「幸せからは逃げるの」ジェーン・バーキンが教えてくれた、美しく生きる秘訣とは?

Culture 2024.07.07

文筆家・村上香住子が胸をときめかせた言葉を綴る連載「La boîte à bijoux pour les mots précieuxーことばの宝石箱」。今回は筆者と公私ともに親交の深かった、女優にして歌手、世界を魅了したジェーン・バーキンの言葉をご紹介。


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ジェーン・バーキンのアルバム『バビロンの妖精』の中で、彼女はそう唄っている。10代の頃に知り合った、映画「007」シリーズの曲でも知られる世界的な映画音楽作曲家ジョン・バリーと結婚して、有頂天になっていたジェーンだったが、愛する人との間に長女ケイト・バリーをもうけて間もなく、ジェーンは相手から別れを告げられてしまう。まだ1歳にも満たない乳飲児を抱いて、彼女はロンドンの家を去ることになった。ハリウッドで栄光の頂点にいたジョン・バリーは、ロンドンの自宅でただひたすら夫の帰りを待っている泣き虫のロリータ妻を、持て余してしまったのだ。

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一度大火傷をした者は、その後はすっかり臆病になってしまい、二度と燃え立つ炎には近づきたくないと思うし、ジェーンもそうだったに違いない。だがそれもそう長くは続かなかったようだ。数ヶ月後に、撮影のために赤ん坊のケイトを連れてパリに行った彼女は、撮影現場でちょうどその頃世界の男性ファンの憧れの女優だった美女ブリジッド・バルドーと、不倫の熱愛の果て、離別を強いられて落ち込んでいたフランスのポップ界のスーパースター、セルジュ・ゲンズブールと出会っている。

こうして失恋直後のふたりは、たちまち恋に陥ちてしまったようだ。そうだとしてもジェーンの方は、また自分は前回と同じ過ちを犯すのではないかと不安がなかった訳ではないが、恋の手練手管に長けた男と、ナイーヴなブルジョア娘の令嬢なので、彼女は相手の強引なペースに流されていく。

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私がパリに住み、雑誌の仕事で頻繁にジェーンのインタヴューをして、40年近く交流してきた体験からすると、彼女はどんな時も勇み足をしない女性だということだ。一度踏み出した足は、決して引っ込めたりしない。

それは並外れて誇り高いからか、彼女独特の根性なのかはわからないが、決して退くことはなかった。長い間ジェーンに惹きつけられていたのも、その点だったような気がする。私が始めた東日本復興支援南三陸の「アマプロジェクト」を、8年近く経って、あまり売り上げも芳しくないので、そろそろ辞めたい、とジェーンにパリで相談したことがある。

「えっ、一度被災者たちに差し出した手は、引っ込めてはいけないわ。」

断固として彼女がそういったので、思いとどまったのを思い出す。「負けるが勝ち」といった古い価値観をどこかで引きずっていた私には、そんなジェーンが実に頼もしく思えたものだ。

ジェーンが他界してから、やがて1年が経つ。死の前日、または前々日、自分の名のついた「バーキン」のバッグが販売されているパリの「エルメス」店で、孫のために買い物をしていたという前代未聞の豪快なエピソードを遺して、彼女は旅立っていった。

拙著『ジェーン・バーキンと娘たち』(白水社刊)は、その命日に出版されることになった。

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Jane Birkin
1946年、ロンドン生まれ。64年、『ナック』の端役で女優デビュー。同作の音楽担当だったジョン・バリーと結婚。長女ケイト・バリーが生まれたが、後に離婚。68年にフランスに渡り、セルジュ・ゲンズブールと出会い事実婚関係に。80年、DVやアルコール問題で別居するが後に和解、91年のセルジュの死まで交流は続いた。80年に映画監督のジャック・ドワイヨンと出会い末娘ルー・ドワイヨンが誕生するも、92年にジャックの監督作の内容を巡って、関係性は終わりを迎えた。歌手、モデルとしても代表作多数。photography: AP/Aflo

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