この連載では香港でアートを楽しんでいただくために、M+や香港故宮博物館という香港に新しくできた国際級の美術館、MOAやCHATなどより地元密着型の個性あふれる美術館、そしてアートバーゼル香港という世界最大級のアートフェアを取り上げてきた。
今回は、美術館やアートフェアなどと同じコンテンポラリーアートの有名作家を主に扱いながら、まったく異なる楽しみ方ができる香港のギャラリーについて紹介したい。
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購入しなくても遠慮せず楽しんで。
何百万円、何千万円というアート作品がゴロゴロしている香港で、ギャラリーを訪れることは、「高価な作品を購入できない一般人は、お呼びではないのではないのでは」と腰が引けてしまうかもしれない。
寺瀬由紀氏。投資銀行からオークション名門のサザビーズに移り、コンテンポラリーアート部門アジア統括としてアジア市場売上3倍増に貢献。元同僚とともにアート・グローバル・インテリジェンスを創業。photography:Miyako Kai
しかしそんな心配は無用。多くのギャラリーはアートファンの裾野を広げたい、所属アーティストの魅力を幅広く一般に伝えたいという目標を掲げて展示をしているため、見て楽しむだけの初心者も大歓迎している。大規模な美術館やアートフェアと違ってスタッフとの距離も近いので、遠慮せずに質問すれば、喜んで説明してもらえる。
「老舗のギャラリーが多い日本と比べて、香港ではアートの歴史が短い分、気軽にアートを楽しむことができます」と話してくれたのは、サザビーズの要職を経て2021年に香港で国際的なアートアドバイザー会社Art Global Intelligence(AIG:アート・グローバル・インテリジェンス)を創業するなど、長年にわたり日本と香港を含めたアジアと世界のアート業界を俯瞰してきた寺瀬由紀氏。
香港のギャラリーならではの楽しみを寺瀬氏に聞くと、「有名美術館に収蔵されているアーティストの作品であっても、ギャラリーでは最新作をまとめて見られるし、展示方法も美術館のキュレーションとは違って自由度が高い」。ベルギーの有名ギャラリーが香港に進出した「Axel Vervoordt Gallery Hong Kong(アクセル・ヴェルヴォールトギャラリー香港)」は、香港島の南側に位置し、元々が工業地帯であり、多数のギャラリーやアーティストのスタジオが潜むエリアである黄竹坑(ウォンチョクハン)に2019年に街の中心地である中環(セントラル)から移転した。2016年に地下鉄の黄竹坑駅ができて大変便利になっており、駅から徒歩3分の、総面積743㎡を生かした空間をフルに活用したダイナミックな展示が、このギャラリーの特徴だ。1954年に始まった日本の戦後美術運動である"具体"を欧米で広めたことでも知られており、東西の様々なアートを世に知らしめてきた。
香港の消えゆく歴史と文化を表現する香港女流アーティスト、ジャファ・ラムの2022年のインスタレーション『Taishang Laojun’s Furnace』に、具体美術を代表するアーティスト白髪一雄の1986年の作品『(黄檗)Oubaku』が絶妙な組み合わせ。photography: Miyako Kai
また、創業者のアクセル・ヴェルヴォールトが世界的に著名な現役インテリアデザイナーであり、ギャラリー空間のデザインもその大きな魅力になっている。学術的な要素を軸にしたキュレーションを行う美術館と違って、独自のセンスと世界観で、時代と様式を超えた作品群をまとめる自由度が強い展示は、まさにギャラリーならではの離れ業。
右から香港のジャファ・ラム、メキシコのボスコ・ソディ、傘をモチーフにした作品と、メキシコのボスコ・ソディの絵画と彫刻作品を組み合わせた空間。photography: courtesy of Axel Vervoordt Gallery and the artist
21F, Coda Designer Centre 62, Wong Chuk Hang Road Entrance via Yip Fat Street (next to Ovolo Hotel)Hong Kong
https://www.axel-vervoordt.com/gallery
Suite A, 1/F, TS Tower No. 43 Heung Yip Road, Hong Kong
https://www.artintelligenceglobal.com/
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美術館ではできない展示内容も。
寺瀬氏率いるAIGのオフィスも同じ黄竹坑にあり、こちらの世界クラスのアートを独自の視点で集めた展示スペースは必見だ。
「2023年4月末までは、いま世界で最も人気のあるアーティストの1人でドイツ人のアーティスト、ゲルハルド・リヒターの10点を展示しています。実はこの10点、リヒターが具象から抽象に転換した最初の作品である1982年の『Gelbgrum (Yellow-Green)』や、エリック・クラプトンがオークションに出展したことで話題になり、また世界記録を更新したことでリヒターのマーケットでの位置を高めた『Abstraktes Bild』(1994)など、リヒターのアーティスト人生を知る上で分岐点となる重要な作品を厳選しています。そして、決して美術館でもなかなか簡単には実現できない展示内容になっています」と寺瀬氏。
リヒター1982年作の『Gelbgrum (Yellow-Green)』など計10点が、高さ4.7mという天井高を誇る空間に展示されている。photography: Miyako Kai
「弊社は長年オークションの世界に身を置いてきたファウンダーによって設立しましたので、リヒター作品を世界中で多数取り扱ってきました。よって、現在どの作品がどのコレクターの手元にあるか、かなり多くの情報を把握しています。今回の展示は、そういった知見を活かし、コレクター10人に個別で連絡して協力してもらうことで実現できました。リヒターの絵画は全部で3,000点ほどと言われていますが、そのうち美術館に収蔵されているのは約4割で、残りはほぼ個人のコレクションといわれています」
右はエリック・クラプトンが所有後、オークションに出したことで話題になった『Abstraktes Bild』(1994)、左は自然の美を彷彿とさせる同名の『Abstraktes Bild』(1990)。photography:Miyako Kai
寺瀬氏にとって、この展示には、ビジネスを超えた意義がある。
「作品販売のみを目的にするなら一般公開する必要はありませんが、さまざまな方に、デジタルでは分からない作家の情熱と躍動感にあふれたストロークなど、作品の細部までを生でじっくり見てほしいのです。特にアジアの若い方に、アートを見る目と楽しむ心を感じてもらうため、年に数回はこのような展示を企画しています」
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黄竹坑でエキゾチックなコーヒーブレイクを。
都心部と比べて家賃が低く、広い物件が借りられることで、ギャラリーやアーティストをひきつけている黄竹坑。それは飲食店にも当てはまる。
元投資銀行勤務の女性オーナーがオープンした、エチオピア、マラウイ、ウガンダなどのアフリカ産コーヒー専門のカフェ「アフリカ・コーヒー・ティー」は、AIG隣のオフィスビル15階にある。
アフリカのコーヒーと文化を香港に伝えるアフリカ・コーヒー・ティー、オーナーのシャーレイン・フー氏。photography:Miyako Kai
アフリカの文化の虜になったオーナーは、その素晴らしさを伝えつつ、香港との文化交流も促進しようと、週替わりで各国産の豆を使ったコーヒーを出すほか、香港では珍しいナイジェリアやウガンダ料理を提供。アフリカンアートのギャラリーもオープンし、さまざまな文化体験ワークショップを実施している。
アフリカに興味のある人はもちろん、ゆったりと本格的なコーヒーが飲みたい人にも愛される穴場カフェだ。
週替わりで産地を変えるコーヒーが人気。この日はマラウイ産。photography: Miyako Kai
15/F, 41 Heung Yip Road, Wong Chuk Hang, Hong Kong
https://www.africacoffeeandtea.com/
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スタイリッシュな最新ホテルが登場。
2021年、黄竹坑に誕生したブティックホテル「The Arca(ザ・アルカ)」は、AIGと同じ建物にあり、香港内でもまだあまり知られていない穴場スポット。客室からは南シナ海の雄大な景色が広がり、屋上にはインフィニティプール、ロビー階とルーフトップには広いテラスがあり、ゆったり寛げて好評だ。
軽やかなデザインが心地よい客室からは、雄大な風景が楽しめる。photography: The Arca
3/F, 43 Heung Yip Rd, Wong Chuk Hang, Hong Kong
https://www.thearca.com/?utm_source=glopss&utm_medium=affiliate&utm_campaign=campaign
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国際的な名ギャラリーが揃う中環「H Queen’s」。
香港でギャラリー巡りを効率よく楽しみたい方におすすめなのは、世界的アーティストから東西の新興アーティストまでが所属する有名ギャラリーが勢揃いする商業ビル「H Queen’s(エイチ・クイーンズ)」。展示内容が約2カ月おきに変わる中で、多くのギャラリーから感じられるのが、見学のみのビジターも大歓迎という基本姿勢だ。中環の中心という最高に便利な立地にあるのも嬉しい。
12階にある「PACE(ペース)」ギャラリーは、ロンドン、ジュネーブ、ニューヨーク、香港、ソウル、パリなど世界7カ国で展開。2023年5月4日までの展示は、M+でも大きく取り上げられている中国人アーティスト張曉剛(ザン・シャオガン)が、コロナ禍の閉塞感の中で描いた最新作品を集めた『LOST』。
張曉剛らしい光の表現や分厚い本のモチーフが描かれている。photography: Miyako Kai
コロナ禍の中国で、配給に使われた箱や隔離用のコンパートメントを描く。国によって置かれた状況は多少違うものの、世界共通で共感できるテーマだ。photography: Miyako Kai
1992年にスイスのチューリッヒで創業し、ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルスなど欧米の後、初のアジア支店として香港にオープンした「Hauser & Wirth(ハウザー&ワース)」では、欧米で高い人気を誇る米国の黒人アーティスト、Rashid Johnson(ラシード・ジョンソン)の大規模展はアジア初の展覧会を開催中(2023年5月10日まで)。こちらも世界中のコロナ禍やアメリカの政治的混乱などを背景にして、この数年に描かれた作品が並んでいる。
ラシード・ジョンソンの代表的なモチーフである『Broken Man』の青いシリーズ『Bruise Painting』と、新たなモチーフである『Seascape』は、共に2022年の作品で、ジョンソン独特のともに深みのある青をふんだんに使っている。photography:Miyako Kai
2022年の連作『Untitled Broken Men』は、タイルや石けんなどを使ったモザイクアート。photography:Miyako Kai
ニューヨークを本拠地にするDavid Zwirner(デビッド・ズワイナー)では、タイ人アーティストのRikrit Tiravanija(リクリット・ティーラワニット)による『The Shop』を5月6日まで展示中。ティーラワニットは展示する土地の文化を取り入れることに熱心で、エレベーターを降りるといきなり目に飛び込んでくる、香港の典型的なローカル雑貨店のセットに度肝を抜かれる。その中を通って進むと現れる、SF的な展示スペースで体験するインスタレーションは驚きの連続だ。
H Queen’s 5階にあるDavid Zwirner入り口に忽然と現れたローカル雑貨店は、リクリット・ティーラワニットならではのインスタレーション。photography: Miyako Kai
展示は頻繁に入れ替わるものの、美術館とは違うアーティストとの同時代感覚や自由なセンス、アートフェアにはない統一感や親密感がある、ギャラリーならではのアートの魅力を香港で満喫してみては。
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初心者のためのアート購入、基礎知識。
ギャラリー巡りをするほどに「いつかアートを購入したい」と考える人もいるはず。世界で大小さまざまな規模のコレクション構築を支援している上述の寺瀬氏に、アート購入へのはじめの一歩についてうかがってみた。
「日本では長いこと、アートとは高尚なもの、購入するのは一部のインテリ層や富豪のみ、と認識されてきました。でも欧米、香港やほかのアジア諸国ではかなり感覚が違って、とてもカジュアルです」と寺瀬氏。「自分が頑張って稼いだお金で、気に入ったアートを購入して自宅に持ち帰り一緒に暮らしてみると、とにかく楽しくて新たな興味が湧くし、世界が広がりますよ」
初心者であれば、まずは市場の感覚を掴むために、サザビーズ、クリスティーズなどの世界的なオークション会社や、有名ギャラリーのウェブサイトを眺めてみるといい、と寺瀬氏。「いま、どんな作品が出ていて売れているか、どんな値段がついているかなど、なんとなく見ているうちに掴めてきます」
何億円もするものばかりなのではと思う方にも朗報! 「コロナ禍以降、アート業界はさま変わりして、より身近になりました。いまでは世界的なオークション会社でも数万円~数十万円で買えるアイテムを扱っていますし、オークションのライブストリームも誰でも楽しめるエンタメになっていますし、ギャラリーやアートフェアではネット販売など促進しています。気に入った作品があれば、気軽にアートを購入できる環境は整ってきています。アートは一部の限られた人だけの趣味ではないので、気軽にコレクションの世界に入ってきていただければと思います」
とはいえ「やっぱりデジタルではなく、なるべく多くのアートを自分の目で見てほしい。体験を重ねるほど、アートを見る目を養うことができます」と寺瀬氏は力説。
アートを生業にする寺瀬氏だが「アートの良し悪しは、決して値段の高低では決まりません」と断言。さらに「最近では、アートは儲かるという論調もありますが、投資目的だけの購入はおすすめしません。あくまで好きなものを購入した時に結果として付いてくるものであって、いままで見てきたお客様の中でも、投資だけを考えてうまくいった例というのはほぼありません」
そんな寺瀬氏の言葉を思い出しながら、次の香港ではアートギャラリー巡りを楽しんでほしい。
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日本を愛するフィンランド人シェフの技あり美食「Arbor」。
H Queen’sと言えば、アートとともに注目の飲食店が連なることでも知られている。その筆頭が25階にあるミシュラン2ツ星の「Arbor」。フィンランド人のエリック・ラティ氏が率いるこの店は、高品質で新鮮な食材の宝庫である日本の食文化に影響を受けつつ、ノルディックのナチュラルな魅力に満ちあふれていて、熱心なファンが多い。
ゆったりとしたインテリアと、3面の窓からの中環のダイナミックな都市の風景のコントラストが魅力的。Photography: Miyako Kai
そんな彼のスタイルが如実に表れているのが、一見コハダの握り寿司に見えるこの一品。実はシャリではなく、スウェーデン産のジャガイモを使ったポテトサラダがコハダの酢じめの下に隠されている。「米と言えば日本と同様に、ジャガイモと言えばスウェーデンなのは譲れない」というラティ氏のこだわりだ。「コハダの下ごしらえは、日本の寿司名人に教えてもらった技を生かしています。光り物の魚のマリネとジャガイモの組み合わせは、ノルディックの基本でもあるんですよ」
「Arbor」らしさにあふれるコハダとポテトサラダの組み合わせには、西洋版のわさびであるホースラディッシュが添えられている。photography: Miyako Kai
一見デザートのような、マグロのパンケーキ包みには魚の骨のスープ、大根の漬け物、キャビアなどが添えられて、味のバラエティをそれぞれ楽しめる。photography: Miyako Kai
ラティ氏のバランス感覚と豊かなアイデア、フィンランドと日本への愛に満ちあふれた料理の新作が「マグロの青のりとほうれん草のパンケーキ包み、甘酢入りホイップクリーム添え」。フィンランド名物であるほうれん草のパンケーキの中には、奄美諸島で獲れたマグロの漬けや少量の米が挟まれていて、どこか太巻き風でもある。
開店5年目にしてますます研ぎ澄まされていくシェフのセンスと、奇抜な組み合わせでも、食べてみると繊細でとにかく美味であることが、この店が支持される理由だ。
アートを堪能した後に、五感を再びフル回転させる食の時間を楽しんで。
第1回:新しい香港の顔! アジアの現代美術館「M+」へ
第2回:好奇心を刺激する「香港故宮文化博物館」の魅力。
第3回:香港愛、文化、アートに触れるふたつの地元美術館。
第4回:アートバーゼル香港が主役の華やかアート月間。
text: Miyako Kai
2006年より香港在住のジャーナリスト、編集者、コーディネーター。東京で女性誌編集者として勤務後、英国人と結婚し、ヨーロッパ、東京、そして香港へ。オープンで親切な人が多く、歩くだけで元気が出る、新旧東西が融合した香港が大好きに。雑誌、ウェブサイトなどで香港とマカオの情報を発信中のほか、個人ブログhk-tokidoki.comも好評。大人のための私的香港ガイドとなる書籍『週末香港大人手帖』(講談社刊)が発売中。