連載【石井ゆかりの伝言コラム】第22回「中秋の名月(十五夜)」&「新学期」
石井ゆかりの伝言コラム 2019.09.01
第22回「中秋の名月(十五夜)」&「新学期」
意識的に月を見上げるようになったのは多分、ここ10年ほどのことだと思います。今では見上げた時の月の方角と時間だけで、その月が満ちていく月なのか欠けていく月なのかがぱっとわかるようになりましたが、星占いを始める前はそんなことはまったくわかりませんでした。
毎年「中秋の名月」が近づくと、色々なメディアやニュースなどでアナウンスされ、多くの人が当日の天気を気にしたりします。
でも、その「中秋の名月を待つ」観点にも、様々なものがあることに気づきました。
たとえば、お団子を売る和菓子屋さんと、望遠鏡やカメラでの撮影旅行を計画する天文ファンと、翌日の新聞記事のための写真を撮ろうとしている記者と、古くからの儀式や祭事の準備をする人と、私のような占い関係の人とでは、まったく違った「中秋の名月」を待っているのではないでしょうか。願い事をしようと待ち受けている人、大きな月に驚いて声を上げる幼い子、月を見るのが「良くない」と考えて家の中に入る人など、同じ月の下で、私たちはいかにも別々の行動をとります。心の中の月は、別々なのです。
見上げているのは同じ、ひとつの月なのに、私たちはそれぞれ、別世界でまったく別の意味を持つ月を受け取っている。そう考えると、何か寂しいような、もどかしいような気もします。私たちは人間同士で作り上げた「意味」によって、月さえも「分断」してしまっているのでしょうか。
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日本では学校の「学年」の始まりは春ですが、海外では秋に新学年が始まるところが多いそうです。
少なくとも日本では、秋と言えばものがなしく、センチメンタルな時季、というイメージも強く、ここから「新しい学年が始まる」というフレッシュなタイミングとはどうも、折り合いが悪いような感じもします。秋に学年が始まる世界で育った人には、秋という季節自体が、また違った印象・世界観をもって捉えられているのだろうと思います。
私たちは現代社会において、同じものを見つめながら「自分が見ているのとはまったく別の視界が存在する」ということを意識せざるをえないところに来ているようにも思われます。コミュニケーション手段が発達し、遠く離れた場所のニュースや人々の声にすぐ触れられるようなこの時代では、たったひとつの世界観の中に没頭し、その「外側」のことは一切考えなくてもいいような、「閉じた世界」を生きることは困難です。もとい、現代は「誰もが歌えるヒット曲」がない、と言われるように、他者と物事を共有しづらい世界です。いわゆる「クラスタ」といった、似た嗜好や知識を持つ人々の細かい集団が形成され、たがいに分断されている、と言われていますが、「自分が所属している集団の外側に、まったく違った集団がたくさん存在する」ということも、常にちらちら見えてしまっているのではないでしょうか。誰しも「井の中の蛙」のような面を持っているわけですが、それにもかかわらず、いつも「ほかにも無数の井戸があり、そこにそれぞれのカエルがいる」と感じ続けていなければならないのは、不安なことです。信じられるものもアイデンティティも、すべて相対化されてしまうからです。もしかすると、「世界」がたくさんありすぎる・見えすぎることによって、深い疲労を抱えている人も少なくないのでは、という気もするのです。
たとえば平安時代の文学には頻繁に「出家」のことが書かれます。西洋の小説にも「修道院に入る」ことがごく一般的に描かれます。もちろん、社会に深く関わりながら生きた宗教者はたくさんいますし、実際にその「中」に入ったらさまざまな不自由と抑圧、苦悩があるはずですが、でも時々「たったひとつの世界観を限りなく純粋に生きる」というような生き方を、ほんのりと想像したくなる時もあるのです。
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