救いになるものを感じたのだ。それは監督のソダーバーグが徹底した現実考証にこだわって、フィクショナルな仕掛けを極力排し、そのなかでほんのわずかではあるが、未来への糸口を提示しているからだろう。

この映画にはハリウッド大作にありがちな、ご都合主義のヒーローが現れない。美談へのすり替えもない。まさか、と思われるような主要人物が途中で死ぬ。収束に向けての一定の目処がつく135日目までを淡々とつづるだけ。

もしコロナを「外敵」と見なし、地球上の人類がひとつに団結できたとしても、SF映画『インデペンデンス・デイ』(1996年、監督:ローランド・エメリッヒ)ばりのあっけらかんとした「勝利」が訪れるほど、現実が甘くないことは誰もが了解しているだろう。実際に起こることは『コンテイジョン』が示唆したように略奪、暴動、差別の助長かもしれない。経済活動の混乱と崩落により、さらなる格差と分断が我々を待っているかもしれない。

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『コンテイジョン』より。多数のブログ読者を持つフリー記者のアラン(ジュード・ロウ)は政府や医療関係者を批判しつつ、怪しげな治療法を流布していくphoto : © Warner Bros/Everett Collection/amanaimages

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まさに格差と分断を主題にした『パラサイト 半地下の家族』(劇場公開情報はこちら)では、貧富の階層を住宅立地の高低という縦の構造として可視化している。上層と下層の交流や逆転は困難で、半地下に住む弱い者は、さらに弱い者を叩く。こちらはフィクションならではの仕掛けを存分に施した一種の寓話仕立てだが、容赦ない現実を生き延びていくため、ぎりぎりの希望を探っていることでは、やはり『コンテイジョン』と同じだ。

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『パラサイト 半地下の家族』より。半地下住宅に住む貧しいキム一家。全員失業中だった彼らは、詐欺まがいの手を使って高台にあるパク一家の豪邸に潜り込む。photo : © 2019 CJ ENM CORPORATION, BARUNSON E&A ALL RIGHTS RESERVED

ソダーバーグやポン・ジュノが行っているのは、厳しい現実を冷静に見据え、そこに独自の想像力を加えること。未来への糸口を探り、一抹の希望の光で現実を照らし返すこと。それこそがアーティストやクリエイターの最も重要な仕事のひとつだろう。

だからアカデミー賞は実社会の位相を映し出す鏡にもなる。昨年(2019年)は作品賞に輝いた『グリーンブック』(2018年、監督:ピーター・ファレリー)や最多4部門を獲得した『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年、監督:ブライアン・シンガー)をはじめ、人種や性別、あらゆる社会的立場のマイノリティに寄り添ったリベラル多元主義が主題の先頭にいた。監督賞ほか受賞の『ROMA/ローマ』(2018年、監督:アルフォンソ・キュアロン)では1971年6月10日の「血の木曜日」――メキシコのエチェベリア政権に抗議する大規模な学生・教職員のデモ隊と、体制側が激突した凄惨な史実が用意されている。この暴動シーンの衝撃を延長するように、今年のアカデミー賞はリベラリズムよりも、もっとハードな色合いになった。経済格差や弱者弾圧など、疎外をベースにした力作たち。韓国からは『パラサイト 半地下の家族』、アメリカからは『ジョーカー』(2019年、監督:トッド・フィリップス)、フランスからは国際長編映画賞にノミネートされた『レ・ミゼラブル』(2019年、監督:ラジ・リ)など。

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現実に着想を得た映画が、豊かな想像力を広げ、今度は現実が優れた作家の想像力を参照することができる。ドイツのモニカ・グリュッタース文化相が「アーティストは必要不可欠なだけでなく、生命維持に必要なのだ」との声明を出したのも、まさしく想像力への正しい理解と評価の賜物だろう。対して“想像力への想像力”がまったく働いていないとしか思えぬ政府が牛耳る日本では、自粛要請で閉館の危機に晒されているミニシアターへの休業補償も不透明なまま。その窮状を受けて有志の映画人たちが発起人となり、財政支援をクラウドファンディングなどで行う「SAVE the CINEMA」「ミニシアター・エイド基金」など素晴らしい活動も起こっているが、しかし当事者たちの自衛を迫られる現状での苦肉の策を、単に美談で済ませていいはずがない。もちろん日本だけでなく、すでに続々と解雇者を出しているハリウッド業界も深刻な状況を抱えている。

社会全体も映画文化もいまは先の見えない正念場だ。たとえば公開延期になってしまった圧巻の新作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』を遺して、本作の公開予定日だった4月10日、82歳で亡くなった大林宣彦監督は、皆が正義の名の下に怒りや狂気に走った戦争体験を踏まえて「僕は表現者だから、人間の正気を描く」と優しく喝破した。そう、まず我々が死守すべきなのは「正気」だ。ソダーバーグやポン・ジュノのように、厳しい現実を冷静に、なるたけ正確に見据えること。そして活動の灯りが再開した時、ハリウッドは、日本は、世界中の映画は、アフター・コロナを生きていくための指針をいかに照らしてくれるのか。我々は想像力と文化の可能性を手放してはならない。

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texte : NAOTO MORI

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