「ダイアナ妃が妄想をふくらませるに十分な理由があった」。公式自伝を手がけた作家が明かす素顔とは?

Celebrity 2025.08.12

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ダイアナ妃の信頼を得て、唯一の公式伝記作家となったジャーナリストのアンドリュー・モートンは、"ハートのプリンセス"の悲劇のなかの真実を追い求めてきた。いまも人々を魅了する妃の生涯とはどんなものだったのだろうか。

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1983年4月20日、ニュージーランドで行われた晩餐会でのダイアナ妃。青いモスリンのイブニングドレスはファッションデザイナーのデヴィッド&エリザベス・エマニュエル夫妻によるデザイン。photography: Tim Graham / Tim Graham Photo Library via Get

1990年代初頭、ダイアナ妃はある人物を信頼することにし、ケンジントン宮殿の閉ざされた扉の向こうでの出来事をこっそり録音したカセットテープを渡した。こうしてダイアナ妃の承認を得た唯一の公式伝記が生まれた。それは作家にとっても人生最大の"賭け"だった。1992年、アンドリュー・モートンが上梓した『ダイアナ妃の真実』(日本版は入江真佐子訳、早川書房刊)は爆弾のような効果をもたらした。チャールズ皇太子(当時)の妻としての苦悩を明らかにし、英国民を震撼させ、皇太子夫妻の離婚を早める結果となったのだ。以降、アンドリュー・モートンはダイアナ妃の真実を忠実に擁護してきた。Netflixドラマ「ザ・クラウン」シーズン5でダイアナ妃苦難の日々を描くにあたり、企画・制作総指揮者のピーター・モーガンは彼をメインコンサルタントのひとりに起用している。

公式伝記が生まれたきっかけは1986年、ダイアナ妃のロンドン・セント・トーマス病院訪問をモートンが取材したことだった。フリージャーナリストとして活躍していたモートンは、それまでにアンドルー王子やエリザベス女王のヨット「ブリタニア」、サラ・ファーガソンをテーマにして、すでに10冊を上梓していた。この日、彼はダイアナ妃と非常に親しいジェームズ・コルサースト医師と知り合い、やがて一緒にスカッシュをするほどの仲になる。この偶然の出会いがすべての発端だった。ダイアナ妃が信頼のおけるジャーナリストを探し始めたとき、ジェームズ・コルサーストが彼を推したのだ。ダイアナ妃から「クラーク・ケント」と呼ばれていたこの寡黙な作家を本誌は2回取材している。1度目は、最初の著作から30年後に発表された2冊目のダイアナ本『Diana, In Pursuit of Love(ダイアナ妃、愛を追って)』の刊行時。この本も、虚実がないまぜに語られるなかで真実を見極めようとした著作だった。2度目は『ザ・クラウン』の宣伝のため。本稿はこの2本のインタビューをまとめたものだ。

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──ダイアナ妃はあなたのことを"最も優しい記者のひとり"と評価していました。妃からなぜ「クラーク・ケント」というあだ名で呼ばれたのでしょう。

スーパーマンの偽名、「クラーク・ケント」の名で呼ばれたのは身長が1,93mあり、分厚い眼鏡をかけていたからです。「Noah」と呼ばれることもありました。「Notable historian and author(著名な歴史家兼作家)」を縮めたものですが、もちろん、妃の冗談です。

── ダイアナから最初のカセットテープを受け取って、宝を手にしたと思う一方で、爆弾を抱えたと思いませんでしたか。

最初のカセットをジェームズから受け取り、ロンドン北部のカフェで聴きました。ヘッドフォンをつけたらまるっきり別世界に踏み込んだような気がしました。まったく予想外の内容でした。妃がインタビューに同意してくれた時、人道的活動やそうした類の話をすると思っていたのです。でも実際には過食症やカミラのこと、ケンジントン宮殿での暮らしが苦痛であることを語っていました。最初の数分を聴いただけで、秘密のクラブに入ることを許されたかのような気分でした。最初に思ったのは「宝を手にした」というよりも、「これは爆弾だ、そのことを証明しなければ」ということでした。

── まさにその録音内容ですが、すぐに信じましたか? 疑わなかったのでしょうか。

正直に言うと、最初は信じられませんでした。理由は単純で、チャールズ皇太子に何度も会ったことがあったからです。皇太子はとてもチャーミングで機知に富んだ人物だと感じていました。だから当初、妃の言うことを丸呑みするのは難しかった。みんなと同じように私もふたりが"おとぎ話"の主人公であることを信じていたのです。ですが、チャールズ皇太子のその年の行動を注意深く観察してみると、妃の言っていることが正しいのかもしれないと思い始めました。ウィリアム王子(当時)が学校で他の生徒から頭蓋骨損傷させられて入院した際、チャールズ皇太子は病院に来たもののオペラ観劇の予定があると帰ってしまいました。ダイアナ妃はひとりで死にそうな不安にさいなまれていました。些細な出来事に見えますが、こうしたことの積み重ねが、妃の置かれている状況を物語っていました。

── そのカセットを入手してから脅迫されるかもしれないという不安や恐怖を感じましたか?

非常に神経質になりましたし、ダイアナ妃も同様でした。英「デイリー・メール」紙の王室担当記者リチャード・ケイや当時の著名フォトグラファーのアーサー・エドワーズから「気を付けろ、監視されているぞ」と警告されました。それは私が英「サンデー・タイムズ」紙でダイアナ妃に関し、核心を突く記事をいくつか書いていたからです。実際、事務所が空き巣に遭いました。ダイアナ妃との連絡には固定電話ではなく、公衆電話を使っていたりと、常に背後を気にしなければならないような、まるで映画『大統領の陰謀』の英王室バージョンのような日々を過ごしていました。

── 1992年にダイアナ妃唯一の公式伝記を書き上げ、間接的とは言え、ダイアナ妃と執筆や交渉で関わったわけですが、どのような印象を受けましたか。

彼女は傷ついていました。ですが私の印象に残ったのは彼女の大胆さです。非常に勇敢な女性でした。また、相手に不快な思いをさせることなく自然に人と接することができる稀有な資質を持っていました。

── 2冊目の『Diana, In Pursuit of Love(ダイアナ妃、愛を追って)』は1冊目の30年後に発表されました。そのなかであなたは、妃がよく"情緒不安定"、"精神のバランスを欠く"、"、深刻な人格障害"と評されていたことを指摘しています。ドラマ「ザ・クラウン」やパブロ・ラライン監督の映画『スペンサー ダイアナの決意』でもそのことは描かれていますが、この点についての真偽はどうなのでしょう。

ダイアナ妃は非常に健全な精神の持ち主でした。考えてもみてください、王室に嫁してすぐ、彼女は周囲から騙されているのではないかと感じたのです。そして実際にそうでした。チャールズ皇太子とダイアナ妃の周りにいた人たちは彼女の信頼を日々裏切っていました。チャールズ皇太子とカミラ・パーカー・ボウルズの関係について疑問を抱いても、周囲からは「馬鹿馬鹿しい、ふたりはただの友達」と言われるばかりでした。従者や護衛、執事から夫がどこそこにいると聞かされても、実際は違う場所にいることがあったのです。

── 具体例はありますか?

チャールズ皇太子がポロの試合で腕を骨折したときのことです。病院に最初に駆けつけたのはカミラでした。ケンジントン宮殿から病院に向かう車中で、ダイアナ妃は護衛同士の無線を耳にして、自分が病院に着く前にカミラを確実に発たせようとしていることを悟りました。だからダイアナ妃が妄想をふくらませるには十分な理由があったのです。私の知る限り、彼女が精神的に不安定だったことはありません。

── 精神面のほかに、幸せになれる資質について疑問が呈されました。ダイアナの人生は幸せだったのでしょうか?

辛い時期でも妃はユーモアのセンスを常に失わず、最悪の事態からも立ち直る術を知っていました。何が起きても俯瞰して物事を捉え、常に笑顔でいること。それを母フランシス・シャンド・キッドから受け継いだとある日語っていました。もちろん深刻な過食症に苦しんだ時期が何回もありましたが、根は陽気な女性でした。とりわけ息子のウィリアム王子、ハリー王子と過ごしている間は

── 少女時代に数カ月間、まったく口をきかなくなるほどふさぎ込んだ時期があったことにも著作では触れていますね。

ダイアナ妃を理解するには、彼女が「見捨てられることへの深い恐怖」を抱いていたことを考慮に入れなくてはなりません。本の中で触れたのは、少女時代の出来事です。彼女は8、9カ月間、周囲とまったく話さず、コミュニケーションを絶って自分の殻に引きこもりました。わずか6歳のときのことです。それはある日、母親がスーツケースを手にして家をさっさと去った直後のことでした。ダイアナは冷淡で近寄りがたい父親と暮らすことになり、その日から「見捨てられることを心底恐れる気持ち」はずっとついて回ったのです。だからチャールズ皇太子と結婚したとも言えます。王子と結婚するのはおとぎ話の世界であり、おとぎ話の"チャーミング王子"は決して別れないからです。なんとも皮肉な話です。

── あなたの本では、チャールズとの別居後、彼女は盗聴や尾行の対象になり、友人たちも妃の身に危険が及ぶのを心配していたとあります。妃が亡くなった時、彼女の命は脅かされていたのでしょうか。

この件については多くの陰謀論がありますが、私は事故当時、ダイアナ妃がそういう状況にあったとは思いません。確かに、彼女は危うい立場にありました。王室という組織にたったひとりで立ち向かっていたからです。しかし命の危険はなかったと思います。1997年8月31日のことについて言えるのは、もし彼女がシートベルトをしていれば生きていた、ということだけです。あまりにもありふれた死因で納得しがたいですが。

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── ダイアナ妃はしょっちゅう占い師や占星術師に助言を求め、たとえば特定の男性との相性まで占わせていたそうですね。これは彼女の性格を表しているのでしょうか。

最初にこうした世界に引き込んだのはファーギー(アンドルー王子の元妻サラ・ファーガソン)です。ファーギーはよく電話をかけてきて、「占い師に見てもらったらチャールズは車の事故で死ぬそうよ」、などと語っていました(笑)。ダイアナ妃がとてもつらい時期を過ごしていた1984年には、イギリスの有名な占星術師ペニー・ソーントンのもとをよく訪れていました。夫が他の女性を愛していることを知り、王室の日常にもなじめず、彼女はペニーに自分の行く末を尋ねていました。言うなれば助けを求めていたのです。そしてペニーの予言はこの時期の心の慰めとなりました。

── チャールズとの別居後、ダイアナ妃は恋多き女性となりました。俳優のジェームズ・ギルビー、美術商オリヴァー・ホーア、ラグビー選手ウィル・カーリング、心臓外科医ハスナット・カーン、そして大富豪ドディ・アルファイドなどです。それは一部の人が言うようにチャールズ皇太子への復讐だったのでしょうか。それともただ自由を楽しみたかったのか、はたまた孤独が嫌だったからでしょうか。

恋愛相手には既婚者もいました。そうした関係は彼女にとって深い関わりを持つ必要がなく、気軽に楽しめるものでした。もちろん、孤独で寂しい思いもしていたので、誰かが必要だったのでしょう。ドディとの関係は少し違いました。その時期にはもはや男性を必要とせず、支えてくれる友人の輪も出来、人道的活動にますます注力していました。彼女は新しい人生を歩み始めていたのです。私の見解では、ドディは運命の相手ではなく、ただの恋の戯れでした。

── ダイアナ妃はお付きの人たちと「付き合った男性たちをランク付けして遊んでいた」と本にあります。

ヘアスタイリストや執事のポール・バレル(元執事)と一緒に、仲良しの男性10人を競走馬に見立てていたそうです。常に首位にいたのはハスナット・カーンで、他の候補者はその時々の妃の気分で順位を入れ替えていました。この話も、彼女が恋愛に真剣ではなかったことを示すものと私は考えています。

── 彼女は結局、ずっとチャールズ皇太子を愛していたと考えるのは的外れでしょうか?

ダイアナ妃と親しかったジェームズ・コルサーストはある日、彼女に尋ねたそうです。「もし彼が謝罪し、ひざまずいて君とやり直したいと言ったら、受け入れますか」と。すると彼女は「ええ」と答えました。結局、ふたりの間には強い情があったのです。

── あなたの本ではいまもチャールズが結婚指輪をはめ、毎晩ダイアナのために祈り、彼女から贈られたペンで手紙にサインをしているとありますね。

彼もまた結婚生活の破綻に深く傷つき、自らの愚かさに気づきました。チャールズは感傷的な人です。彼の心の中には、はっきりとダイアナ妃のための場所があったのです。すべてが彼の過ちだったわけではありません。非は両者にありました。

── 本の最後では、無くなる直前のダイアナ妃の態度について王室伝記作家のロバート・レイシーが語った言葉を引用しています。「彼女はもはや誰にもコントロールできない存在となり、事態はますます悪化しただろう。死は彼女の評判にとって最善のことだった」という彼の意見に賛成でしょうか。

反対です。私は逆に彼女が人生の意味を見いだし、もはや過食症にも王室にも振り回されることなく、自分の方向性を見つけていたと思っています。妃が亡くなる数ヶ月前にマリオ・テスティーノが撮影した写真には新しいダイアナの姿が写っていました。魅力的で、自分の人生を生きる女性。すべてはこれからだったのです。

── 最初の本の出版後、ダイアナと連絡を取り続けましたか。

本は1992年1月に出版され、チャールズ皇太子と別居するまではしょっちゅう連絡を取っていました。週に1度、多いときは3度、電話で話していたものです。当時はWhatsAppがなかったので慎重にならざるを得ませんでした。その後、ジェームズと共に彼女のこれからを手助けしてあげたいと思いました。そこで子どもたちと静かに過ごせる田舎の家を買ってはどうだろうと提案しました。彼女は実家の敷地内のコテージに引っ越したいと言い、弟のチャールズ・スペンサーとも話をつけたのですが、結局、スペンサー伯爵が敷地内への侵入者を懸念して話が立ち消えてしまいました。

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text: Marion Galy-Ramounot (madame.lefigaro.fr)

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