金原ひとみの最新刊。出版界の性加害を起点に描く、人間の脆さと逞しさ。
Culture 2025.07.05
正義はいつもまっすぐではない。文芸誌元編集長への性加害の告発を軸に、複数の視点から人間の正義感の本質が描かれる。「責任」と「許し」の境界線を問いかける一冊をライター武田砂鉄がレビュー。
『YABUNONAKA―ヤブノナカ―』

8人の視点で描く出版界の性加害、正解はどこにあるのか?
文:武田砂鉄 ライター
文芸の世界は狭い。小説家に編集者が寄り添い、ひとつの作品が時間をかけて完成に至る。狭い世界だからこそ付き合いが濃密になるが、その濃さは主従関係があってこそ。新人作家は編集者に逆らいにくい。大作家に編集者は逆らいにくい。見えにくい場で権力が稼働すると、人は判断を誤る。
文芸誌元編集長が、ある女性から性的搾取を受けていたとネットで告発される。加害者、被害者、そして家族や世間の目。登場人物の多くがどことなく後ろ暗さを抱えた小説で、正義同士がぶつかるのではなく、曇り空のもとで思惑が漂う。
告発した女性が、「私は、この長い時間をかけて、無自覚から自覚の状態に移行したのだと思います」と語る。実社会でも、著名人の性加害が報じられると、告発した被害者の素性を掘り出そうとする。このまま社会的に殺してしまっていいのだろうかなどと加害者擁護が始まる。
「この世界のどこまでが自分の責任でどこまでが自分の責任じゃないかなんて、そんなの自分で考えて決めて線引きするもの?」との問いかけが重い。責任の線引きは、相応の権力を持っている人だけができること。あっちとこっちにわけながら、こっちの自由や被害者ヅラを獲得していく。
人間には多面性がある。ある人に対しては優しい。ある人に対してはそうではない。人間は誰しも、「乖離することで自分の壊れた部分を客観的に見つめ、発狂を免れてきた」のではないか。しかし、今は、「乖離によって許容されてきた人々が淘汰されるべき時代が訪れた」ということなのか。性暴力事件を真ん中に置きながら、編集者、小説家、家族、恋人など様々な視線が注がれるなかで、人間の脆弱さと逞しさの双方がじんわりと浮き上がってくる。
社会の正解はどこにあるのか。許されるとはいかなる状態なのか。人間と人間がぶつかり合った時の摩擦熱には種類がある。その熱の比較を怠ると、大きな過ちが放置されてしまう。
1982年、東京都生まれ。出版社で主に時事問題やノンフィクション本の編集に携わった後、2014年からフリーライター。著書に『テレビ磁石』(光文社刊)ほか多数。ラジオのパーソナリティも務める。
*「フィガロジャポン」2025年8月号より抜粋