バッキンガム宮殿に秘められた、エリザベス女王の生涯をひも解く。

Culture 2022.09.13

エリザベス女王は、9月8日、スコットランドのバルモラルで子どもや孫に囲まれながら亡くなった。彼女の人生はまるで小説のようだった。

01-220909-buckingham-palace.jpg

70年以上、イギリスの君主だったエリザベス女王。photography: Getty Images

地球で最も有名な女性と言っても過言ではない。そもそもイギリス国民の大多数はエリザベス女王の治世しか知らない。9月8日、スコットランドのバルモラルで子どもや孫に囲まれ、女王は亡くなった。6月初旬には、英国史上最長の在位70周年を祝ったばかりだった。ヴィクトリア女王の治世が63年7カ月2日だったので、それよりも長い。在位中にはイギリス国外への公式訪問260回以上、国賓としての訪問100回以上、世界一周も何回かしており、600以上のチャリティー組織を支援し(うち400は1952年以降)、表彰状授与は50万回、バッキンガム宮殿のガーデンパーティを訪れた人は150万人以上、そしてウィンストン・チャーチルからリズ・トラスまで、15人の首相を任命している。なかでも最初のチャーチルは、父ジョージ6世が肺がんで早世して自分が25歳の若さで王位に就いたのを見届けてくれた人であり、特別な存在だった。そもそも父ジョージ6世も兄のエドワード8世がウォリス・シンプソンと結婚するために退位するまで、自分が王位に就くとは思っていなかった。だから1926年4月21日に生まれたエリザベスも、やがてバッキンガム宮殿に住むとは夢にも思っていなかったのだ。

---fadeinpager---

戦争を体験した子ども時代

02-220909-buckingham-palace.jpg

国王ジョージ6世、エリザベス王妃、娘のエリザベスとマーガレット。(1940年4月)photography: Getty Images

「大きくなったら農家に嫁ぎたいというのが口癖だった」と姉妹の家庭教師だったマリオン・クローフォード、愛称“クロフィー”は自著『王女物語』で語っている。身分のある女性には家庭教師がついて、家庭内で教育を受けることが一般的だった時代だ。エリザベスも妹のマーガレットとともに(どちらの少女も王室カメラマンたちに人気だった)そのような教育を受けた。家庭教師は優しく、唯一厳しく言われたのは字をきれいに書くことぐらいだった。母親のエリザベス・ボーズ=ライアン(のちのクイーン・マザー)から受け継いだのは読書好きということと、日記をつける習慣だった。エリザベス女王は亡くなるまで日記をつけている。父のジョージ6世からは、王室の伝統的な趣味であるサラブレッドの繁殖と馬レースへの情熱を受け継ぎ、これはのちに夫との共通の趣味となった。

---fadeinpager---

愛するフィリップ

03-220909-buckingham-palace.jpg

新婚旅行中のフィリップとエリザベス王女。(ハンプシャー、1947年11月23日)photography: Getty Images

エリザベスは13歳の時、父親と一緒にダートマスの王立海軍兵学校を訪れ、フィリップと出会った。ギリシャ王子とデンマーク王子の称号を持っていた18歳の青年は、北欧の王子様風の長身に金髪のルックスで彼に憧れる女性も多く、エリザベスも彼がスポーツ万能であることに惹かれた。ヴィクトリア女王とアルバート公の玄孫同士であるものの、この程度の血縁関係ならばスキャンダルにもならない。1946年の夏、イギリス王室がスコットランドに所有するバルモラルの邸宅に滞在中、大好きなフィリップからプロポーズされた「リリベット」は舞い上がり、父の国王の意見も聞かずに承諾した。結婚式は1947年11月20日、ウェストミンスター寺院で2000人の招待客を前に行われた。チャールズ皇太子ダイアナ妃の結婚式のテレビ視聴者数が7億5000万人、ウィリアム王子キャサリン妃の結婚式が同約20億人だったのに比べれば、ほんのわずかな人数だ。式から3ヵ月後、エリザベスは妊娠し、1948年の秋にチャールズが生まれた。若い夫婦は王位や王冠、それに伴う重責を受け継ぐのは10年ぐらい先だろうとのんびり構えていたが、実際は4年後だった。

---fadeinpager---

国民に人気の女王

1952年2月にジョージ6世が亡くなってすぐの頃、フィリップ王配は「私の最初と2番目と最後の仕事は女王を支え続けることだ」と語っている。女王の側近はそれを生涯フィリップ王配に守らせた。しきたりだからと妻の2歩後ろを歩くことを強要し、不倫の噂は直ちに調査された。「不倫? できるわけがない。1947年以降、昼夜探偵から見張られているんだ!」とフィリップ王配はジャーナリストたちに冗談まじりに話していた。1997年、結婚50周年を迎えたエリザベス女王は、「嵐のときもあったけれど、彼は私の支え」と、結婚生活を振り返った。ノーフォークのサンドリンガムで過ごしたクリスマスや、スコットランドのバルモラル城での休日など、ふたりが数日以上離れて過ごすことは滅多になく、慎み深く仲睦まじいふたりは理想の夫婦だった。

---fadeinpager---

王室の日常生活

04-220909-buckingham-palace.jpg

エリザベス女王とフィリップ王配、子供のチャールズ皇太子、アン王女、エドワード王子。(サンドリガム、1969年5月) photography: Getty Images

チャールズ皇太子の誕生から2年後の1950年にアン王女、1960年にアンドルー王子、1964年にエドワード王子が誕生した。女王が4人の子どもの面倒を見ることはほとんどなく、子どもの教育よりも統治に専念していた。プライベートではフィリップ王配が一家の長だった。エリザベス女王にとっては、子どものわがままをたしなめ、愛情を注ぐよりも、一年前から決まっているスケジュールや、政府の公文書を入れた「レッドボックス」の方が安心できた。毎朝公文書に欠かさず目を通すことは、女王が自らに課した儀式のようなものだった。朝7時半に寝室のカーテンが開けられ、目覚める。侍女がアールグレイティーを持って入ってくる。いまは亡き侍女「ボボ」は女王を「リリベット」と呼べる唯一の女性で、67年間仕えた。それから愛犬のウェルシュ・コーギーがやってくる。ラジオはBBCの Radio 4、お風呂は21℃、着替えてから軽い朝食(元シェフによるとスペシャルKのシリアルボウル)をとり、新聞に目を通す(最初は競馬の日刊紙「レーシング・ポスト」、次に「テレグラフ」紙、「タイムズ」紙)。朝の儀式の締めくくりは宮殿の中庭で行われる15分間のバグパイプ演奏に耳を傾けること。その後、午前10時に執務室に入り、昼食まで仕事、午後も公務だ。

---fadeinpager---

完璧な人生と「アナス・ホリビリス(ひどい年)」

05-220909-buckingham-palace.jpg

バッキンガム宮殿のバルコニーでキスをするダイアナ・スペンサーとチャールズ皇太子。(1981年7月29日)photography: Getty Images

エリザベス女王は常に「プロフェッショナル 」だった。イギリスと英連邦諸国の統合の象徴として、パスポートも運転免許証も持たず、投票に行くことも公に意見を述べることもできなかったなかで、ある種のイギリスのイメージを見事に守り抜いた。それは決して楽な作業ではなかった。君主制や女王という存在は、1950年代にこそ憧れの対象だったが、1960年代、1970年代に入ると役に立たない時代の遺物というレッテルを貼られるようになった。変革が必要だった。タブロイド紙の隆盛とダイアナの出現により、王室だってセクシーで魅力的な存在になれることが証明され、王室人気回復に役立ったものの、それはもろ刃の剣で、その後の王室メンバーによる愛憎の危険なスパイラルに巻き込まれることになった。エリザベス女王自身、1992年を「アナス・ホリビリス(ひどい年)」と呼んでいる。この年はアン王女とマーク・フィリップスの離婚、チャールズ皇太子とダイアナ妃の別居、そしてアンドルー王子とサラ・ファーガソンの別居(サラと彼女の恋人たちとの写真がマスコミのえじきとなった)があり、追い打ちをかけるようにウィンザー城で火災が起こり、城の一部が焼失した......。4人の子どものうち、末っ子のエドワード王子だけは、ソフィー妃と今日に至るまで幸せな家庭を守っている

---fadeinpager---

神よ、ウィリアム王子とキャサリン妃に祝福を

06-220909-buckingham-palace.jpg

バッキンガム宮殿のバルコニーでウィリアム王子、キャサリン妃とその子供たちと一緒にいるエリザベス女王。(2022年6月5日)photography: Getty Images

ダイアナ妃はパリで事故死する前年の1996年にチャールズ皇太子と離婚した。ダイアナ妃が亡くなった後、「民衆のプリンセス」と呼ばれた妃の死にすぐ反応しなかった女王への非難の声があがり、エリザベス女王にとって試練の日々が続いた。エリザベス女王の治世を描いたテレビドラマ「ザ・クラウン」のメインコンサルタントである歴史家のロバート・レイシーは、この時期を「彼女の治世の危機であり、女王が国民の心を取り戻さなければならなくなった重要な時期」と分析している。事態が大きく改善したのはチャールズ皇太子とダイアナ妃の長男、ウィリアム王子がキャサリン・ミドルトンと2011年4月29日にウェストミンスター寺院で結婚してからだ。初めて王室が平民から未来の王妃を迎えたのにもエリザベス女王が大きく関わっている。キャサリン妃とは50歳以上離れているが、ふたりは温かい絆で結ばれている、とフランスのジャーナリスト、ステファン・ベルンは2016年に書いている。2013年7月にジョージ王子、そして2015年5月にシャーロット王女、2018年4月にルイ王子と3人の子どもが生まれたことでその絆は深まった。

エリザベス女王のお気に入りの孫と言われていたハリー王子の人生にメーガン夫人が登場し、イギリス王室に憧れる3億3千万人のアメリカ人も加わって、イギリス王室人気はさらに盛りあがるかのように思えた。しかしながら王室の融通のなさとハリー王子夫妻の不器用さが破綻を招いた。2020年、ハリー王子は妻と子ども(2019年生まれのアーチー、2021年生まれのリリベット)を連れて米国へ移住し、イギリス王室と訣別した。もっとも翌2021年の方が女王にとって新たな「アナス・ホリビリス(ひどい年)」と呼ぶにふさわしい年だったかもしれない。女王の息子のアンドルー王子がスキャンダラスなエプスタイン事件に関与したこと、メーガン夫人とハリー王子がオプラ・ウィンフリーのインタビューを受け、王室内で受けたさまざまな仕打ちを暴露したことは女王と側近にとって、最高にひどい屈辱だった。2021年4月、彼女の「支え」であったフィリップ王配が99歳で亡くなる。そしてお迎えの時がきた。神よ、女王に祝福を。

*『エリザベス女王:近代君主の生涯(原題:Elizabeth the Queen: The Life of a Modern Monarch)』サリー・ベデル・スミス著、(2012年)
 

text: Marion Galy-Ramounot (madame.lefigaro.fr)

Share:
  • Twitter
  • Facebook
  • Pinterest

清川あさみ、ベルナルドのクラフトマンシップに触れて。
フィガロワインクラブ
Business with Attitude
2024年春夏バッグ&シューズ
連載-鎌倉ウィークエンダー

BRAND SPECIAL

Ranking

Find More Stories