嫌われ者から次期王妃へ......カミラ夫人の長い道のり。
Culture 2022.02.10
チャールズ皇太子と1971年に出会い、35年後に結婚するまでの間、カミラ夫人はさまざまな名称で呼ばれてきた。忌々しい愛人、性根の悪い継母、王室の嫌われ者。現コーンウォール公爵夫人、そして未来のイギリス王妃であるカミラ夫人の肖像。
チャールズ皇太子の妻、カミラ夫人。2020年10月26日、テトベリにて。photo: Getty Images
ダイアナ妃は彼女のことを「ロットワイラー犬」と陰で呼んでいた。長い間イギリス国民からは夫を盗んだ女、ダイアナ妃の破滅をもたらした女とみなされていたが、今日、誰もが認めざるを得ないのはカミラ・パーカー=ボウルズがコーンウォール公爵夫人であること、そして次期イギリス王妃(クイーン・コンソート)となったことだ。エリザベス女王は在位70年のプラチナ・ジュビリーの際に声明を発表し、「やがて時が経ち、息子のチャールズが王になったとき、息子と妻のカミラ夫人にみなさまからきっと、私と同様の支持をいただけることでしょう」と述べた。これまでの経緯を知っている者にとっては大きなターニングポイントに感じた。
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かなわぬ恋
当初、皇太子との関係はかりそめのかなわぬ恋と見られていた。カミラはすでにイギリス王室と親しいアンドリュー・パーカー・ボウルズと交際していたため、チャールズとの仲は認められなかった。(1979年10月21日) photo: Tim Graham / Getty Images
振り返れば、ロイヤルファミリーの前でカミラの名前を口にすることさえはばかられる時期もあった。こっそりささやくのが精一杯だった。ダイアナ妃が怒り狂い、王室メンバーが困惑することが目に見えていたからだ。みんなで消し去ろうとしたものの燃え続けた恋の炎。その始まりは1971年、チャールズ皇太子がチリ人の知人女性を介して英国陸軍少佐の娘カミラ・シャンドと出会ったときに始まった。皇太子は当然のようにひと目惚れし、しかしながらこの恋はただちに王室からストップがかかった。エリザベス女王とフィリップ王配は、すでに別な相手がいる女性との真剣交際などもってのほかだと考えたのだ。実際、カミラはアンドリュー・パーカー・ボウルズと婚約する目前だった。アンドリューは当時のデビュタントの女性たちの憧れの的で、しかもアンドリューの一家はクイーン・マザーと親しい。カミラ自身は一般的な美人というわけではなかったが、イギリスのタブロイド紙が軒並み書いていたように、出会った男性をことごとく惹きつける魅力の持ち主だった。
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「この結婚には3人が存在していた」
最初は(素朴に)カミラと仲良くしていたダイアナは、すぐに彼女の宿敵となった。1995年、BBCによるスキャンダラスなインタビューで、ダイアナ妃は「この結婚には3人が存在していた......少し混みあっている」と語っている。 (1980) photo: Getty Images
チャールズ皇太子にふさわしい相手としてダイアナ・スペンサーの名が挙がった。生粋の貴族であり、イングリッシュローズのようにチャーミングな女性だ。『イギリス国王チャールズ』の著者ミシェル・フォールは某インタビューでこんなふうに語っている。「チャールズは、どの宮廷でもかつて当たり前だった発想をしたのだろう。つまり、妻というものは王家の存続のためであり、それとは別に愛人を持てばいい、とね。でも80年代にそんな発想は一般的ではなくなっていた……」
結婚してカミラ・パーカー・ボウルズとなったカミラ自身はロンドンから西に100マイル行ったウィルトシャーの地で少佐の妻として、また2児の母として暮らすつもりだったのかもしれない。しかしチャールズ皇太子はますます頻繁にハイグローブハウスに出かけるようになった。この田舎の地所は、みんなが皇太子の愛人と目するカミラの家から車で20分のところにあった。1995年、BBCによるかの有名な、そしてスキャンダラスなインタビューでダイアナ妃はこう語っている。「この結婚には3人が存在していた......少し混みあっている」と。また、彼女の伝記を書いたアンドリュー・モートンのインタビュー録音のなかでダイアナ妃は1981年の結婚式の数日前に、「G F」のイニシャルが刻まれたブレスレットを見つけたことを語っている。「グラディスとフレッドはふたりのニックネーム」で、1950年代に放送されたラジオコメディ番組(『ザ・グーン・ショー』)の不条理なキャラクターから名付けられたそうだ。
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ウェールズ戦争
1992年、チャールズとダイアナの別居が公表され、1993年には「カミラゲート」、すなわちチャールズとカミラの電話での会話がすっぱ抜かれる事件が起きた。(2000年6月23日、ロンドン)photo: Colin Mason / Abaca
チャールズ皇太子は結婚式の前夜に泣いたと言われている。結婚式当日のウェストミンスター寺院でダイアナ妃は「祭壇に向いながら、まるで屠殺場に送られる子羊のようだった」と描写された。それも無理はない。ふたりの結婚式に続く10年間はイギリス国民に「ウェールズ戦争」と言わしめたほど殺伐とした日々だった。国民の目の前でお互いを貶め、欺き合う状況が続いた。この間、カミラはチャールズ皇太子が心を許すことができて、またチャールズ皇太子に対して率直な物言いで普通に接してくれる唯一の相手だったようだ、とカミラの伝記を執筆したイギリスの著名作家ペニー・ジュナーは語っている。
1992年、戦いは終わり、チャールズ皇太子とダイアナ妃は正式に別居した。そして1993年、「カミラゲート」が起きた。チャールズ皇太子とカミラの電話での会話がすっぱ抜かれたのだ。電話の中でエリザベス女王の息子は恋人の「ズボンの中に住みたい」などと言っていたことからスキャンダルとなった......ダイアナ妃との離婚は1996年12月に成立し、ダイアナ妃は翌1997年8月31日にパリで悲劇的な死を遂げた。
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ゆっくりと飼いならす
2005年4月8日、チャールズ皇太子とカミラはウィンザー城で簡素な式を挙げ、ついに結婚した。photo: Abaca
イギリス中がショックを受け、王室は喪に服した。そして「グラディスとフレッド」は人々の話題に上らなくなったことに胸をなで下ろした。2005年4月8日、ウィンザー城での簡素な結婚式に先立つ時期のふたりの写真は確かにほとんどない。エリザベス女王は当初、チャールズ皇太子の公邸であるクラレンス・ハウスに、カミラのバスルームを設ける内装費用に王室予算を使うことを拒み、婚姻届への署名式にも出席しなかった。しかしながら結婚式ではふたりを温かく祝福したと言われている。カミラはチャールズ皇太子との結婚により、正式にウェールズ公妃となるもダイアナへの敬意からこの称号を使わず、その他の称号の中から選んだコーンウォール公爵夫人を今日に至るまで名乗っている。イギリス国民の多くから嫌われていたことからチャールズ皇太子との結婚当時、彼女が王妃(クイーン)と呼ばれることはなく、チャールズ皇太子が即位した暁には国王夫人(プリンセス・コンソート)以外の称号は持たないと発表された。
しかし、ロンドン橋の下に流れる水のごとく、時も流れる。カミラ夫人は公の場でほとんど発言せず、王室で目立たないように行動してきた。いまではイギリス国民も渋々認めざるを得ないほど、チャールズ皇太子をたゆまなく支え、キャサリン妃に対しても面倒見のよい義母として振る舞っている(メーガン夫人との仲は誰も知らない)。メディアに対してもオープンな態度で、常にカメラマンに愛想よく振る舞ってきた。彼女を知るジャーナリストは口を揃えて、きさくでとても面白い人物だと言う。時にはそのユーモアセンスが相手への礼を欠く結果になることもある。たとえばカナダで行われたイヌイットの伝統的なパフォーマンスで、夫妻が笑い転げたことは当時大きく報道され、ひんしゅくを買った。
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女王陛下万歳
ガラパゴス諸島にて。2009年3月17日。photo: Abaca
エリザベス女王は、彼女に王妃(クイーンコンソート)の称号を与えることで議論をきっぱりと終わらせ、世間に受け入れられるための長い道のりを歩みはじめた。作家のロバート・レイシーによればウィリアム王子とハリー王子は正式な王妃の称号をカミラ夫人に与えることに反対していたようだが、もはやふたりの出る幕はない。現在、カミラ夫人は100を超えるチャリティ団体を後援または主宰している。いつの日かエリザベス女王が亡くなったら、彼女がイギリス国民の「カミラ王妃」になるのだ。
その間、彼女はいつも微笑みながら皇太子の数歩後ろに控えている。チャールズ皇太子にとってはおそらく彼女が唯一の真実の愛なのだろう。2012年のパプアニューギニア旅行の後、チャールズ皇太子はカミラ夫人についてこんなふうに語っている。「彼女は楽しんだようです。そして彼女がいかに特別な存在なのかを滞在先の皆さんにわかってもらえたことを願っています。優しくて地に足のついた人だと思ってもらえたのではないでしょうか」と。チャールズ皇太子は他の誰に関してもこのように愛情のこもった言葉を公に口にしなかった。1981年2月、ダイアナとの婚約発表の日、BBCのリポーターから「おふたりは愛し合っていますか」と聞かれ、「愛がどんな意味かによる」と辛辣な発言をしていたぐらいだ。
text: Marion Galy-Ramounot (madame.lefigaro.fr)